和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

房総半島のない地震図

2024-10-12 | 地震
安房郡の関東大震災を念頭に、
各地震学者の地図を見ると、面白いことに気づく。

たとえば、鎌田浩毅氏の
「 関東南部の活断層と過去に起きた大地震の震源 」
という図があるんです。関東の図の上は茨城・埼玉とあり
千葉県もその図に含まれているのですが、房総半島の箇所が
カットされている。
ほら、裸婦像で、絵の構図の中に足が入りきれずに
途中でカットされていたりする、あんな感じです。

また、鎌田浩毅氏の本には、その同じ図が使い回しされております。

鎌田浩毅著「揺れる大地を賢く生きる」(角川新書・2022年)のp43
鎌田浩毅著「日本の地下で何が起きているのか」岩波書店・2017年のp54

はい。この人の図は『 敬して遠ざける 』ことにします。
もっぱら、私が引用するのは、武村雅之氏の図になります。

図録では「関東大震災80年THE地震展」(読売新聞社・2003年)にある
「 関東地震の推定震度分布 」でした。図録にはp98にカラー図で載り、
さらに右ページには(p99)、同一地図に「市町村別の死者数の分布」図。

武村雅之氏の本には、この「関東地震の推定震度分布」の図が

「関東大震災がつくった東京」(中央公論新社・2023年)のp21
「関東大震災 東京の揺れを知る」(鹿島出版会・2003年)のp94
「地震と防災」(中公新書・2008年)のp10
「未曾有の大災害と地震学」(古今書院・2009年)のカラー口絵の一枚。
「手記で読む関東大震災」(古今書院・2005年)のp10

と同一著者のさまざまな本に、その図が登場しております。
こちらは、ちゃんと千葉の房総半島まで全体が載る地図です。
そこから、その図の解説がはじまっているのでした。

はい。房総半島に住む者としては、何とも有難いのでした。







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防災士出前講座の掲載。

2024-10-11 | 地域
わが町は、町村合併で市となったのですが、町に残る
支所から月一回発行で各家へと配布の連絡紙があります。
今月は令和6年10月10日発行。
その最後に、『 防災士出前講座のご案内 』を
載せていただきました。

とりあえず、支所へ掲載お願いにいった文面を引用しておきます。


        防災士の出前講座ご案内

『安房郡の関東大震災』をテーマとして、震災の出前講座をいたします。
ローカルな地震をほりおこし、身近な歴史として記憶にとどめておくことは、
とりもなおさず、これからの貴重な判断の指標となるものと思っております。

  出前講座は正味1時間くらいの予定。はい。無料です(笑)。
  午後6時半以降でしたら、〇〇町のどこへでも伺います。
  お申し込みは、地域やグループでだいたい5名まとまればOK。
  あらかじめ、人数分の参考資料を用意してうかがいます。

公民館講座での私の今年のテーマは『安房郡の関東大震災』でした。
地元に残された紙碑『安房震災誌』をもとに、紐解いてゆきます。
なにぶん出前ははじめて。関心のある方は、お気軽にご連絡ください。

                   住所 〇〇〇〇
                   電話 〇〇〇〇
                   氏名 〇〇〇〇


はい。以上の文面を、すこし修正して載せていただけました。
さてっと、連絡が来るものなのかどうか? 
これから、連絡を待つ時間となります(笑)。
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プリントのパンフレット。

2024-10-10 | 地震
8月に「安房郡の関東大震災」と題する講座をしました。
そのアンケートで、資料に対するコメントを頂きました。

「 今日の関東大震災の話とプリント等を、もう一度
  どこかで企画してほしいです。たくさんの人に学んでほしい。 」

「 ・・・教材もすばらしかった。・・講義時間が少なかった。 」

このように、プリントした資料・教材についての指摘を頂きました。
とりあえず、写真や図や表を、綴じずにバラバラに配布したのです。

〇 武村雅之氏の「関東地震の推定分布」の図。

〇 貝塚爽平氏の相模トラフの線に、プレート境界の褶曲帯を付した図。
貝塚氏のこの図だと、房総半島はすっぽりと褶曲帯の中におさまります。
これなどは、図で示せば、感覚的にも、パッと理解した気分になります。

〇 「安房震災誌」に載る「安房郡震災被害状況図」。
  これは、安房郡の地図を、9割以上の激震地区、そして
  激震地区・軽微地区と3地区に分けて示した地図です。
〇 「安房郡震災被害状況図」のプリントの裏には、
「安房震災誌」から引用した、各町村別の数値一覧表を載せておきました。
各町村の総戸数・全壊・半壊・焼失・流失・死者・負傷者の数値一覧表です。
数値一覧があると、各町村別の被害状況が具体的に理解できます。
そうなんですが、安房郡の被害状況図ならば、一目瞭然で、
地図を前にしてすこし語れば、理解はぐっと深まります。

そのような、プリントを一枚一枚用意。

〇 それから、能登地震の半年後の黒島漁港の隆起状況を、
  震災前と震災後の写真と、並べられた新聞記事もコピー。

この一枚一枚のプリントが、舌足らずな私の助っ人となりました。
そのプリントを、説明であちこちとつなげておりました。
これならば、途中で尻きれトンボでも、何とかさまになります。

さてっと、プリントを、後でまとめて保存しようとすると、
何だか、思い浮かんできた言葉がありました。

「梅棹忠夫語る」聞き手小山修三(日経プレミアシリーズ新書2010年)
そこに、こんな箇所があったのでした。

「 ・・・自分の書いたものを残すべしという習慣がなかった。」(p80)
そこにある会話でした。

小川】 ぼくもアメリカとかイギリスへ行って、
    アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
    パンフレットとか片々たるノートだとか、
    そういうものもきちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小川】 ・・・・それらがきちっと揃っている。

梅棹】  だいたい図書館は内容とはちがう。
    わたしが情報ということを言い出したのは、それがある。
    情報とは中身の話や。
    ところがみんな、やっぱり形式の話で・・・・


8月28日の講座では、約30~40分語れただけでした。
時間がなかったせいもあって、あちこちと
図や表や写真などを中心につないで語って、ハイ終わり。
そこで一枚のペロッとした紙切れたちが役立ち、
それが参加者へと、どうやら伝わったようです。
アンケートコメントを読み返していると、
そんなことが、思い浮かんできました。

やっぱり、実際に人を前にして語るのは違いますね。
それにアンケートの集計を読めたことはありがたい。

一年一回講座ですが、語れてよかったと思いました。
図・写真・集計の紙切れが効果発揮してくれました。
それに今年は当ブログでもあれこれ検討できました。



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待ち兼ねて

2024-10-09 | 安房
待ち兼ねて、それでもって、すっかり忘れてしまっていた、
公民館の講座アンケートの集計一覧が、やっと届きました。

「安房郡の関東大震災」と題して、8月28日に開催の講座でした。
その日アンケート記入して頂いて、10月8日にその集計結果届く。

これで、やっと講座の感想を読むことができました。
再度聞きたいと書き込んでくださった方がおります。
ここには、アンケートに答えて下さったコメントを引用。
ちなみに、参加者は15名で、その内の70歳代以上が12名。
60歳代が3名でした。

〇 関東大震災の内容をもっとくわしく教えてほしい。(もっと時間をかけて)

〇 今日の関東大震災の話とプリント等を、もう一度どこかで
  企画してほしいです。たくさんの人に学んでほしい。

〇 歴史と防災を絡めた講座(今日受講できてよかったが)
  度々催して欲しい。


〇 安房地方での震災の状況を具体的に聞けてよかった。

〇 講師も教材もすばらしかった。惜しむらくは講義時間が少なかった。・・

〇 安房郡の関東大震災は具体的に説明あり、
  とても良く理解するように資料と共に説明が、とても良かった。
  改めて関東大震災の事を身近に感じました。今後の対策や対応に参考に
  なりました。この資料と説明は多くの人に教えてほしいと思います。
  ・・・

〇 興味深い内容でしたが、時間が足りないですね。
  数回に分けて(参加が可能かは別として)だといいかな。

〇 南海トラフが話題になっている昨今、時宜を得た講話だった。

〇 関東大震災について知らなかった事が多く、
  説明を聞いて大きな震災だったのだと分かりました。

〇 歴史を絡めた防災の話を聞きたかったこと、
  折しも災害多発(現在も台風接近)の現在において、
  タイムリーな講座だったと思う。・・・

〇 震災が起きているので、良い話を聞かせて頂き、ためになりました。
  講師の話しは分かりやすく良かった。

〇 歴史に学べと言われていますが、今回の研修、とても
  意味のあるものでした。『安房震災誌』を読んでみたいと思いました。・・


うん。大部分の感想を引用させていただきました。
当日は、ほかの方の話もあったので、時間が思うようにとれなくて、
用意したプリントを端折りながら、あちらこちらと食い散らすように
語っていったので、こりゃ伝わったかなあと、心配しておりました。

アンケートで、感想を聞けたことでホッとしております。
こうして、手応えを頂けたことに感謝したいと思います。
これから、機会があれば語っていきたいと思うのでした。
参加されてコメントまで頂いてありがとうございました。

  

コメント (2)
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誰が書いても、みな。

2024-10-08 | 前書・後書。
読みたいと本を買っても、時がたつと、興味が他へうつるので、
その本を忘れてしまうことがたびたびあります。

うん。何だかそれが慣れっこになって、ある程度の時間内に、
パラパラでも読み込んでおくことが肝心。興味にも賞味期限がある。
最近は、つとにそんなことを思います(笑)。

さてっと、桑田忠親著作集全10巻を古本で買ったのですが、
まずは、パラパラと各巻の最後をひらくことにしたいと思います。
幸いに、各巻の巻末に、さまざまな方が文を寄せておられます。

第7巻「戦国の女性」の巻末は二木謙一氏の文がありました。
その最後の方にこうあるのでした。

「 いつも思うことだが、桑田氏の文体には、
  歴史家にはまれなセンスの良さが感じられ、
  また史料の伝存しない部分、文字に見えぬ
  歴史の裏面の洞察とその復元に独特の才能
  が発揮されている。            」(p349)

うん。このセンスが、史料をひからせているのだなあ。
なんて思うのでした。
巻末をひらいたあとは、巻頭をひらいてみる
「桃山時代の女性」という文の「まえがき」にはこうあります。

「・・日本の女性史に関する諸氏の著作を一通り読んでみた。
 しかし、それらの多くは、ある一定の理論を尺度にして、
 甚だ概念的に社会制度の変遷などを叙述したものが多く、
 専門的、具体的な学術書としては飽きたりない感を深くした。
 確かな文献史料の裏づけよりも観念のほうが先ばしっているから、
 たれが書いても、みな、同様なものができあがる結果となる。
 この不満を解消するために、私はまず・・・   」(p11)


はい。とりあえず全集の第7巻は、ここまでにして次に巻へ。
「読みたい」という私の賞味期限内に、まずは全巻の巻末を
読みすすめておくこととします。

はい。これでも会って立ち話でもしたような気分になれます。
そこから、本との交わりがはじまればよし。おわってもよし。


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桑田忠親の関東大震災。

2024-10-07 | 地震
日本史研究者として知られる桑田忠親は、
明治35年11月に東京麹町に生まれ、
大正12年(1923)の関東大震災の時は、21歳でした。
年譜(桑田忠親著作集第10巻)によると、
父親は、陸軍歩兵中佐だったとあります。

桑田忠親著作集第1巻は、日本史講義集「歴史の学び方」から
はじまっておりました。そのはじめの方に、関東大震災が語られております。
今回は、そこを引用しておくことに。

「・・こういう大地震になると、
 その被害の規模が大きかったというだけではなしに、そのために、
 いろいろな人々の社会生活に、甚大な影響をあたえているのです。

 とくに、関東大震災のときには、それに付随した、さまざまな事件が
 起っています。たとえば、朝鮮人さわぎが、これであります。

 朝鮮人さわぎ、というのは、ちょうど、関東大震災が起ったとき、
 東京の郊外の多摩川で砂利を運んでいた2000人ばかりの朝鮮人労働者が、
 大震災で、滅茶苦茶になった東京の市街を襲撃する、といった
 デマが飛んだのです。その巷に流れていたデマを、まことしやかに
 報告したのが、三宿(みしゅく)にあった砲兵連隊の斥候兵(せっこうへい)
 だったから、たまりません。

 それを聞きつたえた渋谷、目黒、青山へんの、老人、女、子供たちは、
 なだれをうって、続々と、砲兵連隊の兵舎に避難します。そこで、
 連隊でも、仕方がないので、これを保護し、練兵場に野砲まで引きだし、
 空砲を多摩川方面に向け、威嚇射撃をする、といったさわぎになりました。

 ・・・その夜、たいへんに昂奮し、あわて、ふためいた
 在郷軍人会では、家々に踏みとどまった男子にたいして、
 朝鮮人労働者撃退の命令をくだしたのであります。
 その命令をうけた青年たちは、竹槍を持って、
 渋谷の西郷邸の森あたりに、待機させられたのです。
 しかし、朝鮮人たちは、ついに、襲撃してきません。

 これは、来ないはずです。かれらは、大震災で東京も滅茶苦茶に
 なったので、どうやって暮らしてゆくか、さきの見こみも立たない。
 いっそのこと、朝鮮に帰国したほうがいいか、どうしたものかと、
 多摩川の河原に集まって、相談していたわけです。

 それを何か不穏なことをたくらんでいやしないかと、
 疑われたのであります。いのちの危険をかんじたのは、
 じつは、かれら朝鮮人だったのです。
 翌日になって、それが、デマだったとわかり、
 こんな馬鹿馬鹿しい話ったらないと、心あるものは、
 大いに憤慨したことでした。

 すべて、大事件が起こったときには、そんなデマが飛び、
 不安感におそわれることが多いものです。

 その翌日は、また、朝鮮人が井戸に毒薬を投げこむから、
 用心しろ、などというデマがひろがり、そのために、
 朝鮮人とまちがえられて、あやうく、日本刀で
 斬られそうになった男もいたくらいです。
 じつに、物騒でした。・・・   」(p13~14)


これは、講義の活字化ですので、関東大震災でも
ポイントをしぼって語られているわけなのですが、
それを語る人が、日本史研究者であること。
その人の父親が、陸軍の軍人であったこと。
それを加味するならば、信頼するに値するデマ分析だと思います。
ということで、ここに引用してみました。

まさか、ここで関東大震災の記述を読めるとは思いませんでした。
うん。最後は「著作集の刊行を終えて」から桑田氏のこの箇所を
引用しておわります。

「 ・・・陸軍の軍人であった父は、体も弱くて軍人嫌いな
  少年時代の私をもて余し、なるべく勉強の楽な学校にはいり、
  思想の穏健な教員か学者になってほしいらしかった。

  勇敢で潔白で単純素朴な性格の父を、
  いかにも古武士らしいと思って、尊敬してきた私は、
  父の期待に背くまいと努力してきたが、皮肉な軍隊歴、
  空襲、疎開、思想的混迷などのために、人知れぬ苦悩をした。

  若いときと敗戦直後は、貧乏や病気とも戦った。
  初志を貫徹させるためには、危い時機が幾度かあった。しかし、私は、
  幸運にも、どうやらその危機を乗り越えて、今日に至った。

  生母には13歳のときに死なれたから仕方がないが、
  せめて父には、学位を頂くまでは生きてほしかった。・・  」(p315)
 
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茶道史上の本能寺。

2024-10-06 | 古典
桑田忠親著作集全10巻を、『本能寺』という単語で辞書をひくように、
パラパラとめくっているとありました。「本能寺の変」。

桑田忠親著作集第一巻「戦国の時代」。そのp231~232。
桑田忠親著作集第四巻「織田信長」。そこのp115~121。

ここには、第四巻から引用してみたいと思います。

「・・・このように、信長は、単なる武将ではなくて、
 茶の湯ずきの趣味家でもあり、風雅の道に志がふかかった。
 武略にたけた強豪である反面に、かなりの数寄者でもあったのである。

 かれが、生涯の最後に、近習70人ばかりをつれて、
 西国出陣の途中、京都の本能寺に宿泊したのは、
 偶然の行動ではけっしてない。じつは、博多の
 数寄者島井宗叱(そうしつ)との先約をはたし、
 秘蔵の名物茶器を披露する茶会を、本能寺の書院で
 もよおすためだったのである。・・・」

このあとに、『仙茶集』にある『御茶湯道具目録』を紹介し、

「要するに、信長は、これだけ多くの名器を、安土から京都まではこばせ、
 かれ自身も、それを監視しながら、天正10年5月晦日、
 本能寺に到着したのであった。嫡男信忠のひきいる2000人の軍勢とは
 べつに、また馬廻の武士たちともはなれて、かれが、
 単独に行動したのは、このような事情があったからだ。

 月あけて、6月朔日、信長は、本能寺の書院で、それらの名器を
 披露する茶会をおこなったらしい。・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・
 さて、6月1日は、かくして暮れ、名物茶器披露の茶会のおわった
 翌2日の早暁、本能寺は突如として明智光秀の13000の大軍に包囲
 された。本能寺は兵火のために焼け落ち、38種の名器も、その
 秘蔵者織田信長と運命をともにしたのである。

 それは、天正17年の奥書のある『山上宗二記』にも、・・・
 ・・・信長の最期のとき、本能寺で火にいり、ほろびたことを
 注記しているから、たしかである。

 信長は、おそらく、西国出陣にさいし、京都で、
 名物びらきの茶会を盛大にもよおし、数寄者としての
 面目を、天下に誇示したかったのであろう。
 そうして、それが、はからずも、死の直前の饗宴とさえ
 なったのである。

 明智ほどの数寄者が、茶会の跡見を襲うことはあるまいと、
 あるいは、信じきっていたかもしれない。・・・   」

 はい。途中に『鳥井家由緒書』『宗湛由来書』『津田宗及茶湯日記』
 等からの引用があり、名器の名が並んでつらなっているのですが、
 当ブログではあまりにマニアックで煩雑になるので省略しました。
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茶壺、茶碗、料理は。

2024-10-05 | 短文紹介
本能寺の変は、天正10年6月2日。
すこし遡って、天正元年11月24日の朝。

「京都の妙覚寺において、信長の茶会が催され、
 堺代官の松井友閑と宗久と山上宗二が招かれた。

 宗易(利休)は、その席で濃茶の点前(てまえ)を行なっている。
 信長の命令によって、特に名物三日月の壺の茶をひいて
 抹茶を作ったのである。

 床に牧谿の帆帰の絵を掛け、その前に三日月の茶壺を置き、
 炉の鎖で鶴首の釜をつり、蕪無(かぶらなし)の花入には
 信長のいけた白梅がにおっていた。

 茶入は作物茄子(つくもなすび)、茶碗は大覚寺の天目を用いている。
 料理は、雉焼、鶴の汁、蒲鉾、鯛の刺身、鶉の焼鳥、
 菓子はむき栗、金柑、橘飩、煎榧、焼餅、といったもので、
 宗久の点前で薄茶を飲み、
 この日、信長の機嫌は上々であった。  」
           ( p53 桑田忠親著「定本千利休」角川文庫 )


はい。ここを引用しているだけで、何だか私は満腹感を味わいます(笑)。
なお、この箇所は「『今井宗久茶湯書抜』による」とありました。
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大きな政治や人間を語る

2024-10-04 | 書評欄拝見
角川文庫の桑田忠親著「定本千利休」をひらいていたら、
信長の死が6行で語られておりました。

「 武将信長の死は、あまりにも唐突であった。それは、
  彼がその前後に僅か70余人の小姓、女中衆をついて
  洛中の本能寺に宿泊したことに起因するのであるが、

  彼のそうした行動も、世伝のごとき武弁としての
  不覚さからきたものでなく、一介の数寄者(すきしゃ)として、
  博多の富豪島井宗叱(そうしつ)との契約を履行せんとし、
  永年収集した自慢の名物道具のお開きにうつつを抜かしたためであった。

  火焔に包まれた本能寺の一堂に、東山以来の大名物数十色と
  終わりをともにした信長は、天下一の数寄者たるを
  辱めなかったといってよかろう。 」(p58)


うん。テーマが千利休なので、これ以上信長を記述すると
どんどん脱線してゆきかねなかったのでしょう。
けれども、これでは読者としては物足りないわけでして、

ここは、桑田忠親著作集全10巻を古本で購入することにしました。
日本の古本屋より、香川県高松市の不二書店からネット購入。
全10巻揃い。5500円+送料1380円=6880円なり。
とりあえず、一冊688円で買ったということです(笑)。

はい。全巻凾入り、帯つきでした。
その帯を見くらべていたら、第4巻織田信長の凾帯だけが
ほかと違って、奈良本辰也さんの文が、帯に載っておりました。
うん。ここは、まずもってその帯の言葉を引用しておくことに。

「 桑田さんは永年にわたって東京大学の史料編纂所におられた。
  即ち、わが国に於ける最多の史料に囲まれて今日までを過ごして
  きた方である。桑田さんが、なかでも深い関心を持たれたのは
  戦国から安土・桃山にかけての時代であり、そこに輩出した
  武将たちの生きざまであった。

  織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など日本の歴史上に於て、
  燦然たる光りを放つ英雄たちはもちろん、彼らと交渉のあった
  茶人たちまでが、その膨大な史料によって浮び上ってきた。いや、
  別の言葉で言えば、その人物の全体像をふくらませたのである。

  私もこれまで、戦国時代をみるときは、桑田さんの本に
  随分とお世話になった。確実な史料で、寸分の澱みもなく
  叙述された著作は安心して頼ることが出来るからである。

  歴史という学問は綜合の学問である。そして
  それは大きな政治や人間を語る学問だ。

  その桑田さんの著作が集められて世に出るという。
  私の大いに期待する所以である。 」
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筺底(きょうてい)に秘めて

2024-10-03 | 前書・後書。
芳賀徹の父・芳賀幸四郎に「千利休」と題する本がありました。
以前に買ってあって、読まずにというか、読む気にならずにありました。
そういえばと、その「はしがき」をひらいてみる。
そこに桑田忠親の名前が登場していたのでした。

「・・いざ実際に執筆にかかってみると、
 その困難さは当初の危惧をはるかに超えるものであった。

 桑田忠親氏や唐木順三氏らに、
 それぞれ『 千利休 』と題する名著があり、
 それに利休関係の史料はほとんど発掘しつくされていて、
 従前の研究水準以上に出ることが、不可能とさえ思われた・・

 かえりみてまことに慚愧にたえない。
 このまま筐底(きょうてい)に秘めて、
 さらに数年研究を続け彫琢を加え、
 いささかなりと自信をもって世に送りたいのが、
 いつわらぬ私の真情である。

 しかし書肆の督促と、この小稿を閲読してくれた友人が、
『 現在の段階では、出す意味は十分にある 』といってくれたのを
 跳躍台として、あえてこれの上梓に踏みきることにした。・・・・
                 ( 昭和38年3月1日 )    」

うん。千利休を書いたり語ったりするというのは、
こうして、率直に経過を語りかけられるのがポイントなのかもしれませんね。
うん。私には芳賀幸四郎著「千利休」は読み進められなかったのですが、
今回、ひょんなことで桑田忠親著「千利休」を読んでおります。
といっても、パラパラ読みでまことに情けない。
情けないけれど、まあいいや。このままに読み進めます。

そのうち、唐木順三著「千利休」と芳賀幸四郎著「千利休」も
はずみで、読めるかもしれませんしね。

はい。今回の最後はというと
桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)の
第六章「秀吉の御茶頭となる」からの引用。

「・・彼は、東山時代このかた重んぜられていた唐物道具に
 対するぎょうさんな礼讃ぶりに背なかを向け、
 唐物(からもの)よりはむしろ井戸茶碗のごとき
 高麗物(こうらいもの)の侘びたのを愛する
 侘び数寄の傾向からさらに一歩を進め、
 国粋的茶器の創造に心をとめていたのである。
 長次郎に焼かせた利休七種茶碗など、
 その代表的なものであった。
 このころすでに唐物中心の数寄大名のお祭騒ぎに対して、
 彼が苦々しく感じたのも道理であろう。  」(p67~68)
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時代考証の首根っこ。

2024-10-01 | 道しるべ
桑田忠親氏の紹介文に

「明治35年、東京都生れ。日本史学者。・・昭和62年5月5日没」とあり、
そのなかで、気になったのは
「のち大河ドラマの監修・時代考証などにも活躍・・」という箇所でした。

はい。桑田忠親著「定本千利休」(角川文庫)をひらいているのですが、
パラパラ読みの私でも、そういえば、考証的な細部に惹かれます。

時代考証といえば、そういえば、
徒然草が思い浮かびます。どこでもいいのですが、
たとえば、第208段は
「 経文などの紐を結ふに、上下より襷に違へて 」
とはじまっております。ここは島内裕子現代語訳で
短いので全文引用してみます。

「お経の巻物などの紐を結ぶ際に、上下に襷(たすき)がけに交叉させて、
 その紐二本の中を通して、紐の端っこを横から引き出すのが、
 現在では普通の結び方である。そのようにしてあったのを、

 華厳院の弘舜僧正(こうしゅんそうじょう)が、
 紐をほどいて、巻き直させた。
『 これは、最近のやり方である。大変に良くない。正しくは、
  ただ紐をくるくると巻いて、上から下へ、紐の端っこを通して、
  差し挟むのが正しいやり方である 』と申された。
 弘舜僧正は、このような故実を、よく知っておられる老碩学であった。」
                ( p399 「徒然草」ちくま学芸文庫 )

 島内さんの【評】も、短いので引用。

「 寺院に伝わる故実を正しく伝える記事である。ここに登場している
  弘舜僧正の弟子が、第82段と第84段に登場した弘融僧都である。 」


ひょっとしたら、徒然草のような、時代考証を交えた古典の王道を
桑田忠親氏は歩いて来たのかもしれないと思うわけです。ここから、
放映中のNHK大河ドラマから、時代考証へ思いを馳せたくなります。
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