津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)。
最後の方に、鶴見俊輔と赤瀬川原平のご両人が並んで登場する場面。
うん。ここを反芻する意味で引用しておくことに。
まずは、鶴見俊輔氏の「もうろく帖1」から引用している箇所(p266)
「 70に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。
これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。せめて、
自分の今のもうろく度を自分で知るおぼえをつけたいと思った。
『もうろく帖1』は、1992年2月3日にはじまる。私は69歳8ヵ月だった。」
このあとに、津野さんは赤瀬川氏と比べておりました。
「鶴見さんのいう『生命力のおとろえの自覚からひらけてくる自由』を、
赤瀬川式にいいかえると『老人力』になる。
若いあいだはどうしても力んでしまって、うまく力が抜けない。
したがって自由にふるまうのがむずかしい。でも心配することはない、
『老人になれば自然に老人力がついて力が抜ける』というのが赤瀬川論理。
すなわち老人になると生命力がおちるのとひきかえに老人力がます――。
老人力をばかにしてはいけない。
力を抜くというのは、力をつけるよりも難しいのだ。力をつける
のだったら何も考えずにトレーニングの足し算だけで、誰でも力はつく。
問題はその力を発揮するとき、足し算以外に、引き算がいるんだけど、
これが難しい。
卓見である。ただし老人になったからといって、かならずしも、ただちに、
かつ自然に老人力がつくわけではない。それにはやはりなにほどかの
『引き算』の訓練が必要になる。
鶴見さんの場合は、それが『もうろく帖』だった。そして
赤瀬川さんにとっての『もうろく帖』が・・あの『老人力』だったのである。
では、私の場合は?
それとはまったく意識していなかったけれども、おそらくは
この連載が私にとっての『もうろく帖』であり『老人力』ということになる
のだろう。・・・・ 」(p267)
ちなみに、この津野さんの本のp80にですね。
鶴見俊輔さんの本を紹介し、『機会があったら読んでみてください』とある。
その箇所を引用しておくことに。
「・・人間はかならずまちがう、だから
『 われわれが思索に際して仮説を選ぶ場合には、
それがマチガイであったなら最もやさしく論破
できるような仮説をこそ採用すべきだ 』
という『 マチガイ主義 』の考え方に衝撃をうけた。
なにゆえのショックだったのか。それまでの私が
結局は『 マチガッテハイケナイ主義 』の徒だったからだ
という話は、しばらくまえに鶴見の思想的自伝『期待と回想』(朝日文庫版)の解説でも書いたので、機会があったら読んでみてください。 」(p80)
はい。機会がありますので読んでみます。と古本を注文。
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