司馬遼太郎著「街道をゆく19 中国・江南のみち」(朝日新聞社ワイド版)
の目次をひらくと、その最後は『天童山』とあります。
そこに、須田剋太画伯との会話がありました。
「 『道元も、このようにして海から甬江に入ってきたのですね』
道元好きの須田画伯は、鎌倉時代の日本の航洋船に乗って
三江口をめざしているような表情で言われた。
『 あすは、いよいよ天童山ですね 』
とも念を押された。画伯は・・昭和20年代に道元の思想を読む
ことによって独自の抽象画論を構築されたひとである。
それだけに、道元の思想的成立の大きな契機をなした
当時の天童山――とくにそこに住した如浄の禅風の故地――
には、当然ながら関心がつよい。 」( p372 )
「天童山は、鎌倉の道元のころから伽藍が巨大で、
他の高楼、殿舎が多かった。・・・
建物の造形は装飾性がすくなく、簡潔で、1922年の来訪者である
常磐大定博士も、このことに感じ入り、
『 我が禅院を彷彿せしめる 』といっている。 」( p377 )
『天童山』の最後のページに、また須田画伯を登場させておりました。
「・・・・須田画伯は、生家にもどった童子のようであった。
一楼があり、階段をのぼりつめると、
西洋のベルのようなチューリップ型の梵鐘があった。
鳴らすには、撞木で撞くのではなく、
長い柄のついた木槌のようなもので鐘を打つのである。
『 撞きませんか 』と、中国側の人がいったとき、
いつもみずから前へ出ることをしない画伯が、めずらしく大木槌を持ち、
餅つきのようにふりかぶったと思うと、激しく打った。
鐘はぶじ鳴ったが、画伯はひびきわたる梵音響流(ぼんのんこうる)
のなかで、いつまでも噛みつきそうな貌(かお)をしていた。 」(p380)
こうして、画伯の姿でしめくくられたおりました。
もっとも、その前に、司馬さんは道元をちゃんと語っておりました。
そこも引用しないと、中途半端な感じでしょうか。
それは、四川省からの類推から語られておりました。
はい。最後にその箇所を引用しておかなければ。
「天王殿の前で、黄衣の老僧に出逢った。副住職の永通法師である。
40年あまりこの寺にいるという。うまれをきくと、
『 四川省 』と、みじかく言った。
私は、道元のことを思いあわせた。
道元が、天童山に入る許可がおりぬまま、寧波港に停泊中の船で
起居していたとき、一人の老僧が、陽ざかりの道を歩いてはるか
阿育王山から椎茸を買いにきた。・・・・
道元24歳、老僧61歳であった。阿育王山で雲水のためにかれは
料理をする典座(てんぞ)という役をつとめている。
故郷は、西蜀(四川省)である。その故郷を離れて40年になるという。
若い道元は、40年も修行してまだ料理番をしているのか、と驚き、
なぜ坐禅修行に専念されないのです、とたずねた。老典座は大笑いし、
『 外国のお若い方、あなたは本当の学問や修行が
何であるか、まだおわかりになっていないようだ 』 といった。
・・・・
道元が天童山に入って早々、この老典座がたずねてきてくれたのである。
『 私も齢をとったから、故郷の西蜀(せいしょく)に帰る。
うわさに、あなたがこの天童山にいるときいてやってきたのだ 』
と、いった。道元は感激し、船中での問答をさらにくりかえすと、老典座は、
『 料理や掃除のなかにも学問や修行がある。それどころか、全世界の
現象のすべてが真理であり、かつ学問や修行の対象である 』
といった。道元は、いわば途(みち)ですれちがった程度の
知りあいであるこの老典座について後年感謝をくりかえし、
『 山僧(註・自分のこと)いささか文字を知り、
弁道を了ずることは、すなわち彼の典座の大恩なり。』(典座教訓)
と言っている。黄衣の永道法師が四川の人であるといい、
かつ40年修行した、ということで・・・
老典座に偶然符号するように思えたのである。 」( p378~380 )