和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「お花置いときまひょか」

2020-01-21 | 京都
吉田直哉著「まなこつむれば・・・」(筑摩書房)。
その最後の章は「レクイエム」。そして、
本の最後は「武満さんの先駆的な旅」。
そこから、引用。

「『音の四季』の録音素材を聴いているときに、
彼(武満徹)が、京都の大原女(おおはらめ)の、

『花いりまへんかあ、
きょうはお花どうどすやろ、
花いりまへんかあ、・・・・・
きょうはお花置いときまひょか、
お花どうどすう、
きょうはお花よろしおすか、
花いりまへんかあ』

と売り歩く、老若ふたりの掛け合いの声に
こっちが驚くほど感動したことがあった。」(p256)

こうして
「自分にきかすような声で教え」てくれる武満さんに、
つぎに吉田直哉さんが聞きかえす場面がありました。

それはそうと、『大原女』。

宮本常一著「私の日本地図14 京都」に
『白川女(しらかわめ)』をとりあげた箇所があります。
ちなみに、この本は昭和50年1月5日に書き上げたと
あとがきにあります。

では『白川女』がでてくる箇所。

「・・詩仙堂のあたりから浄土寺町あたりの山麓地帯は、
ごく近い頃までは一面の田や畑であった。そして、
白川女(しらかわめ)たちの出たところである。

白川女というのは、その白川から京都の町へ
物売りに出た人たちであった。古い絵巻物を見ると、
昔の女たちは物をみな頭にのせて運んでいる。
しかしそういう風習は時代が下るにしたがって
次第にすたれてゆき、背負ったり荷なったりする
風習の方が盛んになり、今日では日本のところどころに
点々としてみられるにすぎなくなったが、
京都の周辺にはこの風習を残している村がいくつかあった。
白川、大原、畑(はた)、賀茂などがそれであるが、
物を頭にのせることは共通していても、
服装には少しずつの差があった。

白川の女たちは手拭を姉さんかぶりにかぶり、
紺の手甲(てっこう)をし、袂(たもと)付の着物を
タスキがけにし、三幅前垂(みはばまえだれ)をつけ、
着物の裾を端折り、その下から白い腰巻を出し、
白い脚絆をつけ、草履をはいていた。
そして自家で作った花などを頭にのせて
京都の町へ売りに来たのである。
 ・・・・・
洛北の大原から薪や柴を売りに来る女たちは、
カタソデという刺繍をした黒い布をかぶり、
三幅前垂をしていることは上賀茂とおなじだが、
着物を端折ることはなかった。
着物は鉄色の無地が多かった。
そして前垂は絣(かすり)を用いていて、
それがよく似合った。
 ・・・・・・
白川、上賀茂などは
もう何ほども畑がのこっておらず、
こういう風習もすたれてきたかと思われるが、
大原女はまだ京都の町をあるいているのを見かける、
京都の周囲の農村の女たちは、このようにして
京都の町にその生産したものを売りあるいて
生計のたしにしたのであった。」
(p53~55)

ここで、せっかくなので、
宮本常一の「あとがき」を紹介。
それは、こうはじまります。

「京都という町は
何回もおとずれたか思い出せぬほどである。
しかもできるだけ電車やバスにはのらないで
歩くようにしたのである。
つとめてあるいたというのではなく、
あるいているといろいろのものにぶつかる。
その一つ一つが考えさせられるようなことがあった。」

こうはじまる『あとがき』なのですが、
その最後の方に、こうあるのでした。

「・・・そして京都というところは
京都の中にいて京都を見るのではなく、
京都の外にいて京都を見ることも
重要ではないかと思う。」(p251)


これなど、関東の片隅で関連する
京都の古本を、ひらいてる私には、
ハッとさせられる心強い指摘です。


コメント
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