須田剋太画伯の『街道をゆく』の挿画をカタログで眺めていると、
落ち着かない気分になってきて、それを合点させくれる言葉を欲しくなる。
ということで、「司馬遼太郎が考えたこと」の9巻・11巻・14巻をとりだす。
司馬さんと、須田画伯との仕事での出会いがあってからでした。
「 須田さんは旅をしているうちに、
『 しばさん、これ、やめないでおきましょう 』
と言いはじめたのです。これとは『街道をゆく』のことです。
私(わつち)はこのおかげですっかり健康になりました。
などといって上機嫌でした。
はじめのころ須田さんは65歳でした。私は17歳も下で、
まだ40代でしたから、須田さんがずいぶん年長に感じられましたし、
いずれお弱りになるだろうと思い、そうですね、
といいかげんにうなずいた記憶があります。
そんなわけで、あのようにながい歳月を
ご一緒するはめになってしまったのです。・・ 」
( p497 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )
ということで、須田画伯の挿画をもっとも身近でよく味わっていた
司馬さんの言葉が、画伯の挿画のもっとも雄弁な水先案内人になります。
そういう視点で、司馬さんの言葉をもう一度引用しておきたくなります。
「 剋太の芸術を語るのに多くの喋々(ちょうちょう)を要しない。
芸術は心の表現であるという素朴で初原的な姿勢を、
かれは半世紀のあいだすこしも外すことなく続けてきた。
その間、装飾性に韜晦(とうかい)せず、流行でもって渡世せず、
道元によって触発された自分の精神のかがやきと
その光の屈折をすこしでも表現しようとして生きてきた。・・・ 」
( p199 「司馬遼太郎が考えたこと 9」新潮文庫 )
「 おそらく画家(須田画伯)には、土霊のようなものに
感応しやすい生来の感受性が備わっているのであろう。
この場合の土霊とは、伝統の文化がついに土までしみこみ、
さらに草木に化(な)り、ついには気になって
宇宙を循環しているといったようなものである。
もっとも画家の場合、とくにその抽象絵画において・・・
土霊というにおいは、まったく遠い。
しかし、その生き方においては、確乎(かつこ)とした
日本文化のなかにひそむ土霊の上に立っている。
絵を描く者は中世の捨聖(すてひじり)のように
生きねばならないというふうにして生きつづけてきた
この人の姿勢にそのことを感じざるをいえない。 」
(p14~15 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )
『街道をゆく』の挿画で、神社仏閣を描いた箇所をみていると
司馬さんの言葉が思い浮かんできます。
「 画家(須田画伯)には、尋常人のもたない幸運があった。
40歳前に京都や奈良に現れたとき、この人にとって、
そこにある古い建築や彫刻、障壁画などが、
とほうもなく新鮮だったことである。
かれはほとんど異邦人のような目で見ることができたし、
さらにいえば、古代の闇のなかから出てきた
一個のういういしい感受性として、誕生したばかりの新文明としての
平城京に驚き、あるいは平安京にあきれはてているという
奇蹟もその精神のなかでおこすことができた。
この時期の画家はほとんど漂泊者・・だったといっていい。
奈良の寺や宿に仮寓(かぐう)し、ふるい世の仏師が畏れと
ともにきざんだ彫刻を写生したり、さらには古建築の構造美を
自分のものにしたりした。すでに40をこえていたが、なお、
独自の修業法をとる画学生であることがつづいた。
繰りかえすようだが、画家は、山頭火などのように
みずから漂泊者と規定したわけではなく、自然にそうであった。
ついでながら、諸事、このひとにあっては、ことごとしくない。 」
( p18~19 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )
「 そのくせ画を創りあげるときには、
造形を創るという匠気をいっさいわすれ、
地と天の中に両手を突き入れて霊そのものの
躍動をつかみあげることにのみ夢中になる。
しかしながら、鬼面人を驚かすような構成はまれにしかとらず、
たいていは、花や野の樹々といったおだやかな生命を見つめ、
そのなかに天地を動かすような何事かを見極めつくそうとする。 」
( p194 「司馬遼太郎が考えたこと 9」新潮文庫 )
うん。どうしても、司馬さんと須田画伯との密接な距離感を思います。
そのヒントになりそうな箇所としては、
「 この人(須田画伯)の無自覚にちかい出離と、
その強烈な才能をいとおしむ人が、そのつど
出てきては、たんねんに保護した。・・・・
奈良に仮寓していたころ、東大寺の上司海雲(かみつかさかいうん)氏が、
大仏殿を半裸のすがたで物狂おしく写生していたこの人を見つけ、
やがて親しくなった。
『 善財童子(ぜんざいどうじ)をみたような思いがした 』
という旨のことを、後年、上司氏はこの人について書いている。
・・・・・・ 」
( p20~21 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )
はい。『 そのつど出てきては、たんねんに保護した。 』
その最後のバトンを司馬さんが受け継いでおられたのじゃなかったのか。
そうすると、この箇所があらためて印象深く思い返されます。
「 須田さんは旅をしているうちに、
『 しばさん、これ、やめないでおきましょう 』
と言いはじめたのです。これとは、『街道をゆく』のことです。 」
( p497 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )