和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

老典座は大笑いし。

2023-06-01 | 短文紹介
司馬遼太郎著「街道をゆく19 中国・江南のみち」(朝日新聞社ワイド版)
の目次をひらくと、その最後は『天童山』とあります。
そこに、須田剋太画伯との会話がありました。

「 『道元も、このようにして海から甬江に入ってきたのですね』
 道元好きの須田画伯は、鎌倉時代の日本の航洋船に乗って
 三江口をめざしているような表情で言われた。

  『 あすは、いよいよ天童山ですね 』
 とも念を押された。画伯は・・昭和20年代に道元の思想を読む
 ことによって独自の抽象画論を構築されたひとである。

 それだけに、道元の思想的成立の大きな契機をなした
 当時の天童山――とくにそこに住した如浄の禅風の故地――
 には、当然ながら関心がつよい。 」( p372 )

「天童山は、鎌倉の道元のころから伽藍が巨大で、
 他の高楼、殿舎が多かった。・・・

 建物の造形は装飾性がすくなく、簡潔で、1922年の来訪者である
 常磐大定博士も、このことに感じ入り、
 『 我が禅院を彷彿せしめる 』といっている。 」( p377 )

『天童山』の最後のページに、また須田画伯を登場させておりました。

「・・・・須田画伯は、生家にもどった童子のようであった。

 一楼があり、階段をのぼりつめると、
 西洋のベルのようなチューリップ型の梵鐘があった。
 鳴らすには、撞木で撞くのではなく、
 長い柄のついた木槌のようなもので鐘を打つのである。

 『 撞きませんか 』と、中国側の人がいったとき、

 いつもみずから前へ出ることをしない画伯が、めずらしく大木槌を持ち、
 餅つきのようにふりかぶったと思うと、激しく打った。

 鐘はぶじ鳴ったが、画伯はひびきわたる梵音響流(ぼんのんこうる)
 のなかで、いつまでも噛みつきそうな貌(かお)をしていた。 」(p380)

こうして、画伯の姿でしめくくられたおりました。

もっとも、その前に、司馬さんは道元をちゃんと語っておりました。
そこも引用しないと、中途半端な感じでしょうか。
それは、四川省からの類推から語られておりました。
はい。最後にその箇所を引用しておかなければ。

「天王殿の前で、黄衣の老僧に出逢った。副住職の永通法師である。
 40年あまりこの寺にいるという。うまれをきくと、
 
 『 四川省 』と、みじかく言った。
 私は、道元のことを思いあわせた。

 道元が、天童山に入る許可がおりぬまま、寧波港に停泊中の船で
 起居していたとき、一人の老僧が、陽ざかりの道を歩いてはるか
 阿育王山から椎茸を買いにきた。・・・・

 道元24歳、老僧61歳であった。阿育王山で雲水のためにかれは
 料理をする典座(てんぞ)という役をつとめている。
 
 故郷は、西蜀(四川省)である。その故郷を離れて40年になるという。
 若い道元は、40年も修行してまだ料理番をしているのか、と驚き、
 なぜ坐禅修行に専念されないのです、とたずねた。老典座は大笑いし、

 『 外国のお若い方、あなたは本当の学問や修行が
   何であるか、まだおわかりになっていないようだ 』 といった。
   ・・・・

  道元が天童山に入って早々、この老典座がたずねてきてくれたのである。

 『 私も齢をとったから、故郷の西蜀(せいしょく)に帰る。
   うわさに、あなたがこの天童山にいるときいてやってきたのだ 』

 と、いった。道元は感激し、船中での問答をさらにくりかえすと、老典座は、

 『 料理や掃除のなかにも学問や修行がある。それどころか、全世界の
   現象のすべてが真理であり、かつ学問や修行の対象である 』

 といった。道元は、いわば途(みち)ですれちがった程度の
 知りあいであるこの老典座について後年感謝をくりかえし、

 『 山僧(註・自分のこと)いささか文字を知り、
   弁道を了ずることは、すなわち彼の典座の大恩なり。』(典座教訓)

 と言っている。黄衣の永道法師が四川の人であるといい、
 かつ40年修行した、ということで・・・
 
 老典座に偶然符号するように思えたのである。   」( p378~380 )
コメント
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