和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

正月対談(1971年)。

2020-01-02 | 先達たち
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社・昭和59年)。
ここに、司馬遼太郎と桑原武夫の対談が載ってる。

まずは、この本の紹介。
はじまりに山田稔氏の「楽しき逸脱」という8ページの
紹介文が載っており、各対談のはじまりには、
桑原武夫氏のコメントがついておりました。
司馬さんとの対談のコメントは、こうです。

「司馬さんとは何度も対談した・・・
いつもこれほど楽しい話相手はない。
しかし、それはこわい相手ということでもある。
今回は・・・・私が少し押され気味というところであろう。」

ちなみに、司馬さんとの対談の題名は
「『人工日本語』の功罪について」とあります。
コメントをつづけます。

「自然言語から文明言語に移るときに
失われてしまうもののあることは否定できないが、
この移行は歴史的に不可避なものである。

そのさい混乱を少なくし能率をあげるために、
人工的規制を加えることが多くの滑稽さを生む
ことは事実である。

文学者ないし文筆にたずさわる者の任務は、
機能化されたことばの組合せの中に、
人間の自然の美しさをどのようにして
生かすかを工夫するところにある。・・」
(p44)

はい。この対談の最後の箇所を
引用してみることにします。

司馬】 ですから、日本語というか、日本語表現の場所は、
もうどうしようもないものがあるのかもしれない。

桑原】 いや、日本語はもうどうしようもないと、
あきらめに話をおとさずに・・・・、正月早々だから・・・(笑)。
まあ、日本語は、いままで議論したように、基礎はできた。
   ・・・・・・・・・・・・・
コンピューターを動かすには、少なくともそれなりの
論理性がなければならないんです。ですから、
コンピューターが普及する過程で、
ちょっと楽天主義のようですが、おのずとわれわれの
生活に論理性ができてくるのではないでしょうか。
もちろんコンピューターというのは一つのたとえですが、
日本人は論理性がないから駄目なんだ、
という決め込みはいけませんよ。ですから、
司馬さんが亡くなる時代には、日本語がもっと
よくなる可能性はあると思います。

司馬】 理屈も十分喋れて、しかも
感情表現の豊かな言語になる。

   ・・・・・・・・・・・

桑原】 さっき司馬さんがおっしゃった、
理屈が十分喋れて、しかも感情表現が豊かな日本語・・
そこに持っていくのは、われわれ生きている者の
義務じゃないでしょうか。

司馬】 いい結論ですね。


対談の最後を引用しました(p66~68)
ちなみに、この対談が掲載されたのは
「文藝春秋」1971年1月号とあります。
司馬さんが亡くなったのは1996(平成8)年。
亡くなってから、四半世紀が過ぎるのでした。



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