和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

天皇陛下の旅。

2016-09-11 | 地域
象徴としてのお務めについての
「天皇陛下のおことば」
全文を読んでみました。

「これまでのように、
全身全霊をもって象徴の務めを
果たしていくことが、難しくなる
のではないかと案じています。」


そのあとでした
私が「万葉集百歌」を開いたのは、
そこで、古橋信孝氏は
柿本人麻呂の歌を説明しながら、
こう指摘していたのでした。

「天皇が諸国を行幸するのは、
その国の霊威を身につけるためである。
官女も霊威を浴び、その霊威によって
天皇を守る役割をもった。」(p57)

もどって、
「天皇陛下のおことば」に
こんな箇所があります。

「・・・
日本の各地、とりわけ遠隔の地や
島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、
大切なものと感じて来ました。
皇太子時代も含め、これまで私が皇后と共に
行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、
国内のどこにおいても、
その地域を愛し、その共同体を地道に支える
市井の人々のあることを私に認識させ、
私がこの認識をもって、
天皇として大切な、国民を思い、
国民のために祈るという務めを、
人々への深い信頼と敬愛をもって
なし得たことは、幸せなことでした。」



「その地域を愛し、その共同体を
地道に支える市井の人々」
によって、その国の霊威は宿るのでしょうか?


「正論」10月号の
巻頭コラム:髙山正之の「折節の記」。
そこで、敗戦の日のことから語りはじめられて
おりました。

「・・あのころ、菅直人みたいな連中が
マーク・ゲインにおだてられて
天皇の戦争責任を叫んでいた。
そんな中、昭和天皇は全国巡幸をGHQに求められた。
・・・かくて昭和21年2月19日、
川崎の硫安工場を皮切りに、翌日は新宿の焼け跡に、
と巡幸を始められた。人々が殺到したが、
それはGHQの思惑とは違った。
手を合わせ、お声に涙し、そして万歳がいつまでも続いた。
翌年は東北と関西を巡幸された。
初夏に大阪を訪ねたときは歓迎する数万の市民の
波に警護のMPが威嚇発砲するほどだった。
人口3万の飛騨高山では巡幸を聞いて
13万人が押し寄せた。
ずっとあと、昭和29年の北海道巡幸の折に
旭川市に15万人が出迎えるまで、この記録は残った。
広島も訪ねられた。
原爆被災孤児の施設で、
頭皮を失った孤児を抱きしめられた。
男の子は微笑み、シンとした院内は
やがて涙と嗚咽に包まれた。
原爆投下地点の相生橋前で
陛下のお言葉を聞いた7万市民の
間から沸き起こった『陛下万歳』の声は
竜巻のように広島の空気を震わせた。

この圧倒的な現象にGHQは驚愕した。
広島からの帰途、民政局のポール・ケントは
お召列車の沿線で子どもたちが
禁止された日の丸を振っていたのを見て、
これを口実に巡幸を打ち切らせた。
陛下の存在が日本人を突き動かしている。
憲法の言う国事行為の域を出ている
というのが米国側の判断だった。

今上天皇がその憲法に触れない形で
個人的な思いを語られた。
ご退位を語られたように言われるが、
あれは現行憲法の言う
『象徴天皇』とは一体何なのか、
『国事』とは何なのかと
問われているように聞こえる。・・・」

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