「にど だもれ 回想牧野四子吉・文子」(1988年)。
函入。表紙布張り。
最後の年譜をひらく。
牧野四子吉は1900(明治33)年北海道函館生れ。
牧野文子は1904(明治37)年大阪市北区生れ。
本文のなかに、3頁ほどの牧野四子吉の文。
そこから
「画学校を終え・・・それからいろいろな仕事に
手を染めた・・不安定な状態にピリオドを打ったのは、
私が生物画の世界に踏み入った時だといえる。・・
立ち寄った京都で、偶然の機会から、動物の絵を
描くことへの勧めがあって、それを引き受けることになった。
・・・その二、三年前、当時日本の領土だった樺太へ
友人と二人でそれこそ気紛れの旅に出た。
この旅は、それまでの数年間を人間臭い仕事だけに
明け暮れしてきた私に、言いようのない感激を味わわせてくれた。
本土のどの地域でも見たことのない雄大な景観と、
原野を埋め尽して咲き誇る花の美しさに息を呑んだ。
自然の中に息づく植物や動物に強く惹かれるようになったのは、
まさにその時からだった。・・」(p212~213)
年譜には
昭和4年(1929)5月
文子(26)を伴って京都へ転居し、
京都左京区北白川伊織町に住む。
9月 京都大学理学部動植物教室嘱託および
京都大学農学部附属木原生物研究所嘱託となり、
学術的な生物画の仕事に没頭。中村栄のペンネーム。
また、牧野四子吉の文へもどれば
「京都という地域の環境や、京大の教室の人達との
交遊の中から浸み入ってきた、生物についての理解や
感心が驚くほどの早さで高まり、深まったことには、
幾多の原因が数えられる。それにしても、
それからの長い期間、いちずに生物を描き続けて
今日に至ったことに、我ながら驚くことがある。・・」
(~p214)
う~ん。そうそう、このGOOブログのなかに、
「京都園芸倶楽部のブログ」があり、
うつくしい草花の写真が見れます(笑)。
もどって、回想録に木村晴彦氏がよせている文。
そのなかに、こんな箇所
「・・・牧野さんの小さなお宅はその頃から、
いつも千客万来で、とくに京大の動植物学科の学者の
誰かが来ておられて紹介されました。ですから
牧野さんのお宅に行くと知らず知らずのうちに
顔が広くなって行きました。よくお目にかかって
記憶に残っている人は、・・徳田先生の外に
進化論の今西、生態学の森下、渋谷、森、
動物生理学の小野、植物学の山田、中村の
各先生や民俗学の梅棹君等・・・・
またイタリア人牧師のベンチベーニさん、
日仏学館のオーシュコルヌ夫婦等にも
よくお目にかかりました。・・・」(p169)
全536頁。
編集・発行は
「牧野四子吉・文子回想文集編集委員会」
とあります。
はい。牧野文子さんの本には、
翻訳や、イタリアの紀行本などあり、
それも欲しくなりすが。まずは、ここまで(笑)。
ちなみに、梅棹忠夫が樺太へいったのは
いつだったか、梅棹年譜をひらくと、
こんな記述がありました。
1940年(昭和15)20歳
12月24日京都探検地理学会樺太踏査隊に参加。
イヌそりの性能調査をおこなう。
1941年1月中旬帰洛。
本気で南極をめざしていた。
梅棹忠夫年譜に「本気で南極をめざしていた」という
その合言葉が、53歳で南極越冬をした西堀栄三郎。
その西堀を推挙した桑原武夫。その南極越冬の資料を
わずかな期間で「南極越冬記」にまとめた梅棹忠夫。
とつながっているのだと、あらためて確認できます。
もどって、戦後の牧野夫婦は
1949年(昭和24年)6月
東京へ帰り、東京都豊島区池袋・・に住む。
あとは、東京住まい。
あとは、旅行での京都だったようです。
函入。表紙布張り。
最後の年譜をひらく。
牧野四子吉は1900(明治33)年北海道函館生れ。
牧野文子は1904(明治37)年大阪市北区生れ。
本文のなかに、3頁ほどの牧野四子吉の文。
そこから
「画学校を終え・・・それからいろいろな仕事に
手を染めた・・不安定な状態にピリオドを打ったのは、
私が生物画の世界に踏み入った時だといえる。・・
立ち寄った京都で、偶然の機会から、動物の絵を
描くことへの勧めがあって、それを引き受けることになった。
・・・その二、三年前、当時日本の領土だった樺太へ
友人と二人でそれこそ気紛れの旅に出た。
この旅は、それまでの数年間を人間臭い仕事だけに
明け暮れしてきた私に、言いようのない感激を味わわせてくれた。
本土のどの地域でも見たことのない雄大な景観と、
原野を埋め尽して咲き誇る花の美しさに息を呑んだ。
自然の中に息づく植物や動物に強く惹かれるようになったのは、
まさにその時からだった。・・」(p212~213)
年譜には
昭和4年(1929)5月
文子(26)を伴って京都へ転居し、
京都左京区北白川伊織町に住む。
9月 京都大学理学部動植物教室嘱託および
京都大学農学部附属木原生物研究所嘱託となり、
学術的な生物画の仕事に没頭。中村栄のペンネーム。
また、牧野四子吉の文へもどれば
「京都という地域の環境や、京大の教室の人達との
交遊の中から浸み入ってきた、生物についての理解や
感心が驚くほどの早さで高まり、深まったことには、
幾多の原因が数えられる。それにしても、
それからの長い期間、いちずに生物を描き続けて
今日に至ったことに、我ながら驚くことがある。・・」
(~p214)
う~ん。そうそう、このGOOブログのなかに、
「京都園芸倶楽部のブログ」があり、
うつくしい草花の写真が見れます(笑)。
もどって、回想録に木村晴彦氏がよせている文。
そのなかに、こんな箇所
「・・・牧野さんの小さなお宅はその頃から、
いつも千客万来で、とくに京大の動植物学科の学者の
誰かが来ておられて紹介されました。ですから
牧野さんのお宅に行くと知らず知らずのうちに
顔が広くなって行きました。よくお目にかかって
記憶に残っている人は、・・徳田先生の外に
進化論の今西、生態学の森下、渋谷、森、
動物生理学の小野、植物学の山田、中村の
各先生や民俗学の梅棹君等・・・・
またイタリア人牧師のベンチベーニさん、
日仏学館のオーシュコルヌ夫婦等にも
よくお目にかかりました。・・・」(p169)
全536頁。
編集・発行は
「牧野四子吉・文子回想文集編集委員会」
とあります。
はい。牧野文子さんの本には、
翻訳や、イタリアの紀行本などあり、
それも欲しくなりすが。まずは、ここまで(笑)。
ちなみに、梅棹忠夫が樺太へいったのは
いつだったか、梅棹年譜をひらくと、
こんな記述がありました。
1940年(昭和15)20歳
12月24日京都探検地理学会樺太踏査隊に参加。
イヌそりの性能調査をおこなう。
1941年1月中旬帰洛。
本気で南極をめざしていた。
梅棹忠夫年譜に「本気で南極をめざしていた」という
その合言葉が、53歳で南極越冬をした西堀栄三郎。
その西堀を推挙した桑原武夫。その南極越冬の資料を
わずかな期間で「南極越冬記」にまとめた梅棹忠夫。
とつながっているのだと、あらためて確認できます。
もどって、戦後の牧野夫婦は
1949年(昭和24年)6月
東京へ帰り、東京都豊島区池袋・・に住む。
あとは、東京住まい。
あとは、旅行での京都だったようです。
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