和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

今日の夢 逢坂の夢。

2020-01-14 | 京都
「京都ことわざ散歩」(京都新聞社・2000年)。
うん。たのしい一冊でして、
つい、引用したくなります。

「あとがき」からも引用。

「京都は千年の都だ。
『源氏物語』『枕草子』『徒然草』や軍記物の
『平家物語』などをひもとくと名言、警句、
有名な故事の宝庫で庶民の落書、童歌にも
立派に『ことわざ』になっているものが多い。」

「京都のことわざには『京ぼめ』や他国との比較が多い。
一方で他国者の京都批評、京都の悪口にも傑作が多く、
京都を語る場合、今も尾を引いているものが少なくない。
とくに狂歌作者大田南畝(蜀山人)の京都人をこっぴどく
こきおろした『今ぞ知る花の都の人心 ろくなるものは更になし』
で始まる『京風いろは歌』は逆読みにしていくと、
新しい京都像の可能性さえはらんでいる。」(p165)

はい。その太田南畝の「いろは歌」もp23~25に
載せております(笑)。

思いもかけない視点がゴロゴロしてる
ので、チラリとでも引用を重ねましょ(笑)。

「江戸は男社会。木村卯雲(二鐘亭半山)は
天明元年(1781)の『見た京物語』で
『京に多きもの、寺、女、雪駄(せった)直し』
と書き『六分女、四分男たるべし』と観察している。

江戸者の京見物に共通の見方のようで
女が男と平気で町中を歩く姿に驚いている。
江戸の武家の女は町人とは隔離された
武家屋敷に生活し町中をぶらりと歩くことは
少なかった。」(p36)

「『風すくなし、雨まっすぐに降る』」
(p53)

こんな箇所もありました。

「京都の町民の気位が高いのをたとえて
『五位(ごい)の位(くらい)』と呼ばれた。
 ・・・・・・
江戸時代、大名が通ると町人や百姓は
土下座して通過するのを待ったが
京の町人はその必要がなかったという。
京を『輦轂(れんこく)のもと』と呼んだ。
天皇の乗り物のおひざ元の意味だ。」
(p61~62)

うん。京都の辞典なんて、めくらなくても、
こちらの本なら、ついパラパラとひらきたくなる。
京わらべ歌と地続きの身近さが、うれしい一冊。

いろいろ引用は重ねたいのはやまやまながら、
最後は『京の夢 大阪の夢』から。
そのはじまりは

「いろはがるたの最後が『京』で『京の夢大阪の夢』--。
江戸後期の『俚言集覧』には
『夢物語をする前にかく言いて後に語るものなりと言えり』
とだけ解説している。
奇想天外な夢物語を始める前に唱える言葉で
『むかし、あるところに・・・』とさして変わらない。
時間、場所、時代を飛び越えて
自由に語られる物語も夢なればこそ。
『今日(京)の夢 合(逢)坂の夢』
とかければ、めでたい。」(p69)

この短文の最後はというと、

「『京の夢大阪の夢』は江戸型で
京都では『京に田舎あり』---。
大阪には『京』のかるたはない。」(p70)

はい。老若男女どなたにでも、
私は、お薦めしたい一冊(笑)。
ここからなら、京のお喋りが
楽しくなる、末広がり本。

もう、20年前の本なので、
新刊書店で、さがせない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京の底冷え。

2020-01-13 | 京都
「京都ことわざ散歩」(京都新聞社)。
文は三浦隆夫。絵は藤原みてい。

うん。京都に関連する安い古本を
ネットで注文するのですが、
さすが歴史の都。重複する記述が
すくないのは、京都の懐・奥行の深さ。
ガイド本の薄っぺらさに当たる確率はすくない。
うん。これも新刊じゃなくって古本だからの
ありがたさ(笑)。

さてっと、この本は、
京都の気軽なことわざ辞典という一冊。

そこから『京の底冷え』の全文を引用。

「底冷えは体の心底まで冷える寒気。
一般的につかわれる言葉だが
京の底冷えは有名だ。

京都は三方山に囲まれた盆地。
風も雲もない冬季には夜間に冷えた空気が
盆地にたまり暖かい空気は上にあがる。

これが放射冷却現象で
地上は冷気湖、寒気湖となる。
普通は上空に行くに従って冷えるが
盆地では気温の逆転が起こる。

『京都お天気歳時記』によると
暖かい空気と冷たい空気の境目を
『逆転層』と呼ぶ。

宇治田原町の鷲峰山(623メートル)の
中腹から山頂にかけて茶畑がある。
寒気に弱い茶が山上に育つのは
この気温の逆転現象を利用したものだ。

元気象庁予報官の岡林一夫氏の調査では
氷点下の日数が
一月で京都15日、大阪6日。
二月は京都13日、大阪6日。
最低気温は京都が大阪より2度近く低い。
京の底冷えは数字的にも裏付けられる。

・・・・」(p58~59)

はい。最後の3~4行は駄目押しなのでカット(笑)。

うん。ことわざで知る京都というのも
奥が深くってありがたいのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なーおまえ、天国ちゅうとこは。

2020-01-12 | 京都
松山猛著「僕的京都案内」(日本交通公社)。
はい。500円。古本で購入してありました。

著者紹介を見ると、こうあります。
「松山猛(まつやまたけし)
1946年8月13日、京都市生まれ。・・
1967年に作詞した『帰ってきたヨッパライ』
がミリオンセラーとなる。
1970年上京。・・・・フリーライター、
編集者として活躍・・・」

そうだったのか、
「帰ってきたヨッパライ」の作詞者。
あの曲のなかには、たしかメトロノームも
木魚の音も、読経もでてきたのでした。

この本の『プロロオグ』から

「この『僕的京都案内』の取材は、
三度にわたったが、最後の写真取材に訪れたのは、
年があらたまってすぐの真冬であった。

京都に着いた夜から雪になり、
その雪は見る見る街を白く染めあげた。
僕は京都の冬が子供の頃から好きだったし、
その降り具合から想像すると、翌朝の風景が
素晴しかろうと想像できた。

翌朝は7時から外に出た。
都ホテルの最上階からのながめは、
かつて見たどの京都よりも、
美しいと思われるパノラマであった。

その足で南禅寺に行った。
寒椿の垣根に積った雪を見たかったからである。
忘れていた京の冬の底冷えが、
つま先からはいあがってくるのだが、
美しさの魅力には勝てぬ。

南禅寺の本堂では、朝の勤行がはじまっていた。
しんと凍えた空気の中に、春の匂いが漂い、
読経の声が和音となって響きわたる。
・・・・」(p18)

うん。本文から一カ所引用。
『初音』は、こうはじまりました。

「祇園石段下、つまり八坂神社のおひざもとの、
東大路に面したところにある、うどん屋さんである。」

この1頁の紹介文の最後はというと、

「京都のうどん屋さんは、たいてい
どこへ入っても当り外れがない。
まっとうな味じゃないと、
隣近所が食べに来てくれないのだ。

だから観光名所じゃない所で、
軽いお昼を、なんて考えるなら、
近くのうどん屋さんに限る。」(p50)

見開き、右ページに紹介文。
左ページにお店の外観の写真。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西堀栄三郎の京都弁。

2020-01-11 | 京都
そういえば、と未読本を本棚から、とりだす。
西堀栄三郎選集別巻
「人生にロマンを求めて 西堀栄三郎追悼」(悠々社)。

稲葉秀三の「西堀話術の魅力」(p25~27)に

「西堀さんは80歳を過ぎてからも、
頼まれればどこにでも出かけられ、
講演をし、座談会に出席することを
やめようとしなかった。・・・・・・・

自分の体験を中心に、わかりやすく、
親しみを込めて話される。これは西堀さんの
独特の話術であり、いつ聴いても印象深い。
・・・西堀さんは京都以上に永くほかの地、
とりわけ東京に住んでおられた。
それにもかかわらず、
あくまで京都弁で語られる。
かくして忘れられない印象を残す。・・・」


パラパラとめくっていると、
最後の方にも、ありました。

小原正典氏の「記憶に残る西堀語録」(p401~404)。

「・・・昭和11年の秋頃、京都大学から東京電気(現東芝)の
研究所に着任された時である。当時私はその春入社した
ばかりの新人だった・・・・・・
お人柄には強烈な感銘を覚えた。
学識のほどはいわずもがなだが、
それを披歴する話術の妙は全く
魅力的であり説得力があったので、
われわれ研究所の若い者はたちまち
そのファンとなった。関西弁を全く
違和感を与えずに駆使されたが、
その結果、西堀さんの指導された現場の
人たちまで、口真似で関西弁を使って
議論するのが流行したぐらいである。」

うん。せっかく『東芝』とあるので、つぎの頁に、
それにまつわる箇所があったので引用。

「東芝真空管研究グループのボス浜田さんは、
大人の風格をもつ正義感に満ちた信念の人で、
われわれ若者はまったく心服していた。
西堀さんの招聘に当たっては浜田さんの尽力が
大きかったようだが、西堀さんは浜田さんを支えて真空管
(当時は現代の半導体ICに匹敵する時代の花形であった)
製造技術の確立に献身しておられた。
・・・・戦後、心ならずも東芝を退かれた・・・・」

うん。ほかにもいろいろと、
今西錦司氏との関係もわかる箇所がある。

「今西錦司兄の妹にあたる美保子姉が
西堀栄三郎氏に嫁がれて、京都の北白川や
吉田山に西堀家が居をかまえられていた頃」(p58)

「下鴨の今西の北隣りに、
四条の大店(おおだな)をたたんだ西堀・・の御両親が
静かに余生をおくっていらっしゃいました。」(p28)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あれは何やろか。

2020-01-10 | 京都
桑原武夫・司馬遼太郎の対談を
いつ読んだのだったか。忘れちゃった(笑)。
そこで、気になっていた言葉があります。
途中からですが、引用してみます。

司馬】 実をいいますと、いまの発言は、わたしが
多年桑原先生を観察していての結論なんです(笑)。

大変に即物的で恐れいりますが、
先生は問題を論じていかれるのには
標準語をお使いになる。
が、問題が非常に微妙なところに来たり、
ご自分の論理が次の論理の結論にまで
到達しない場合、急に開きなおって、

それでやなあ、そうなりまっせ、
と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・・。


桑原】 批判していたわけだ(笑)。

司馬】 いや、批判じゃなくて、
これはやはり標準日本語がまだ
不自由で足りないところがある
せいだろうと思っております(笑)。

喋り言葉としての標準語は論理的であるにしても、
おっしゃるように100パーセントの論理性はない。
そこで、感情論理学を背負っている
京都弁で栓をしてしまう。

桑原】 ぼくは標準語を使ってはいるが、
意をつくせないときはたしかにありますね。
そこで思うんですが、社会科学などの論文に、
もっと俗語を使って、『さよか』とか・・・(笑)。

司馬】 『そうだっしゃろ』とか・・・。

桑原】 『たれ流し、よういわんわ』というような
言葉が入るようになればおもしろいと思うんですがね(笑)。

司馬】 そうですな。

〈 桑原武夫対談集『日本語考』(潮出版社)p57~58 〉


私がこの対談を読んだのは、はっきりしませんが、
おそらく、30年も前のことだと思います。

それから『あれは何やろかと・・・。』が
数年ごとに、思い浮かんでくる。
まるで、オバケだなあ(笑)。

昨年は、
偶然その疑問の入り口の玄関前に
立ったような気分を味わいました。

それが、京ことばなのでした(笑)。
うれしい驚きは、梅棹忠夫著作集の
月報でした(著作集第17巻の月報18)。
寿岳章子さんの短文でした。
その短文での
最初の場面紹介は、
ある年の正月、NHKの『とそ機嫌』とか
名づけた一時間の放談会でした。

「今は亡き桑原武夫、梅棹忠夫・・・
というような中に私も仲間にして頂いた。
とにかく、桑原、梅棹二氏の談論風発ぶりは
すごかった。それも・・全くの京ことばのおしゃべり」

次に紹介されていた場面は古くって
昭和31年筑摩書房発行の「言語生活」に掲載された
座談会『動物のことば』でした。
座談のメンバーは今西錦司・上山春平・伊谷純一郎
川村俊蔵・梅棹忠夫。

寿岳章子さんは無理に出版社の同伴ということで
その場に立ち会っていらっしゃったらしい。
月報にこう記されておられます。

「愉快な座談が始まった。とびきりおもしろいニホンザルの話。
メンバーはそれぞれニホンザルの社会形成に深くかかわる
人たちで、どの発言もまことに内容ゆたかであった。もともと
私はサルの鳴声と言語との関連にまず興味があったのであるが、
やがてその座談会の無類のおもしろさが
もう一つあることにいやでも気付いた。

今西、梅棹二氏は全くの京ことば、
伊谷、上山二氏は共通語という
二パターンで座談会は形成されていて、
その京ことばの自在さに私は圧倒された。」

せっかくなので、
寿岳さんの、この箇所もうすこし引用。

「だから私はそのお二人の京ことばぶりが
十分に文字化されるよう、文末のデリケートな
特に助辞をていねいにメモした。念のため、
ゲラ刷りにも目を通させてもらった。
その、京都ことばで学問的内容が語られる
ということじたいに、おそらく歴史的価値が
生じるにちがいないと判断したからである。
 ・・・・・・・

あるのやで・・・つかめてへんわ・・・・どうやいな
・・・・逃げはったんやな・・・・作るのんや・・・。
堂々とこういう形で京都方言を駆使して話す
サル話はとても楽しくもありおもしろかった。
私の大収穫は、
『東京ことばでしゃべらんかてもええのや』
というテーマを得たことであった。・・・・」

ちなみに、特集「動物のことば・人間のことば」が
はいったのは、『言語生活』第55号(昭和31年4月)。

今年の『わたしの京都』は、
この雑誌を読み直すところから
はじめられますように。
この古い『座談』に、はたして
『歴史的価値が生じ』ているか?







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毎日、コラムを書く。

2020-01-09 | 短文紹介
ある新聞の一面コラムは、
こうはじまっておりました。

「毎日、コラムを書く。
心の動くような話が、
そうそう毎日見つかるわけではない。
・・・・・」

はい。このコラムの、
後半、全文を引用。

「『道楽を人のほむるや春の風』といった
句を作るはなし家もいた。道楽は
道に楽しむと書くそうですが、
道に落ちると書いても道楽です。
といったマクラを振っていつの間にか
本題にはいった。円生は
『私は芸人で、芸術家じゃありません。
別に術を使いませんから』といっている。

死んだ志ん生は、
政府が勲章をくれるといわれ
『わたしゃあ、そんな大それたことした覚えはねぇ』
とごて気味だった。
芸人はうまければよいのだ、
という自負があったのだろう。」

はい。途中ですが、昨年ユーチューブでは、
愛知トリエンナーレと
広島トリエンナーレの話題が
事実に即して指摘されておりました。
県と市と文化庁の補助金を
もらいながらの芸術の自由だそうでした。
その芸術のなかに、昭和天皇の写真を
ガスバーナーで燃やして、そのあと、
灰を靴で踏んづけている映像まで含んだ。

そういう、昨年の芸術騒ぎの
そのあとに、今回のコラムを読むと、
なんだか、芸人落語が聞きたくなる。
もどって、コラムの終盤を引用。

「のんべえ亭主の落語がある。
べろべろで帰ってきた亭主をつかまえて、
『この上げ潮のゴミめ!』とかみさんがかみつく。
『それは何だ』
『途中で、どこにでもすぐひっかかっちゃうから、
お前さんは上げ潮のゴミだよ』。
亭主はタンカを切る。
『おめぇはゴミだ、ゴミだっていうが、
ただひっかかってるんじゃねぇ。
ゴミにはゴミのちゃあんとした了見があって、
ひっかかってんだ』。
ゴミの気持ちを代弁するところに、
芸人の心意気があった。」

はい。このコラムは
昭和50年4月16日のもの。
作者は、深代惇郎。
単行本になった際に、
題して『ゴミの了見』。

ここは、坪内祐三著「考える人」(新潮社)から
深代惇郎の箇所をとりだして、引用。

深代惇郎が担当していた
朝日新聞の名物コラム『天声人語』は
1973年2月~1975年11月1日。

その頃の坪内祐三氏は、
中学三年生(正確にいえば中二の二月)から
高校二年生にかけてでした。

この3年間だけの天声人語をとりあげながら、
坪内祐三氏は深代惇郎を
『過去の人として忘れてしまうべきではありません』
(p124)としております。
以下に引用。

「今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針は
どうなっているのか知りませんが、当時、私の中学、
高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』を
読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、
毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約が
課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。

私が『天声人語』を熱心に読むようになったのは、
そういう教育方針に導かれてのことだと思います・・・。
それがたまたま深代惇郎の担当期間に当っていたのですから
・・・それはとても幸福なことでした。


しかし、その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベル
の文章という印象が体に深くしみついてしまったのは
不幸なことでした。

それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。」
(~p125)










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去年(こぞ)今年

2020-01-08 | 詩歌
1996年に岩波文庫から上下巻の
「虚子五句集」が出て、高浜虚子の俳句をパラパラと
手軽に気軽にめくってゆくことができるようになりました。
そういう、下地があったせいか、
昨年古本で、稲畑汀子著
「虚子百句」(富士見書房)があり、買っておく。
新年になって、本をひらくのが億劫なときに、
俳句を見るのは楽しい(笑)。
こういう時に、俳句がしみます。

「虚子百句」にある高浜虚子年譜をめくる。

明治7(1974)年松山市生まれ。
明治25(1892)年18歳
「4月、伊予尋常中学校卒業。9月から
京都第三高等中学校に入学することになる
この間に帰省中の子規を訪ねてきた夏目漱石に
紹介される。9月、第三高等中学校に入学。
京都に下宿住まいをする。」
明治26(1993)年
「・・12月、虚子は小説家を志し、
学校を止める積もりで東京の子規の
ところに転り込む。」
明治27年
「5月、小説の書けない虚子は落胆し、
第三高等中学校に復学しようと京都に
・・・・7月、学制変革により・・仙台第二高校へ
と転校となる、9月、仙台に赴くも一カ月で
・・・退学し、子規を頼って上京し放蕩生活を送る。」

肝心だと思えるのは
明治28年でした。
「5月、日清戦争に従軍記者として中国に渡った
子規は帰りの船で喀血、京都にいた虚子は駆けつけ、
神戸・須磨と看病にあたる。この間、
子規から後継者になることを要請されるが、
あいまいな返事をする。12月、小康を得て
東京に帰った子規から道灌山に於いて
子規の後継者になるよう膝詰め談判をされるが
拒絶する。」

うん。高浜虚子の出航前夜というところでしょうか。
私に興味深いのは、東京と京都。
そして、俳句と高浜虚子との距離。

もどって、
稲畑汀子氏が一句ごとに解説を書いている
「虚子百句」から、お正月ですから、この句の

  去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの

稲畑汀子氏の解説は、こうはじまります。

「昭和25年12月20日、虚子76歳の作である。
『12月20日、新年放送』という短いぶっきらぼうな詞書がある。
・・・・新年のラジオ放送のために鎌倉虚子庵での句会が
録音された。掲句はその中で虚子が出句したものである。」

うん。これが終戦から5年目の句だとわかります。
中頃にこうもありました。

「この句は鎌倉駅の構内にしばらく掲げられていたが、
たまたまそれを見た川端康成は背骨を電流が流れたような
衝撃を受けたと言っている。感動した川端の随筆によって、
この句は一躍有名となった。」

最後には、高浜虚子76歳の健康状態が
記されていて参考になりました。

「この句の少し前・・・・12月13日のところに

  舌少し曲り目出度(めでた)し老の春

という句が収録されている。
昭和25年12月25日の虚子『消息』を見ると、
『また少し頭を悪くして二週間ばかり寝て居りました。
左の手足に少し異常を感じ、舌がまた少し曲ったくらいの
ことでありました。手足の故障はすぐになほり、
舌も昨今ではもうほとんどなほりかけてをります』とある。

そして昭和26年の3月から虚子は『ホトトギス』雑詠選を
長男年尾に譲った。・・・」(p195~197)

ちなみに、終戦直後昭和21年の11月に桑原武夫が
雑誌に『第二芸術ーー現代俳句について』を発表。

ちょっと、うる覚えで申し訳ないのですが、
虚子はこの時に、俳句はもっと格下だと思たのに、
第二芸術とは、ありがたい・・・というような
コメントをよせていたと思います。










コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

困ったな呆れたな。

2020-01-04 | テレビ
昨年後半、私はユーチューブにはまっておりました。
虎の門ニュース・文化人放送局・怒れるスリーメン・・・。
はい、篠原常一郎・石田温・・・。

この面白さって、いったい何だろうと思うわけです。
ということで、本棚から取り出したのは
「新・わたしの知的生産の技術」(講談社・昭和57年)
そのはじまりは、桑原武夫氏の文からでした。
題は「独創は情報の交錯から生まれる」。
適宜引用していきます。

「知的生産ということを考えてみます。・・・・
生産とすれば、生産のためのネタ、材料が必要です。
知的生産の材料とは何でしょうか。
それはいうまでもなく情報です。
情報を全然もたないで知的生産はできない。・・・・
日本の管理社会の中では情報の多くは
マスコミュニケーションによるものでしょう。」(p11)

以下に、これを書かれた当時の具体的な指摘があります。

「マスコミだけで情報が確実で十分かというとそうではない。
中国の華国鋒首相が日本に来た時、どの新聞も首相は
にこやかに笑みを浮かべて飛行機のタラップをおりて来た
と書いた。しかし、あの炯々(けいけい)として人を殺しかねない
鋭い眼付はなぜか書かれていない。なるほど、中国と大いに
仲良くしようとしう時期に、こう書いてはいかにもまずいかもしれない。
しかしこのことひとつをとってみてもマスコミは駄目で不十分ですね。
人間描写としては50点以下である。一般の人がマスコミから
与えられている情報は現実の50点以下であるということです。

もっと露骨な例でいえば、
田中角栄の金脈問題をどの新聞が書きましたか。
『文藝春秋』が書くまで、どの大新聞社も書こうとしなかった。
もちろん知っていたと思います。しかし、まず、
小資本のところにやらせておいて、見極めがついてから、
それに乗ろうという算段でしょう。
・・・NHK、資本の支配下にある民放もこういう情報は遠慮する。
新聞にもテレビにも載らないことがいっぱいある。」

はい。「新聞にもテレビにも載らないことがいっぱいある。」
ということを気づかせてくれたのが、ユーチューブでした。

「知的生産をしようとする場合、
特別の情報を持とうと努力しなければ
独創的な考えは出てきません。
他人(ひと)さまに聞いた話をくり返して
いるだけでは知的生産にはなりません。」

「知的生産ということは何らかのもつれあい、
あるいは矛盾からでなければ出てこないと思います。」
(~p13)

うん。あと一カ所引用させてください。

「言葉にだまされてはいけません。
いつでも言葉より現実を尊重するように
しなければ知的生産にはなりません。

例えば、ネール首相の生きていたころ、
日本の新聞はインドを『平和国家』といっていましたが、
これはおかしいのです。
国家予算の33パーセントも軍事費に使っている国を
平和国家というのは言葉の矛盾です。
軍事国家といわなければならない。ネールさんが
インドは平和国家だと宣伝するのは自由ですが、
それに外国人が乗ってしまうなら阿呆ですね。
阿呆は知的生産に適しません。

私は一ヶ月ほど、インドを歩いて
インドが平和国家ではないことを確認しました。
アジアで航空母艦を持っていたのはインドだけです。
そしてこれを活字にしたのは日本人では私が初めてです。

ネール首相が世界に向って他国への軍隊の駐留を
やめよと演説して大喝采を博したのですが、
この時インドはネパールとブータンに
軍隊を駐屯させていたはずです。
言葉だけを信用してはいけません。」(~p16)

たしか、これを読んだときには
だからといって『特別の情報を持とうと努力』
する方法までは気がつきませんでした。
相変わらず、テレビや新聞を読んでいたわけです。
それが、昨年ユーチューブを見るようになって
見方が変わりました(笑)。

せっかくなので、
桑原武夫氏の文の最後も引用しておきます。

「現実を正確にみること、
困ったな呆れたなと思うだけなく、
そこに問題を設定して、考えることによって
頭に血が流れ頭も良くなるわけです。
毎日、同じ問題を一回は考えること、
一つの問題をいつでも考えていると
頭の訓練になると言われた先生もおられます。」


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正月対談(1971年)。

2020-01-02 | 先達たち
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社・昭和59年)。
ここに、司馬遼太郎と桑原武夫の対談が載ってる。

まずは、この本の紹介。
はじまりに山田稔氏の「楽しき逸脱」という8ページの
紹介文が載っており、各対談のはじまりには、
桑原武夫氏のコメントがついておりました。
司馬さんとの対談のコメントは、こうです。

「司馬さんとは何度も対談した・・・
いつもこれほど楽しい話相手はない。
しかし、それはこわい相手ということでもある。
今回は・・・・私が少し押され気味というところであろう。」

ちなみに、司馬さんとの対談の題名は
「『人工日本語』の功罪について」とあります。
コメントをつづけます。

「自然言語から文明言語に移るときに
失われてしまうもののあることは否定できないが、
この移行は歴史的に不可避なものである。

そのさい混乱を少なくし能率をあげるために、
人工的規制を加えることが多くの滑稽さを生む
ことは事実である。

文学者ないし文筆にたずさわる者の任務は、
機能化されたことばの組合せの中に、
人間の自然の美しさをどのようにして
生かすかを工夫するところにある。・・」
(p44)

はい。この対談の最後の箇所を
引用してみることにします。

司馬】 ですから、日本語というか、日本語表現の場所は、
もうどうしようもないものがあるのかもしれない。

桑原】 いや、日本語はもうどうしようもないと、
あきらめに話をおとさずに・・・・、正月早々だから・・・(笑)。
まあ、日本語は、いままで議論したように、基礎はできた。
   ・・・・・・・・・・・・・
コンピューターを動かすには、少なくともそれなりの
論理性がなければならないんです。ですから、
コンピューターが普及する過程で、
ちょっと楽天主義のようですが、おのずとわれわれの
生活に論理性ができてくるのではないでしょうか。
もちろんコンピューターというのは一つのたとえですが、
日本人は論理性がないから駄目なんだ、
という決め込みはいけませんよ。ですから、
司馬さんが亡くなる時代には、日本語がもっと
よくなる可能性はあると思います。

司馬】 理屈も十分喋れて、しかも
感情表現の豊かな言語になる。

   ・・・・・・・・・・・

桑原】 さっき司馬さんがおっしゃった、
理屈が十分喋れて、しかも感情表現が豊かな日本語・・
そこに持っていくのは、われわれ生きている者の
義務じゃないでしょうか。

司馬】 いい結論ですね。


対談の最後を引用しました(p66~68)
ちなみに、この対談が掲載されたのは
「文藝春秋」1971年1月号とあります。
司馬さんが亡くなったのは1996(平成8)年。
亡くなってから、四半世紀が過ぎるのでした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする