和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ヘヘーイ。

2012-02-14 | 他生の縁
「梅棹忠夫の『人類の未来』」(勉誠出版)。
その写真(p59)に
今西錦司・西堀栄三郎・桑原武夫・梅棹忠夫の4人が写っておりました。
それについて、このブログに貴重なコメントをいただきました。ありがとうございます。写真の人物がすこし動いたような・・(笑)。ということで、さっそくネット検索。
谷沢永一著「男冥利」(PHP研究所)に12ページほどで、西堀栄三郎の紹介文がありました。副題に「自ら研究に生涯没頭した愛すべき野人」とあります。

検索してよかったと思えたのは、講談社現代新書でした。
講談社現代新書「学問の世界 碩学に聞く」上下。
その上巻に、桑原武夫・西堀栄三郎・今西錦司の3人の名前があります。
聞き手は加藤秀俊+小松左京。となっております
(ちなみに、この新書はあとに
講談社学術文庫に入ったのですが、
文庫では西堀栄三郎ほかがカットされてしまっております)。
とりあえず、西堀栄三郎氏へのインタビューの箇所を読んでみました。4人一緒の写真に関連しそうな箇所として、こんな言葉がひろえます。

「私は今西君(錦司)という人間と、中学一年のときにはじめて会うてからのち、ずっと彼を兄貴――私より一つ上ですから――と思っている。それで彼の足らんところを補うたらいちばんいい友達になれるのではないかと、こう思うてるわけです。彼は物理が嫌いなんです、それなら私は物理をやればと。そのかわり、あいつにいわれると蛇ににらまれた蛙みたいなところがありましてね、『おい、南極へ行け』『ヘヘーイ』、『ヒマラヤへ行け』『ヘヘーイ』、『日本山岳会の会長になれエ』『ヘヘーイ』ってそんなものでね。彼は中学時代にあだ名をつけたりすることがうまかった。・・・」(講談社現代新書「学問の世界」上・p139~140)

こういう人が、「4人一緒の写真」では、隣り合わせて座られている。
インタビューがいいのでした。
たとえば、
小松】 ぼくもやたらに旅行が好きで、先生の『南極越冬記』を読んでから絶対南極へは行ってやると思って、ついに1975年に行った。
西堀】 そうですか、それはよかった。・・・
というやりとりのあとで、南極雪上車の歯車の欠けた話が具体的になり、南極での真空管修理や発電機のあれこれと細部を語りはじめて、なんと、そこから原子力船の放射能漏れへと話題がゆき「私は機械的原子炉は嫌いなんです」という話へとつながってゆくのでした。読み甲斐があり、もう一度、読んでみます。
4人一緒のお喋りがもれだしてきそうな、そんなコメントをいただきありがとうございました。もうすこし丁寧に読んでみます。



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橋本武100歳。

2012-02-13 | 短文紹介
注文してあった古本が届く。

高橋和彦編「無名抄 付瑩玉集」(桜楓社)
古本1200円+送料340円=1540円なり。
函入りで函はやけておりましたが、
本は新刊のようにきれいでした。
弘南(こうなん)堂書店(札幌市 北大前)。
ゆうメールで2月9日に出ております。
土日がはさまり、今日13日着。
既製品の梱包用の段ボールに
達筆のマジックで大きく宛名書きしてありました。
本を包装紙にくるんであり、その包装紙は
弘南道書店と名前がはいっております。
古くからの本屋さんなのでしょうね。

昨日は、
橋本武著「伝説の灘校教師が教える 一生役立つ学ぶ力」(日本実業出版社)を読みました。スラスラと読めます。あんまり分かりやすいのでスラスラと忘れそうです。おさらいのために、印象深い箇所をちょっと引用しておきます。

「私は、平成24年の7月で100歳になります。そのうちのちょうど半分、50年もの長きにわたって、兵庫県の私立灘中学校・高等学校で国語の教師を務めてきました。」

まあ、これが本のはじまりです。
こうもあります。

「私は100歳を目前に控えた現在も、毎日文章を書いたり、さまざまなことを考えたりして、そして身の回りのことも基本的に自分でしています。確かに耳はだいぶ遠くなりましたし、細かい字を読むのに非常に苦労していますが、こと考えるということになると、これがまったく苦にならないのです。ちょっと気になることがあると、すぐに思索にふけってしまいます。」(p3)

その百歳となる橋本武氏が、さらりと指摘しているのは、
こうでした。

「実は、国語力のカギとなるのは『書く』なのです。」(p80)
「また、生徒に課した月1冊の読書課題についても、ただ読めばいいというものではありません。1冊につき原稿用紙2枚程度であらすじ、内容をまとめる。また、よかった箇所、感銘を受けた表現、あるいは文中で述べられている考えに賛成か反対か、そのようなことも子どもたちに書かせました。
なぜ、ここまで『書く』にこだわったのか。そのわけは、書くことによって、読むだけではなかなか身に付かない『判断力』『構成力』『集中力』が養われるからです。」(p81)

100歳になる方が、自分が生徒だった頃の、先生のさりげない指導を、ふりかえり、反芻しているのも、興味深いものがあります。まあ、それはそれとして、これだけは忘れないように、という、分かりやすい指摘のささやきが聞こえてくる。すぐ忘れることにかけては、自信のある私。貴重で単純なささやきの一冊を、本棚へと置いとくことにします。

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買うか買うまいか。

2012-02-12 | Weblog
新刊を
買おうか、買うまいか。
読もうか、読むまいか。
まあ、とりあえず、
カードをならべるように。


宇野直人・江原正士著「漢詩を読む④」(平凡社)
とりあえず、以前の3冊は持っているのでした。
内容はきれいに忘れているのに、印象は圧巻でした。
こんかいは、どうでしょう。

小長谷有紀著「ウメサオタダオと出あう 文明学者・梅棹忠夫入門」(小学館)
オンライン書店BK1での、想井兼人さんの書評がよかったので。
読んでみたい一冊。

落合博満著「采配(さいはい)」(ダイヤモンド社)
うん。気になる人です。

中西輝政・高森明勅著「古事記は日本を強くする」(徳間書店)
中西輝政とあれば、買います。

橋本武著「伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力」(日本実業出版社)
なんでも、今年は百歳なのだそうです。

日隅一雄・木野龍逸著「検証 福島原発事故記者会見」(岩波書店)
大鹿靖明著「メルトダウン」(講談社)
語られたところから、語られなかったことをおさらいする意味で。

畑中章宏著「柳田国男と今和次郎」(平凡社新書)
副題が「災害に向き合う民俗学」とありました。

雑誌「歴史通」3月号
雑誌「Voice」3月号

以上、新刊気になるコーナーでした(笑)。
どうして、気になったかを、
これからは、もうすこし詳しく書けるようにしよう(反省)。

買うか買わないか。
読むか読まないか。
まずは、そういう段階です。
興味も書き込めば、記録となる。
な~んてね。
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炭ガラ冥利。

2012-02-11 | 地震
年譜をわきに、方丈記を読むと、
書かれなかったことが、あれこれと思い浮かぶわけです。
たとえば、鴨長明31歳の文治元年3月24日に、
平家、壇ノ浦に敗れて滅亡するのですが、
同年7月9日の京都とその周辺の大地震しか
方丈記では触れられていない。

これについて、三木紀人著「鴨長明」(講談社学術文庫)をひらくと、
こんな記述にぶつかります。

「打ちつづいた『兵革』(戦争)の恐怖がなまなましかったためである。当時、平氏滅亡後の戦後処理が進みつつあり、何かが行われるたびに、人々は戦争の印象をあらたにしていたはずである。特に強烈なのは死刑の執行の風聞であったと思われるが、平宗盛。清宗父子が斬首されたのは6月21日、父子の首が獄門にさらされた23日には、重衡(しげひら)が奈良で斬られた。大地震は、それらの噂が取沙汰される中におこったのである。自然の人情として、人々はあまりに異常な地震を平氏滅亡と関連づけて理解しようとした。・・・・しかし、『方丈記』の記事に源平の争乱はふれられておらず、これもその方針による省筆であろう。」(p144~146)

さてっと、前置きがながくなりました。
竹内政明著「読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第21集」が発売。2011年7月~12月までの一面コラムをまとめて読めるありがたさ。新聞一面コラムですから、短かく、ワクワクしながら読了。
まず、引用するなら、私はこのコラムかなあ。
『炭ガラ』と題されていました。

はじまりは、
「敬愛する同業の先輩に、石井英夫さんがいる。産経新聞の名物コラム『産経抄』を35年間にわたって書き続けた方である。数年前に会社を退き、いまは『家事手伝い』という肩書きを印刷した不思議な名刺を携えて、雑誌などに健筆をふるっておられる。」

うん。短いので全文を引用しましょう。

「いつだったか、初任地の札幌で過した新人記者当時の昔ばなしをうかがった。雪の夜、地元紙の先輩記者に連れられて、石井青年が屋台でコップ酒を酌み交わしたときの思い出である。『石井君、新聞記者っていうのは炭ガラみたいなものだ』先輩記者は、そう言ったという。炭ガラとは石炭の燃えカスである。『ストーブの炭ガラと同じように、新聞は次の日になれば捨てられてしまうけど、一昼夜、人々の心を暖めたんだ。暖めた、そういう記事を書いたと思えば満足じゃないか。炭ガラ冥利に尽きるじゃないか』と。
『新聞週間』を迎えて、各紙で震災報道の検証が始まっている。おもちゃのように小さなストーブにすぎない小欄だが、被災者を暖めることのできた日がたとえ一昼夜でも、はたしてあったかどうか・・・。わが“炭ガラ”たちに問うてみる。」(10月15日)

方丈記は、京都周辺の地震があった、その四半世紀後に、書かれたわけですが、
新聞コラム。とくに編集手帳は同じ方が毎日書かれている。
政治にも触れないわけにはいかないのでした。
そこに、どのようにユーモアを盛ってゆくか。

ということで、「編集手帳」第21巻から、すこしだけ、引用しておきます。

「女性ふたりの会話より。
『私、30歳になるまで結婚しないわ』
『私、結婚するまで30歳にならないわ』
馬場実さんの『大人のジョーク』(文春新書)から引いた。
笑えない改定番をひとつ。
『私、震災対応に一定のメドがつくまで、首相を辞めないわ』
『私、首相を辞めるまで、震災対応に一定のメドをつけないわ』
菅首相を見ていると・・・」

これは7月14日の「笑えぬジョーク」のはじまりの箇所。
『炭ガラ』をもうひとつ。9月16日「棚が泣く」のはじまり。

「長屋の壁にきのう吊った棚が、ない。亭主が女房に聞く。
『わいが吊った棚あれへんな』
『徳用のマッチ箱載せたら落ちたやないか』
『せやさかい言うてるやろ。わいが吊った棚へは物載せな、ちゅうて』
上方落語『宿替え』である。
野田首相も内閣という名の棚を吊った。与野党の対話を載せましょう。白熱した論戦を載せましょう・・・当然そうなるものと思っていると、どうも違う。私の吊った棚には、まだ物を載せてくれるな、ということらしい。」
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ウロウロと。ソワソワと。

2012-02-10 | 短文紹介
1995年「ノーサイド」5月号をパラパラめくる楽しみ。
今回も楽しめましたので、その報告がてら。
すこし書き込みをしてみます。

狐さんが「清水幾太郎」を紹介しておりました。
そこでの狐さんは、清水幾太郎著「私の読書と人生」を取り上げております。
すこし引用。

「・・・世の読書論には書かれることがなくて、『私の読書と人生』に音を立てるほどに満ちているのは『焦燥』の気分である。」

「本を上品に丁寧に取り扱う作法を、清水幾太郎はもっていなかった。本は書き込みで憚るところなく汚して使うのが、この思想家の流儀の一つだった。」

狐さんの「清水幾太郎」紹介文の最後はというと、

「この『焦燥』こそが、本へと煽り、駆り立てる。魂の発条(バネ)というべきこの心性を忘れかけたとき、『私の読書と人生』を開くのは有効なことだ。少なくとも私はそう読んだ。」

う~ん。狐さんの紹介のページ下に、清水幾太郎氏が書斎の机でタバコを口にくわえた写真が掲載されておりました。今回気づいたのですが、その写真の左奥に、壁にそって置かれた黒い本棚のようなものがあります。本棚にしては奥行きがある。しかも上部が少し前に傾斜している。

ひょっとすると、これが「立ち机」じゃないのか?
と思ったのでした。
「清水幾太郎著作集19」(講談社)に「立ち机の効用」という2頁ほどの短文があります。そのはじまりは「約25年間、私はこれが欲しくて堪らなかった。初めて見たのは、1930年代の末、私が関係していた上智大学附設の修道院の、J・B・クラウスの部屋であった。細長い彼の部屋には、寝台と、少しの書物と、これとがあったように覚えている。」

そして、こうあったのでした。

「私は忽ちこれが欲しくなっていた。
私が欲しくなったのは、
そうとは気づかなかったものの、
何かを考える時、
部屋の中をウロウロと歩き廻る私の癖、
考えつくと、
考えが逃げ出すのを恐れて、
ソワソワとメモをとる私の癖、
少しでも気にかかる点に出会うと、
あの本、この本と、
それを本気で読むというのでなく、
忙しく開いてみる私の癖
・・そういう癖のある私にとって、
これは、恐らく
クラウスにとってより便利なものと感じられたのであろう。」

まさに、その立ち机が、
このタバコを口にくわえた清水幾太郎氏の写真。その雑然とした部屋の脇に置かれているのじゃないかと、今回はじめて気づいたというわけです。

ちなみに、清水氏の「立ち机の効用」には
「今年(昭和39年)の五月、桑沢デザイン研究所の鈴木寿美子さん・・彼女の専門が木工で・・作りましょう、と言う。・・・鈴木寿美子さんの作品には単純で機能的な近代性が力強く生きている。・・」とあります。その「単純で機能的な近代性」がある立ち机が、この写真の脇に写っているのじゃないか。と思えてきたのです。
そう思えば、この雑誌に掲載されている写真は、じつに一枚一枚が貴重なんだなあ。パラパラと写真集を見るようにめくれる。などと今になって、思えてくるのでした(笑)。

ところで、中公文庫にある
清水幾太郎著「私の文章作法」。その文庫解説は狐さんでした。
この文庫は、1995年9月印刷とあります。
そうなんだ。阪神大震災の年に、この文庫が出来ておりました。
ということは、解説は、阪神大震災のあとに、
書かれたのかもしれませんね。
それで、狐さんは解説のなかで
「たとえば関東大震災を初めて思想史のサイドに取り込んだ清水幾太郎の論文『日本人の自然観』が感動的なのは・・」
なんていう言葉が登場していたんだと、今頃になって気づくのでした。


う~ん。
清水幾太郎著「私の読書と人生」を、私は未読。

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読書の世代交代。

2012-02-09 | 地震
古い雑誌は、とかく紛失してしまいやすいですね。
けれども、気になる雑誌は、きちんと保存しておきたくなります。
そんな一冊に、1995年の雑誌「ノーサイド」五月号(特集は「読書名人伝」)がありました。捨てたくても、おもわず躊躇する一冊(笑)。
きちんと保存しておけば、つい取り出したくなる一冊です。
まあ、そういうわけで、本棚からとりだしてみました。

こんかい、はじめて気づいたのは、
あれ、徳岡孝夫氏が「不惜身命」と題して(8ページほど)書いていたのでした。読み甲斐あり。はじめて読みました。単行本には未収録のはず。

さて、この雑誌五月号の発行された1995年。
その1月には阪神淡路大震災が起きておりました。
それで、はじまりに「大地震と読書人」という特集。
谷沢永一氏が「阪神大震災わたしの書庫被災白書」。
写真とともに六ページほど。
たしか、私はこれが読みたくて買ったのだろうなあ。
そのすこしあとに「関東大震災は焚書だった」と題して坪内祐三氏の文。
そこに、「炎を上げて燃える帝大図書館」の写真。

そのあとの対談にも、震災と本にまつわる話題が登場しておりました。
山口昌男と池内紀の対談となっておりますが、
そこに坪内祐三が司会役としてくわわって、
震災の話題に言及しておりました。その坪内氏の語る箇所だけでも。


坪内】 よく関東大震災で東京の街並みが変わったとか言われるけども、そういう外面的なことだけじゃなくて、内面の部分でも関東大震災で一つの断絶がある。その断絶を象徴する大読書家が芥川龍之介のような気がするんです。

坪内】 震災と前後して読書家たちの世代交代があった気がします。

坪内】 話を戻しますと、一番いけないのは、大正になって、岩波茂雄が岩波書店をつくりますね。そのとき岩波の一高時代の同級生だった若い学者連中の力を借りて、哲学叢書のシリーズを出すんです。それを旧制高校生が争って読むようになっちゃたでしょう。博文館にしても、春陽堂にしても、実業之日本社にしても、震災までの出版社というのはかなり面白い雑学的なものを出していたんですけどね。

坪内】 教養主義的な読書がなんでよくないかというと、受験勉強もそうだけど、そういうのは誰かに勝つための、競争するためのすごく孤独な、どんどん自分を孤立させていく読書じゃないですか。
池内】 その種の読み方は、しょせんは自分の中にあるものしか読みとらない。発見がない。


うんうん。関東大震災後の読書の世代交代。
それでは、東日本大震災の後の、読書は、
これから、どのように変化していくのでしょうか。
そんなことを、思いながら方丈記読み。
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興趣はつきない。

2012-02-08 | 古典
鴨長明の関連で、無名抄を古本屋へと注文

舒文堂河島書店(熊本市)へ注文したのは、

旺文社の古典解釈シリーズ
「文法全解 方丈記・無名抄」島田良夫著
実際の定価は950円+消費税なのですが、
古本は500円+送料180円=680円なり。

それが今日届きました。
新刊本屋で購入したような一冊。

とりあえず、その「はしがき」を
すこし引用しましょ。

「・・・古典に親しむことによって、日本文化の伝統にあらためて開眼し、感嘆する人も数多(あまた)いるはずである。日本の三大随筆といわれる『枕草子』『徒然草』それに『方丈記』は、それぞれ、自分の時代を個性的に生きた人たちの記録である。そして、なかでもこの『方丈記』には、個性的すぎるほどの人間くささが感じられて興趣はつきない。一方、『無名抄』は、研究・注釈等がまだ十分とはいえない。それだけにまた新しい発見も期待できておもしろい。評論とはいいながら、逸話・伝記・歌論など随筆風の記事もまじって興味がわく。」

ちなみに、たとえば
岩波書店の新日本古典文学大系「方丈記 徒然草」の
方丈記の箇所には本文のほかの付録の箇所に、池亭記や鴨長明集はあれども、無名抄は入っておりませんでした。新潮日本古典集成「方丈記 発心集」にも、無名抄は入っておりません。

この古典解釈シリーズは、監修は今泉忠義・鈴木一雄。
この冊子「文法全解 方丈記・無名抄」のカバー折り返しにはこうありました。

「『方丈記』は前文掲載、『無名抄』は教科書にのっている例文を中心に、入試頻出の例文をもれなく収めてあるので、教科書直結・入試即応の学習ができる。」

うん。私にはどうでもよいのですが、
わかりやすく『無名抄』を読めるのはありがたい。
あらてめて、島田良夫氏の「はしがき」のはじまりの箇所を引用。


「古典が得意であれ不得意であれ、この本を手にした人は、とにかくこれから少しでも実力を向上させるために勉強したいという意欲にもえている人たちであろう。その意欲を中途でたやすことのないよう、計画的に学習をすすめてほしい。『方丈記』を全文通して読む機会などめったにないし、まして『無名抄』に触れるチャンスはわずかではなかろうか。それだけに、この二つの作品をだいじに読んでもらいたい。」


ありがとうございます。私が読みたかった一冊。
「無名抄」の箇所、だいじに読ませていただきます。
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『往生要集』の足跡。

2012-02-07 | 古典
注文してあった2冊が揃う。
一冊目は
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」。
函入りで、帯つき。本は新刊なみのきれいさ。
株式会社 古書ことば (葛飾区柴又)へ注文
500円+送料290円=790円。
この本は、
原勝郎著「日本中世史」による興味から注文。

二冊目は
平凡社東洋文庫「往生要集 日本浄土教の夜明け」全2巻揃い。
函入りで、本文はきれいなものです。
(有)みちくさ書店(国立市東)
2巻揃いで1000円+送料340円=1340円。
ちなみに、源信・石田瑞麿(みずまろ)訳。


この2冊が届いたので、おさらい。

方丈記には、こうありました。
「すみかは折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず、広さはわづかに方丈、高さは七尺がうち也。所を思ひ定めざるが故に、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬ事あらば、やすく外へ移さむがためなり。・・・」
「・・北によせて、障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法花経を置けり。東の際に蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に竹のつり棚を構へて、黒き皮籠三合(三個)を置けり。すなわち、和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに琴、琵琶おのおの一張を立つ。いはゆる折琴、継琵琶これ也。仮の庵のありやう、かくの如し。」

さてっと、平凡社東洋文庫「往生要集1」の方に、解説がありました。
そこの最後のほうに、こんな箇所。

「・・・すでに述べてきたところによって、日本の浄土思想や信仰のなかに『往生要集』の足跡がいかに大きくたどられてきたか、じゅうぶん理解されたことと思われる。源信以後の浄土教思想は、良忍にせよ、法然にせよ、親鸞も一遍も、蔭に陽に、大小の差はあっても、かならず『往生要集』に受けるところがあった。『往生要集』がなかったならば、こうしたひとたちも出現しなかっただろうし、浄土教思想の発展もありえなかったにちがいない。いわば『往生要集』は後に続くものの道標であり、輝かしい金字塔であったのである。このことは今日にもいえることであろう。・・・」(p380~381)

う~ん。手ごたえあり。
とりあえず、本文はあとまわしとしても
買ったときに、覚書として触れておかないとネ(笑)。
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『えんぴつ』の同人M。

2012-02-06 | 古典
徳岡孝夫・中野翠著「泣ける話、笑える話」(文春新書)に
「詠みびと記者」と題する徳岡孝夫氏の文があるのでした。
これは、ちゃんと紹介しておかなくちゃ。

はじまりは、
「故人Mくんは吃音だった。俗にいうドモリである。・・・松江支局でくすぶっていたところを推す人がいて、大阪の社会部へ引き抜かれて来た。部会で自己紹介に立ったとき、自分の姓を冗談にして『どうです。ええ名前でっしゃろ』と笑うのを聞き、私は只者ではないぞと感じた。・・」

そのMくんは、というと

「学生時代の彼は開高健、谷沢永一らと『えんぴつ』の同人で、その同人誌を謄写版で刷っていた。お手の物である。」(p227)

そのMくんに教えられたことを、ひとつ引用してくれておりました。
ここは、孫引きしておかなければ。

「彼は、昭和天皇の『あかげら』の御製を『昭和時代の絶唱や。万葉集に入れても恥ずかしゅうない』と絶賛した。

  あかげらの叩く音するあさまだき
    音たえてさびしうつりしならむ

崩御の前の年の秋、那須の御用邸での作で、天皇さんの時世の一首と言ってもいい。人は老いれば目覚めが早くなる。床の中で、じっと森の音を聞いておられる。入江相政(すけまさ)をはじめ、幼いときからの親しい友は、みな世を去ってしまった。我もまた遠からず、あかげらのように移るのであろう。その寂寞、孤独が、帝王ならではの雄大なお気持ちの中で歌われている。大きい歌といえば私は源実朝の『箱根路をわが越えくれば伊豆の海や』くらいしか浮かばない。それとは別種の気高い大きさがあることを、Mに教えられて初めて知った。Mと私は、夜の更けるまでそういうことを電話で話し暮らした。・・・」



うん。さりげなくも、徳岡孝夫氏の交友の磁場からとりだされてくる、
こんなエピソード。

ちなみに、この新書のあとがきを、徳岡氏は、こうしめくくっておりました。

「読者は本書の中に心地よい躍動と倦怠を、代わりばんこに発見されるだろう。私が優位に立てるのは一つ、見てきた過去の長さだけである。いわば『過去への旅人』の拙い旅行記に過ぎない。」

願わくば、この旅行記が、またどこかで書きつづけられてゆきますように。
というのが、1ファンの思いでもあります。
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「徳岡孝夫」再び。

2012-02-05 | 古典
2012年「諸君!」2月臨時増刊号。
はじまりに「紳士と淑女」があります。
これを読むために、私は買いました。
ちなみに、文春新書の新刊に
徳岡孝夫・中野翠著「泣ける話、笑える話」が出ています。
こちらも、購入。
まずは、発売順に、文春新書から
その帯は
「これぞ本物。プロの芸をとくとご覧あれ・・・・
駄文の氾濫にうんざりしている貴方に極上の一冊をご用意しました。
すべて書き下ろし40本」
とあります。
新書では2人が交互に書いている文の、私は徳岡孝夫氏の方だけ読みました。
徳岡氏の文を読めるよろこび。
でも、新書の帯の紹介は、ちと、いただけないなあ。
徳岡氏とは、どのような方なのか。
ということなら、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社・1991年)の
この箇所など、単刀直入で人となりをあらわせております。

「このさき何をして・・・あるいは何を書いて生きるか。
世間には随筆を書いて知られる人がいる。評論、小説を書いて暮らしている人もいる。だが私は、随筆を書いて生計を立てるほど文章の上手ではない。そもそも味で読ませる文章など、ジャーナリストにとっては邪道であり、私はそういうものを書くような訓練を受けていない。では評論は? 私には教養が足りない。しっかりした歴史観や社会学的座標軸を持っていなければ、ひとかどの評論の出来るわけがないが、私はこれまで、そんなものを確立する意図も時間の余裕もなかった。」(p46)

こういう明快さが、たとえば三島由紀夫などを惹きよせた磁力となっているのだろうと思うのでした。
「諸君!」の最終号で、巻頭随筆「紳士と淑女」の著者は徳岡孝夫というものであったと、自己紹介をして終わっていたのに、余得のようにして再度読めるよろこび。
緊急復活!「『紳士と淑女』再び」とある臨時増刊号「諸君!」の、
その巻頭コラムを、おもむろに読むわけです。

「民を最も虐げた苛烈きわまる体制の主が、民から泣いて惜しまれる。何という政治的逆説だろう。」とコラムは始まり1ページ3段で7頁。
最初の頁の最後に源実朝への言及がありました。
そこを引用。

