和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

震災の、握飯と牛乳。

2024-05-13 | 安房
まずは、「安房震災誌」から握飯にかかわる箇所を引用。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。

  すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、
  握飯をうんと背負ひ込んで、北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、
  之を飢へた人々に分与したのであった。
  又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったものも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに
  疾病でも醸されては一大事だと気付いたので、
  甚だ遺憾千萬ではあったが、その日の
  握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。  」(p260)

この配慮に関しては、違うページに指摘がありました。

「 郡長は斯る場合に伝染病の流行は必定だと思ったので、
  特に伝染病に注意を拂った。極めて少数の赤痢患者の外、
  伝染病の出なかったのは、何より仕合せであった。 」(p244~245)

もどって、握飯の配給を停止した次を引用します。

「 ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた
  力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
  
  腐ったむすびがあるそうですが、それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。

  郡当局も、此の光景を見せ付けられては、
  流石に断らうとして、断はり兼ねたのであった。

  そこで、郡当局は、斯うした面々に向って

  『 よく洗って更らに煮直してたべて下さい 』

  と条件付で、寄贈品の握飯を分配してやった。・・・ 」(p260)


このあとに、引用する箇所に、泣く乳児という箇所がでてきておりました。


「  食料品は一般に欠乏してゐたが、
   傷病者と飢餓に泣く乳児とは、
   何とか始末せねばならなかった。

   殊に震災の恐怖で急に乳のとまった母が、
   飢に泣く乳児を抱いて、共泣きしてゐるさまなど見ては、
   郡当局は一掬の涙を禁じ得なかった。

   幸に安房は牛乳の国である。
   
   郡長は安房畜牛畜産組合に依嘱して、無償で牛乳の施與に
   当らしむることとした。しかし、交通杜絶の場合である。

   牛乳の輸送と、殺菌設備には、相当考慮を要するのである。

   が、折柄東京菓子会社、極東煉乳会社の好意と、
   青年団、軍人分会の盡力とで、

   9月4日から牛乳を配給した。そして
   10月7日まで、34日間之を継続した。
   配給区域は、北條、館山、那古、船形と南三原の
   4町1箇村であった。
   ――その上区域を拡張することは、事情が許さなかった――
   
   施配した石高は、実に76石1斗3升の多きに上った。
   施与延人員は、2萬人に達した。此の牛乳は、
   全部郡内牛乳業者の寄贈にかかるものである。   」(p256)




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