和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

西堀栄三郎の京都弁。

2020-01-11 | 京都
そういえば、と未読本を本棚から、とりだす。
西堀栄三郎選集別巻
「人生にロマンを求めて 西堀栄三郎追悼」(悠々社)。

稲葉秀三の「西堀話術の魅力」(p25~27)に

「西堀さんは80歳を過ぎてからも、
頼まれればどこにでも出かけられ、
講演をし、座談会に出席することを
やめようとしなかった。・・・・・・・

自分の体験を中心に、わかりやすく、
親しみを込めて話される。これは西堀さんの
独特の話術であり、いつ聴いても印象深い。
・・・西堀さんは京都以上に永くほかの地、
とりわけ東京に住んでおられた。
それにもかかわらず、
あくまで京都弁で語られる。
かくして忘れられない印象を残す。・・・」


パラパラとめくっていると、
最後の方にも、ありました。

小原正典氏の「記憶に残る西堀語録」(p401~404)。

「・・・昭和11年の秋頃、京都大学から東京電気(現東芝)の
研究所に着任された時である。当時私はその春入社した
ばかりの新人だった・・・・・・
お人柄には強烈な感銘を覚えた。
学識のほどはいわずもがなだが、
それを披歴する話術の妙は全く
魅力的であり説得力があったので、
われわれ研究所の若い者はたちまち
そのファンとなった。関西弁を全く
違和感を与えずに駆使されたが、
その結果、西堀さんの指導された現場の
人たちまで、口真似で関西弁を使って
議論するのが流行したぐらいである。」

うん。せっかく『東芝』とあるので、つぎの頁に、
それにまつわる箇所があったので引用。

「東芝真空管研究グループのボス浜田さんは、
大人の風格をもつ正義感に満ちた信念の人で、
われわれ若者はまったく心服していた。
西堀さんの招聘に当たっては浜田さんの尽力が
大きかったようだが、西堀さんは浜田さんを支えて真空管
(当時は現代の半導体ICに匹敵する時代の花形であった)
製造技術の確立に献身しておられた。
・・・・戦後、心ならずも東芝を退かれた・・・・」

うん。ほかにもいろいろと、
今西錦司氏との関係もわかる箇所がある。

「今西錦司兄の妹にあたる美保子姉が
西堀栄三郎氏に嫁がれて、京都の北白川や
吉田山に西堀家が居をかまえられていた頃」(p58)

「下鴨の今西の北隣りに、
四条の大店(おおだな)をたたんだ西堀・・の御両親が
静かに余生をおくっていらっしゃいました。」(p28)


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