司馬遼太郎著「微光のなかの宇宙 私の美術観」(中公文庫・1991年)。
はい。注文してあったこの古本が届く。
目次のはじまりは『裸眼で』
目次のおわりには『出離といえるような』。
はい、はじまりとおわりとを読んでみる。
司馬さんは昭和29年から同33年ごろまで、
「 私は、20代のおわりから30代の前半まで、
絵を見て感想を書くことが勤めていた新聞社でのしごとだった。」(p15)
とあります。その勤めがおわってからのことが語られておりました。
自戒をこめてなのでしょう。こんなエピソードを紹介されています。
「 戦前からの古い画家で、戦後、パリ画壇の様式変遷史を
そのままたどった人がいた。ついに≪最先端≫の抽象画に入ったものの、
あたらしい形象を創りだすことができず、
医大の研究室から電子顕微鏡による動植物の細胞写真をもらってきて
はほとんどそのまま模写し、構図化していたりした。ただ形がおもしろい
というだけで芸術の唯一の力である精神などは存在しなかった。
・・・あらためて思わせられたのは、画論というのは
それを開創したその画家だけに通用するもので、
他人の論理や他の社会が生んだ様式の追随者になるというのは、
その人の芸術だけでなく人生をも無意味にしてしまうのではないか
と激しくおもった。・・
もはや仕事で絵を見る必要がなくなったときから、
大げさにいうと自分をとりもどした。
奇妙なことに――まったく別なことだが――右の(上の)期間、
文学雑誌もいわば仕事としてたんねんに読んでいたつもりだったが、
捕虜の身から解放されたような気がして、同時に怠けるようになった。
・・・時機が終るのと、小説を書きはじめるのと
おなじ日だといいたいほどにかさなっていた。
もはや私自身を拘束するのは自身以外になくて、
文壇などは考えなかった。・・・・・
自由を持続するには自分なりの理論めかしいものと、
素朴な元気のようなものが必要だったが、
右(上)の4年間の息ぐるしさのおかげで、
ざっとしたものをごく自然にもつことができた。 」(~p29)
うん。とりあえず、私にできそうなことは、
司馬さんにとっての、小説と絵との結びつきに思いを馳せることでした。
『裸眼で』の最後を忘れないために引用しておくことに。
「 ・・むろん、解放をおそれる画家や画壇勢力もある。
それはそれでよく、そうあることも自由でなければ、
ほんとうに物を創りだしたり、それを見たりする者の自由はない。
・・物が沈黙のなかで創られる以上、創られてからも、
ひたすらに見すえられることに堪え、平然と
無視される勇気を本来内蔵しているべきものなのである。
繰りかえしいうようだが、19世紀以後の美術は理論の虚喝が多すぎた。
私自身、あやうくその魔法にからめとられかけ、やっと逃げだしたものの、
自分だけの裸眼で驚きを見つけてゆくことについては、
遅々としている。 」(p38~39)
この本の目次の最後にある須田剋太画伯との旅は、
『 自分だけの裸眼で驚きを見つけてゆく 』の『自分だけ』から
解き放たれるような声が聞こえてくるような。そんな気がするんです。