「他国の人はいざ知らず日本人は、若くして将軍になった三代目と聞けば、源実朝(1192~1219)を思う。頼朝の子に生まれ、兄頼家が廃されたため、実朝は金家(注:北朝鮮のこと)の三代目より(おそらく少し)早く鎌倉幕府の第三代将軍になった。政治家よりは歌人、鎌倉よりは京都の文化が好きだった。鶴岡八幡宮参詣の帰途、社前の大銀杏の蔭に潜んでいた頼家の遺児公暁(くぎょう)に襲われ若死にした。
将軍ではあったが政治の実権は早くから北条氏の手に握られていた。北朝鮮という全体主義も、内部では実権の遣り取りでインインメツメツの争闘なのだろう。金正恩大将も大銀杏の前を通るときは、気を付けた方がいい。」

ここで、源実朝(さねとも)を登場させるのが、
何とも「紳士と淑女」の真骨頂だと、読み手はうなずくのでした。

さて、徳岡孝夫氏の数冊をペラペラとめくって気づいた箇所がありました。
それをご報告。
2007年「諸君!」10月号の特集に
永久保存版「私の血となり、肉となった、この三冊」
脇には「読み巧者108人の『オールタイム・ベスト3』」
という企画が掲載されていました。
そこに、お一人だけ、方丈記を取り上げている人がいる。
うん。それが徳岡孝夫氏なのでした。
徳岡氏は3冊の最初に方丈記をもってきておりました。
貴重なので、ここも引用。

「ここに挙げるのは、長年にわたり教えを受けてきた、本の形をした『我が師』である。
鴨長明『方丈記』。西洋でも『橋の下を×年間、川は流れた』という言い方をする。現在進行形である。『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず』という認識とは全く異なる。無常が今のことである。長明を世捨て人のように言うのは間違い。彼は公卿(くげ)支配の最期を見て、保元・平治の乱を潜った。福原遷都という、以後七百年続く武家幕府の始まりを見た。大戦争と敗戦と高度成長を体験した現代人とよく似た、変革期の人である。」

さてっと、鴨長明と源実朝について。
ということで、新潮日本古典集成「方丈記 発心集」の最後に載っている「長明年譜」から。

建暦元年(1211)鴨長明57歳
 十月、長明、飛鳥井雅経とともに鎌倉に赴き、源実朝に数次にわたり対面。13日、法花堂で頼朝を追悼、懐旧の歌一首を詠む。

建暦二年(1212)鴨長明58歳
1月25日、法然没す(80歳)。三月下旬、『方丈記』成る。

建保4年(1216)鴨長明62歳
閏6月8日(9日・10日説もある)長明没す。

 1219年2月13日源実朝没す。享年28(満26歳没)。



じつに、方丈記は、鎌倉にいって源実朝と会った、
その次の年に書き上げられて完成したというのでした。




ここらで、また、臨時増刊号のコラムへともどりましょう。
コラムの最後を、引用させてください。

「読者紳士と淑女諸君! お変わりございませんか。またお目にかかれるとは、思ってもいませんでした。・・・そういえば三年前に納棺の式を行った・・・ふと目を上げると、蓋を取って私を覗いている者がいます。何事かと問うと、金正日が死んだ、『諸君!』の臨時増刊を出す。棺から出て早く仕事せよというのです。・・・這い出して綴ったのがこのコラムです。金正日なんて暴力団の組長クラスの男です。叩くのは容易い。だが書かずにいた三年間に、こちらのペンも錆びました。とにかく〆切りに間に合ったのが御覧のページです。」

うん。読ませていただきました。
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囁くように。

2012-02-04 | 本棚並べ
堀田善衛著「若き日の詩人たちの肖像」(新潮社)。
この単行本の古本を注文して、届きました。

千葉市 草花堂K2 へ注文しました。
420円+送料340円=760円なり。

函入りで、函の厚みは3.7センチ。
第一章の前に、すこし文章がありまして、
そこに、田村隆一の詩「1940年代夏」から引用がされております。
その詩の引用の鍵カッコの箇所を、すこし。

「おれはまだ生きている
 死んだのはおれの経験なのだ」
「おれの部屋は閉されている
 しかしおれの記憶の椅子と
 おれの幻想の窓を
 あなたは否定できやしない」


とりあえず。この古本を辞書をひくように、
パラパラとめくれば、
「方丈記私記」の第二章にある
「私は拙作『若き日の詩人たちの肖像』のなかで、この日本中世の『黒』い乱世ぶりを要約して、次のように列挙したことがあった。それをもう一度使わせて頂いて・・」という引用の箇所は、「若き日の詩人たちの肖像」の第三部(p338)に出てくるのでした。

さてっと、パラパラとページをめくって、
私に興味深かったのは「マドンナ」が歌っている場面です。

「夕べあしたの鐘の音
 寂滅為楽と響けども
 聞いて驚く人もなし
 花は散りても春は咲く
 鳥は古巣へ帰れども
 往きて帰らぬ死出の旅
 野辺より彼方の友とては・・・・

という、大菩薩峠の間(あい)の山のお玉の歌を小さい声で囁くようにうたった。」(p319)


ドナルド・キーンさんは、東日本大震災に関連して、
日本の文学では、方丈記しか思い浮かばないという言葉が
今年の元旦の新聞のエッセイにあったのでした。
平家物語ばかりでなく、
方丈記の系譜は、親鸞へ、この大菩薩峠へとつながっているのだろうなあ。そんなことを、思い浮かべるのでした。

うん。いつか「大菩薩峠」を読むぞ。
というのは、気が早い。
方丈記を、まだろくすっぽ読んでないのでした。

ということで、
「健礼門院右京大夫」
「往生要集」
の古本を注文することに。
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泰然として。

2012-02-03 | 本棚並べ
時候の挨拶で、つい「寒さに実力が」と、書いてしまいました。
あらためて、井伏鱒二著「厄除け詩集」(講談社文芸文庫)を、ひらいて、さがしてみると、詩集の最後に、それはありました。

    冬

 三日不言詩口含荊棘

 昔の人が云ふことに
 詩を書けば風邪を引かぬ
 南無帰命頂礼
 詩を書けば風邪を引かぬ
 僕はそれを妄信したい

 洒落た詩でなくても結構だらう
 書いては消し書いては消し
 消したきりでもいいだろう
 屑籠に棄ててもいいだろう
 どうせ棄てるもおまじなひだ

 僕は老来いくつ詩を書いたことか
 風邪で寝た数の方が多い筈だ

 今年の寒さは格別だ
 寒さが実力を持つてゐる
 僕は風邪を引きたくない
 おまじなひには詩を書くことだ



昨日のコラム産経抄に、「北越雪譜」からの引用あり。
そういえば、と岩波文庫をもってきて読み始める。

たとえば、こんな箇所

 此雪いくばくの力をつひやし
 いくばくの銭を費(つひや)し
 終日ほりたる跡へその夜大雪降り
 夜明て見れば元のごとし。
 かかる時は主人はさら也、
 下人も頭(かしら)を低(たれ)て
 歎息(ためいき)をつくのみ也。
 たいてい雪ふるごとに掘るゆゑに、
 里言(りげん)に一番掘二番堀といふ。(p27)


昨日手元にある
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波書店)のはじまりは

「1957年2月15日。13・30、『宗谷』とわかれる。これで、はじめてわれわれ11名だけになった。いつか日本から迎えが来るまでは、日本、否、文明国に帰ることはできない。どんなにつらいことがあっても、何が不足していようとも、与えられただけのもので生きていかねばならない。しかし越冬隊員は、みんなうれしそうに笑っている。だれ一人うちしおれているものはない。気がセイセイしたようだ。あのきゅうくつな『宗谷』から解放されて。・・・」

同じく手元にある梅棹忠夫の「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」にはこんな箇所がありました。

「今西自身はたいへんな読書家であった。山と探検が表面にたつので、今西は『行動のひと』とみられがちで、書斎の読書人というイメージからはとおいが、じっさいは幅ひろい読書の経験をもつすぐれた知識人であった。・・・探検隊の行動中においても、かれは読書を欠かさなかった。大興安嶺やモンゴルの探検行でも、キャンプ地に到着して、わかい隊員たちがテントの設営や食事の準備にいそがしくたちはたらいているあいだ、今西はおりたたみ椅子の腰かけて、くらくなるまで読書をした。今西は予備役の工兵少尉であったから軍用の将校行李をたずさえていたが、そのなかにはいっているのは大部分が書物だった。朝になって若者たちがテントの撤収をおこなっているあいだもかれは読書をつづけた。冬のモンゴル行においてもそうであった。零下20度の草原で西北季節風がびょうびょうとふきながれるなかで、かれは泰然として読書をつづけていた。」



うん。その爪の垢でも。
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4人一緒の写真。

2012-02-02 | 短文紹介
小長谷有紀編「梅棹忠夫の『人類の未来』」(勉誠出版)をひらく。
まあ、私は、そこに散見する写真類に目がいくくらいなのです。
そしたら、ありました。
p59に世界地図をバックに、丸いテーブルを囲んで4人の写真。
梅棹忠夫・桑原武夫・西堀栄三郎・今西錦司(1959年)。
座談会のようで、皆さん背広にネクタイ。

この写真は、たとえば国立民族学博物館「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(¥1890)にも掲載されておりませんでした。そう、「特別展 ウメサオタダオ展」用の冊子に載っていなかったのです。2011年夏の季刊雑誌「考える人」の追悼特集梅棹忠夫にも、この写真はありませんでした。

梅棹忠夫には、今西錦司追悼「ひとつの時代のおわり」という文がある。つい、西堀栄三郎著「南極越冬記」と桑原武夫との関係なども連想してしまいます。

たとえば、加藤秀俊・梅棹忠夫・林雄二郎・川添登の「貝食う会」の4人の写真は、他の雑誌にも掲載されているので、見ることができるのですが、やはり4人とも亡くなった方が一緒にいるところの写真は、つい、後回しになり、省かれてしまいやすいのだろうかなあ。などと思いながら、貴重なのになあ、と思って見いっておりました。

テレビかラジオの座談で一堂に会したのでしょうが、
何を語ったかというよりは、
この4人が一緒の写真。という魅力。

あと、竹内整一氏の「『はかなさ』の感受性へ」という文(p202~)は
こうはじまっているのでした。

「東日本大震災から半年以上経ったが、東北各地の震災・津波からの復興・復旧も、福島第一原発の事故収束も思うように進んでいない状況が続いている。その意味でわれわれは、いまだ大きなクライシス・危機に直面している。クライシス(crisis)という英語は、危機と同時に、転機・転換という含意がある。危機はそれを乗り越えたとき、ある転機・転換を果たしているということであるが、われわれは今、この危機をどう乗り越えるかということと同時に、それをどう『よき』転機へと転ずることができるかということも問われているように思う。」

こうはじまる竹内氏の文は副題に「梅棹忠夫の『人類の未来』論に即して」とあるのでした。読んでスラスラと頭に入ります。うん。この一冊、丁寧に読んでみます。
コメント (3)
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それを読みたい。

2012-02-01 | 本棚並べ
司馬遼太郎・堀田善衛・宮崎駿「時代の風音」(UPU)という鼎談本。
その一部は、司馬遼太郎対話選集4「日本人とは何か」(文芸春秋)に入っておりました。その対話選集の解説にこうありました。

「この鼎談は1992年・・・・同書は、『エスクァイア日本版』のために行われた二回の座談をもとに、担当編集者だった植田紗加栄が再編集した。きっかけは、宮崎の知人の別荘が堀田の別荘と隣合わせにあり、そこで宮崎が堀田との知遇を得た折り、堀田にぜひ司馬と対談してほしい、それを読みたいと希望したことにある。その旨が堀田夫人から『エスクァイア』の植田に伝えられ、実行されることになった。植田は語る。『宮崎さんは、はじめ鼎談に参加されることを固辞されましたが、読者のためにぜひ、とお願いしたのです』・・」

ちなみに、対話集には鼎談「時代の風音」の第五章「宗教の幹」が掲載されておりました。

ここでは、単行本「時代の風音」のp197~198に出てくる
司馬さんの言葉から、引用。そこに梅棹忠夫が語られておりました。


「梅棹忠夫さんが二十数年まえに文化人類学者といっしょにヨーロッパ文化人類学調査をしたときに、ヨーロッパ人のプライドをいたく傷つけました。そもそも文化人類学というのは、ヨーロッパ人がアフリカなどでやる学問じゃないかというわけです。
それを大まじめに日本人たちがヨーロッパ人を対象にやりまして、梅棹忠夫さんはイタリアを受け持ちました。ローマから歩いて一日行程ぐらいの村で、彼はしばらく定住しました。そのときに、年をとった運搬業者のじいさんから聞いた話がおもしろかったそうです。
自分は最初に親方に奉公したのは十四歳のときで、そのときにローマに荷物を運んでいくについて、『おまえ、ローマに行って恥かかんようにな。ローマはな、ナイフとフォークというもので飯食っているんだ』といわれて木でそれを作って、稽古をさせられたもんだというのです。ということは、梅棹忠夫が二十年まえに調査したとして、そのおじいさんの五十年まえの話だとして勘定したら、いまからほんの七、八十年前は、ローマの郊外ではナイフとフォークは使われてなかった。」

このあとに、堀田善衛さんが薀蓄を、さりげなく披露しておりました。
そういえば、新刊に「梅棹忠夫の『人類の未来』」(勉誠出版)があったなあ(なんて、梅棹忠夫著作集さえ読んだことのない私が思い浮かべます)。

さてっと、司馬さんの言葉のなかに、
『おまえ、ローマに行って恥かかんようにな』というのがありました。

そこから、私が思い浮かべたのは、
天野忠の詩「修学旅行」でした。
ということで、その詩の引用。


    修学旅行

 東京へ行ったら恥かくな
 先生は言った。
 黒板に大きく洋式便器の絵を画いて
 『ええか
  この前に立って行儀ようやるんじゃ
  ここを押すと
  水がサーッと出てくる』
 水のサーッと出てくるところは
 白ボクを勢いよく擦するように画いた。
 古い牛乳みたいな水がサーッと出てきた。
 『ええか お前ら  
  しょんべんで恥かくなッ』
 黒板の水洗便器に向って
 平畑村の古田君がハイッと手を挙げた。
 『先生、しょんべんだけか』
 『阿呆ッ、大は別じゃ』
 それから大の方の絵と説明をしてから
 『以上である、わかったか』
 『ハイッ』
 と全員は答えた。

 次の日
 全員十一名は夜明けに村を出て
 駅まで歩いた。
 途中で
 古田君の病気のお母ぁが
 日の丸を振っていた。


この詩は、天野忠詩集「讃め歌抄」にあります。
そういえば、未読ですが気になるのが
天野忠著「我が感傷的アンソロジイ」(書肆山田)という本。
こちらは、知られずに消えてしまった詩人を
詩とともに、すくいあげてくれている詩人論となているようです。
最初の文だけ読んだことがありました。
消えてゆく詩たち。

さてっと、小長谷有紀編「梅棹忠夫の『人類の未来』」
という本は、じつは手元にあります。
その最初に、「『人類の未来』目次案」
という梅棹氏の手書きの草稿が掲載されておりました。
その最後のエピローグの目次案は、というと

「  エピローグ

 エネルギーのつぶし方 ―――
 理性 対 英知    ―――
 地球水洗便所説    ―――
 暗黒のかなたの光明           」

このなかの、地球水洗便所説というネーミング。
はたして、どう書かれる予定だったのかなあ。
ちなみに、地球規模という発想では
こんな箇所がありました。

【梅棹】なるほど。しかしね。民俗学の立場から言うと、
人間というのは本当に何をするか分からない生き物ですよ。
東海村での臨界事故にしても、ウラン溶液をバケツで入れた
訳でしょう。そういうことが起こるんです。
いろいろ手を尽くして安全に努めても、
それを裏切るようなことが起こる。
日本で起こることなら、海外でも必ず起きますよ。(p151)

【地球文明 2000年の座標】という題で、
1999年11月におこなわれた対談。



「それを読みたい」といった宮崎駿さん。
その希望を、つないだ堀田夫人。
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