ネット検索して古本を買うのですが、
読んだ本のなかに、ある本からの引用があったりする。
その引用箇所が気になって、注をたよりに、
芋づる式に、読みたい本がひろがってゆくということがあります。
それも、これも、簡単にネットで古本を注文できる
という有難さがあってこそのこと。
ネットでは、でも表層的なことも起こるようです。
田中泰延著「読みたいことを、書けばいい」ダイヤモンド社・2019年。
ここで、『調べる』ことに注意を喚起した言葉がありました。
ライターゼミの課題を出した際に、
ある人は『 つっこんで調べたつもり 』で、
Amazonで数冊、「よくわかる・・」とか
「・・謎を解く」という新書を買って書いてくる人がいる。
田中氏は指摘しております。
『 これでは調べたことにはならない。
調べるというところまで至っていない。 』
つづきます。
『 ネットの情報は、また聞きのまた聞きが
文字になっていると思って間違いない。
ムックや新書の類も、たとえ専門家が監修していても、
ほとんど新事実は載っていない。・・・
ならばどうすればよいか。
一次資料に当たらなければ話にならないのである。 」(~p152)
この箇所は、見出しが『 一次資料に当たる 』となっていました。
その文の最後も引用しておくことに。
「 言葉とは、文字通り『 葉 』である。
好きなことを好きに書いた葉を繁らせるためには、
『 根 』が生えていなければならない。
それが一次資料である。 」(p157)
もっとも、著者は、一次資料をもとめて
国立国会図書館に通ったそうでした。
万事横着な私は、ネットで古本を注文し満足しております。
それにしても、『 一次資料に当たる 』という指摘は忘れがたい。