ちょっと、家の中で探しものをしていると、
新聞連載の梅棹忠夫「私の履歴書」を、
スクラップブックに貼ったのが出てくる。
うん。ひらいてみると、
その⑩回目は『大学入学』という題。
気になるので読んでみる(笑)。
はじめから引用。
「1941年の春・・・大学を受験した。わたしは
はやくから動物学を専攻することにきめていた。
三高在学中の最後の一年は植物採集にはげんだ。
いずれ動物学をやるのだから、いまのうちは植物の
基礎知識を身につけておきたいとおもったのである。
胴乱をもって北山へゆき、野草をとって腊葉(さくよう)
標本をつくった。小学校以来の昆虫標本は全部すててしまった。」
はい。このあとに受験の記述があります(笑)。
「動物学専攻の募集人員は五名で、
入学志願者はわたしだけだった。
理学部の受験生は大部屋で待機していて、
学科ごとに呼びだされて試験場へゆく。
動物学の受験生として名をよばれたのは
わたしひとりであったので、ほかの受験生
たちはいっせいに大わらいした。
入学試験は口頭試問だった。試験官は
動物生態学の川村多実二教授だった。
学科については一言もふれずに、
家の経済状態だけをたずねられた。
そして『ここをでても食えないよ』といわれた。
わたしはもちろん覚悟のうえであった。」
はい。入学してからも気になるので
つづけて引用してゆきます(笑)。
「大学に入学してからは、わたしは
まことにたのしい日々をおくった。
どの学科もほんとうにおもしろかった。とくに
動物系統分類学や生態学はおもしろかった。
わたしは夢中で勉強した。
すきでえらんだ学科ではあったが、自発的な
勉強がこんなにたのしいものであるとは、
うまれてはじめての経験だった。
講義には選科生や他学部の学生もくわわったが、
ときには一対一のこともあった。学生は
各回生ともひとりないしふたりしかいないのに、
教官のほうは教授、助教授、講師、助手と
全部で十数名おられる。これは
まことにぜいたくな教育であった。」
はい。以下も引用したいのですが、
これくらいにします(笑)。
そういえば、今西錦司・西堀栄三郎の
大学受験が、気になります。
まずは、今西錦司の場合。
これは、梅棹忠夫の「ひとつの時代のおわり」
そのはじまりにありました。
うん。はじまりから引用。
「1992年6月15日、午後7時33分、今西錦司博士は
京都市北区の富田病院において息をひきとった。
死因は老衰であった。享年90歳。
今西は京都帝国大学理学部動物学教室で
理学博士の学位をえたが、出身は農学部
農林生物学科昆虫学教室である。かれが
理学部で動物学を専攻せずに、農学部で
昆虫学を専攻したことには理由がある。
理学部の動物学教室では夏やすみに
臨海実習が義務づけられていた。
南紀白浜にある京大理学部附属の
瀬戸臨海実験所で、海洋生物学の実習を
うけるのである。農学部の農林生物学科には
それがなかった。今西はこの理由から
農学部をえらんだのである。
今西は少年時代から山にのぼっていた。
・・・三高時代に、すでにさかんになりつつあった
学生登山界のかがやける星であった。・・・
当時、すでに未登攀の岩峰や岩壁は数がすくなく
なってきていた。学生登山界は、そののこされた
栄光をねらって猛烈な競争の時代にはいっていた。
夏やすみにはいるとすぐに未登のピークにとりつかないと、
よその学校の山岳部にやられてしまうのである。
臨海実習などで時間を空費することはできない。
こうしてかれは、夏やすみになるとすぐに行動にうつれる
農学部をえらんだのであった。
大学卒業後は理学部の動物学教室に移籍して、
そこでながく無給講師をつとめた。・・・・」
はい。引用がながくなりました。
つぎ、西堀榮三郎氏。
西堀榮三郎選集別巻(悠々社)の
「人生にロマンを求めて 西堀榮三郎追悼」。
そこに難波捷吾氏が書いておりました(p347)
「この時代の連中は楽しく勉強した。
学問を好きでやっているので、
立身出世の手段などという考え方は
毛頭存在しない。戦後何年かたって、
私は当時KDDに勤めていたが
ある時会社が西堀君を招聘して、
話をしてもらったことがある。
講演を終わって社員の一人が
『先生はどうして理学部化学科を選んだのですか』
という質問をしたところ、西堀先生曰く、
『実をいうと、南アルプスの白根山の北岳(3192メートル)
に冬期初登山をしたいのだが、大学の入学試験と日が重なる。
それで友人に、どの学科でもよいから入学試験のない
学科に願書を提出しておいてくれ、と頼んで登山に専念した。
幸いにして首尾よく登頂に成功して下山すると、
『あなたは理学部化学科に入学しています』という吉報で、
『ああ、そうか』という次第・・・・』
彼の面目躍如たるものがあり、
質問したKDD社員のほうは唖然として嘆息。
・・・」
うん。この西堀榮三郎追悼の本には、
ご自身の本「人生にロマンを求めて」から、
3ページほどの引用がされておりました。
京都に関連するので、最後はそこから引用。
「京都人は、よく新しいことをする人たちだと言われてきた。
・・・・・私は新しいことをする京都人と、
古い歴史を大切にする京都人とは、
どこかで結びついているような気がしてならない。
それはなぜかと問われると
『京都にはお寺がたくさんあるから』と言いたい。
京都は古くから信仰が盛んであった。
それが京都人のなかに知らず知らず
のうちに染み込んでいて、何か新しいことを
するときに大きな支えになっているのではないだろうか。
初めて南極に行くとき、
私は出発を前にして何か忘れ物をしているような気がして、
不安で不安でしかたがなかった。
しかし、ひとたび、神は必ずわれわれを護ってくださる
のだと信じると、今までの不安がすうっと消えていった。
創意工夫さえすれば、あるだけのものを使って
かならずや越冬をやりとげられるのだと、
自信のようなものが湧いてきた。
すなわち『人事を尽して天命を待つ』
という気持で臨んだのである。
ともあれ、青少年諸君には
大きなロマンをもって、その実現に向かって
進んでもらいたいものである。」(p24)