和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

九十(ここのそぢ)なかば過ぎたる。

2019-01-04 | 詩歌
1月だけ、読売新聞も購読することに。

1月3日読売新聞の文化欄。
  岡野弘彦氏の短歌三首。


 九十 なかば過ぎたる老いの身は 
      なほぞはるけき 人を思へり

 ふるさとの朝鮮に身をのがれゆき
     行方しれざる 友を忘れず

 海峡をはるか去りゆく船の灯は
    こよひも明かし。 独り寝むとす


新年の挨拶状をいただけたようで、感謝して読みます。
私など岡野弘彦氏のいない読売歌壇を思い描けないなあ。

ちなみに、岡野弘彦氏は1924(大正13)年、三重県の
代々神主の家に長男として生まれる。

こういう方と直接つきあうことがあるならば、
きっと、私など黙して語れないかもしれない。
活字なら手もとも軽く引用したり、語れたり。


そうそう、その次には小池光氏の3首。
そこから、一首をここへ。

 正月の新聞広げ足の爪きりてをりたる父をおもへり

はい。ぐっと身近な感じになります(笑)。




 
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とっくに中年をすぎたころ。

2019-01-04 | 本棚並べ
外山滋比古著「忘れるが勝ち!」(春陽堂書店)。
外山滋比古氏の新刊は多く、買うか買うまいか、迷います(笑)。
外山氏の本には、ときどき、私の知らない出版社から出た本が
まじっているのが気になっておりました。
今回の「忘れるが勝ち!」は春陽堂書店が発行所となっている。
うん。それで興味をもちました(笑)。

帯には「95歳、わたしは忘れることで生きてきた。」
とあり、帯には顔写真掲載されています。最近のお顔なのでしょうね。
はい。「待望の書下ろし」と赤枠。

あとがきの最後を引用。

「・・・
とっくに中年をすぎたころ、
何がきっかけであったか覚えていないが、
新しい生き方があるらしいことに気づいた。
・・・
もの覚えがわるくても、
頭がわるいとは言えない。
忘れっぽくても、
よくはたらく頭というものが
あるのではないか。
そう考えたのである。
ひょっとすれば、
そういう人間になれるかもしれない。
記憶がよくないからといって、
あきらめることはないのではないか。
そんな風に考えていると、
不思議と元気が出る。

本が読まれなくなった、
となげく声がなお続いているが、
発明、発見、独創を生むには、
あまり本など読まない方がよい
という考えが広まらないのは、
ひとつの問題であるとしてよい。
本をあまり読まなくても、
われわれは賢くあることができる。
本書は、その入り口である、
と考えてもらうとありがたい。

 2018年11月20日 外山滋比古 」


はい。本文からも一箇所引用。
「伝記と風化の関係」と題した5頁ほどの文。

ヘミングウェイの自殺について、
専門家が判断を誤った。ということから書き出して

「すこし風を入れないといけない。
まったくの第三者があらわれるのを
待ってもおそくないのが伝記である。

風化をおこす時間と距離がないと、
しっかりした伝記は生まれないことになり、
せっかちの多い日本に、
見るべき伝記がはなはだ少ない。」(P62)

「伝記にはやはり、
風化、忘却の期間が必要である。
よく知っている人より、
あまりよく知らない人の方が、
よい伝記を書くことができるのは、
おもしろい。」(P64)


うん。外山滋比古氏の本を読んでいると、
つい。思い浮かべる岸田衿子の詩があります。


  一生おなじ歌を 歌い続けるのは
  だいじなことです むずかしいことです
  あの季節がやってくるたびに
  おなじ歌しかうたわない 鳥のように

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