「親鸞集」(「日本の思想3」・筑摩書房・1968年)。
この本の編者は増谷文雄。
著作集には月報という小冊子がはさまれますね。
このシリーズにも小冊子がはさまれておりました。
「親鸞集別冊 対談 野間宏・増谷文雄」とある。
うん。この対談の小冊子は、興味深い。
小冊子の中に『口伝でつたえられて』という箇所が
ありまして、興味深いので引用。
増谷】 私はこういうことを考えるのです。
私は仏教の中でものを言っている人間です・・・
例の『歎異抄』の第三段目の悪人正機の問題ですね。
あの悪人正機の問題というのは、
あれをずばりと書いた人というのは、
いわゆる上人がたの中にはだれもいない。
恐らくあれは晩年の法然が口で言い、
それを親鸞が直接に耳に聞いていたのだと思います。
しかし親鸞の著作の中には出てこない。どこにも。
野間】 『歎異抄』には出てくるけれども。
増谷】 『歎異抄』は聞き書きですからね。
法然の書いたものにも、親鸞の書いたものにも出てこない。
それはただ口伝でつたえられておったと思うのです。
それが『歎異抄』の中にすぱっと出てきているでしょう。
これは文章に書けば誤解される言葉なんですね、
だからそれを口で言い残してきて、そしてそれが
『歎異抄』に出てきていること、ここに『歎異抄』の
いちばん大きな力が、すさまじさが、あると思いますね。
はい。『口で言い残してきて』ということを、
小冊子の対談で、聞いている不思議(笑)。
せっかくですから、この対談からもう少し引用。
増谷】 おっしゃるところの、親鸞のあれだけの
自信がいつできたかということですね。私は
『恵信尼文書』を読みましてね、
越後から関東に入ってきて、まだ栃木県あたりにいた頃ですね、
いよいよ常陸に乗り込む前です、そこで『三部経』千部読誦
という仕事をやり始めたということを書いています。
関東教化がうまくいくようにと思って
『三部経』を千回読もうという願いをたててやり始めたのを、
三日か四日かして、そこでやめたらしいですね。
あれは、非常におもしろいと思うのですがね。
それは、念仏だけでやらなきゃならん人間が、
いったいなにをしているんだと、
まだ本当の自信ができていなかったことを
そこではっと気がついたのじゃないかと。
野間】 迷いですね。
増谷】 迷いですね。
それが京都に帰ってからは、もうツユ迷っておりませんな。
そういう意味で、私は、完成した親鸞なんていう言葉は
いかんでしょうけれども、
親鸞の絶頂は京都だと思うのですよ。
・・・・
京都に帰られて、それも初め数年はいろいろな
身辺の取り片づけやら、会う人やらいろいろあった
でしょうけれども、70を越してからの親鸞が
われわれの親鸞だという感じがしますね。
それが『歎異抄』に出ておる親鸞でしょう。
うん。ここから対談の興味深い箇所へと
深まるのですが、私の案内はここまで(笑)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます