後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「英国王のスピーチ」は見るに値する映画でした

2011年03月05日 | インポート

アカデミー賞を取る前から観たい観たいと家内が言っていましたので、一緒に見て、帰って来ました。結論を言えば、「観るに値する重厚な演技と脇役陣の厚さに感心しました」。

舞台劇のお好きな方へお薦めです。詳しくは「英国王のスピーチ」を検索するといろいろ出てきます。(終り)


共産党独裁の中国は天主教(カトリック)とローマ法王との断絶政策をしている

2011年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

中国政府は中国の天主教会(カトリック教会)組織がローマ法王と接触することを厳禁しています。台湾のカトリック教会がローマ法王の傘下になっているので面白く無いのです。ローマ法王が台湾のカトリック教会と縁を切れば中国大陸のカトリックがローマ法王の傘下になっても良いと言っています。何か滅茶苦茶な話ですが、それが共産党独裁の現実なのです。以下は私自身の体験です。

Papa031 1981年2月ヨハネ・パウロII世、ローマ法王は日本の殉教者の墓を巡礼するために長崎まで来て、浦上天主堂でミサをしました。写真はその時の浦上天主堂でのパウロII世です。本人はこれを巡礼の旅と言っていました。

その次の年、私は中国の瀋陽市の天主堂で現地の人々と一緒にミサへ出席しました。

外側は煉瓦作りの立派な教会でしたが、内側には大きな落書きや、破壊の跡がなまなましく残っているのでした。

椅子も撤去されていて床板があちこちで剥がれています。

満員の中国人信者がその床に膝まづいていて祈っています。毛沢東政府の文化大革命の間、徹底的に弾圧、破壊されたのです。勿論キリスト教だけではないのですが。

1982年当時は信者は皆人民服を着ていました。ミサの後、背広姿の小生を取り囲んで、何処から来た?何しに来た?と少し話合いをしました。連れて行ってくれた東北工学院の金応培教授の通訳で。

(写真の出典:http://www1.odn.ne.jp/uracathe/kyoukou.htm

「ヨハネ・パウロII世が巡礼の旅と称して日本へ来たことを知っていますか?」と私は聞いて見ました。

全員が大声で、知っている!と答えるのです。

「中国の天主教(カトリック)が何故ローマ法王傘下の組織にならないのですか?」と私が聞きました。

すると途端に、皆んなの顔が氷のようになり、誰も声を出しません。

帰路、金応培教授の説明を聞きました。

全員、即刻、ローマ法王傘下に戻りたいのだが中国政府が厳しい条件を要求しているというのです。

「台湾のカトリック教会をローマ法王が破門にすれば中国全土の天主教をローマへ返す政策」をとっているのだそうです。

ローマ法王は理由もなしに台湾を絶対に破門をする筈はありません。

あれから30年近く経ったが、現在でも中国の天主教はローマ法王とは関係なく中国内で布教に努めている。あくまでも北京の中央政府に従順に、その全ての政策に協力しながら。共産党独裁の中国では真の意味での宗教の自由な存在していないのです。

中国の権力者のキリスト教へ対する態度は明や清の時代から変わっていないのです。政権保持者にとって利用出来るなら布教を許可するという原則が脈々と続いています。例えば、16世紀にイエズス会の有名な神父のマッテオ・リッチ師は明王朝の高位高官の地位についきました。リッチ師は利瑪竇(りまとう)という中国名を使用し、中国服を着て中国人に同化し、中国文化を尊敬し明王朝へ仕えたのです。あくまでも明王朝へ従順に。

しかし、マッテオ・リッチ師は頭脳明晰で徳の高い人格者であったのです。ローマへ送った数多くの書簡は日本の平凡社の東洋文庫から出版されています。そのような人でも中国の権力者へ従ったのです。

中国の天主教の信者が根気良くローマ法王を愛し続け、何時の日にかローマ法王のもとに帰られように祈っています。

日本のカトリックは260年もの禁教に耐え、ついにローマ法王のもとに帰ったようになる事を祈っています。

余談ながら、マッテオ・リッチ師を私は尊敬しています。小生がカトリックの洗礼を受けたのはマッテオ・リッチ師に少し手を引かれたためのような気がしています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。藤山杜人