角川ソフィア文庫『飯田蛇笏全句集』(平成28年)の
井上康明解説のはじまりのページにこうありました。
「 生涯、散文に関心を抱きつづけた。蛇笏の俳句は、
幅広い文学の裾野のなかから生まれていることがわかる。 」(p721)
うん。気になったので、
「飯田蛇笏集成」第六巻随想を古本で注文するとすぐに届く。
第六巻の巻末解説は竹西寛子。そのはじまりにこうありました。
「飯田蛇笏の随筆を、まとめて読む機会に恵まれた。・・・
喚起される力は強く、促される思考は多様で、・・・・
現代俳句の代表者飯田蛇笏は、かつて、
『 現在、わたくしに於ける文学のすべては、俳句と随筆である 』
と明言した。 」
(p430)
こうはじまっているのでした。
この解説を読んで思い浮かんできたのが岩波少年文庫の一冊
大岡信の『おとぎ草子』でした。
そのあとがきで大岡信は、この草子に出てくる和歌に言及しておりました。
はい。そこを引用したくなります。
「・・同じことは、多くの物語に出てくる『和歌』についても言えます。
主人公たちは、何か重要な決心をする時でも、
悲劇的な事態に立ち至った時でも、しばしば和歌を詠みます。
そんなのんきなことをしているひまはないはずじゃないか、
と現代人なら思います。たぶん、主人公たちだって同じでしょう。
・・・・個々の理由はどうあれ、和歌というものは、
単なる筋の運びとは次元の異なる情感を、物語を聞き、
あるいは読む人びとに与えたにちがいありません。
和歌は、物語の味わいをそこで深める役割りを果たしていたわけです。
この工夫は、私などにはなかなか面白いものに思えます。
そのため、この本では、従来の『御伽草子』の現代語訳の多くが
省略していた和歌をも、なるべくそのまま生かし、
原作の次に和歌の現代語訳を添えてあります。・・ 」(p239~240)
もどって、竹西寛子氏の解説には、こんな箇所がありました。
「蛇笏の随筆における惜しみない自己投入には、俳句も随筆も、
人が言葉で生きるかたみとしては全く対等なのだという認識の反映をみる。
俳句と随筆の二筋に生きようとした蛇笏・・・
伝統の定型以外でも、なお解放し得る詩情のすべてを随筆に注ぎ、
そこでの解放をはかっている点で、蛇笏の随筆は、その規模の
大きさと詩的余情の強さを特色とする。・・・ 」(p431~432)
はい。またしても、読みたくなる本がふえます。
せめて『しるべ』ばかりでもと記しておきます。
源氏物語を始めとして物語に和歌を添えることは作者の期待以上の効果があると思います。短歌はもともと長歌に付け加える反歌から生まれたものだったような記憶があります。
コメントありがとうございます。
角川ソフィア文庫の
「飯田蛇笏全句集」には最後に
季題索引がありました。
コメントをいただき、さがせば、
冬の植物に水仙が三句あります。
せっかくなのでその三句を引用。
道具市水仙提げて通りけり
枯蓮は阿羅漢水仙は文殊かな
水仙に湯を出でゝ穿く毛足袋かな
せっかく御紹介いただきましたから、この三句は私のブログに転載させていただきますね。