後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

アメリカの占領政策で報道されなかったチャンドラ・ボースとラース・ビハリー・ボースの秘密

2012年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後、日本を占領したアメリカはインドの独立を日本軍が支援したことを隠そうとします。報道規制のために戦後の日本人はチャンドラ・ボースとラース・ビハリー・ボースのことは知りません。

しかし歴史の真実は正確に子孫へ伝承すべきと思い、以下に日本と協力してインドの独立のために働いた2人のインド人のことをご紹介したいと思います。

新宿・中村屋の創業者・相馬夫妻のことを以前のブログの記事にしました。盲目の詩人、エロシェンコが何故新宿、中村屋に住み込んだのか?そしてその後の生活は? )

相馬夫妻は多くの人々を支援しましたが、インドの独立の志士、ラース・ビハリー・ボースも支援し娘、俊子も結婚します。

しかし日本で有名なもう一人のボースは1897年生まれのチャンドラ・ボースと言ってガンジーとともにインド独立に活躍した人です。

はじめはガンジーと共に英国の植民地からインドを独立させる運動をします。しかしガンジーの無暴力主義に反対し、武力を用いて急速に独立をはたす急進派の指導者になります。チャンドラ・ボースは行動的な人です。ナチス・ドイツにわたり2000人のインド人部隊を編成してドイツ軍とともにイギリス軍と戦闘を交えようとします。しかしヒットラーやムッソリーニは冷やかに扱います。そこで日本の真珠湾攻撃のニュースを聞いて日本の軍部へ協力を申し出ます。ドイツ海軍と日本の潜水艦を乗り継いで日本へきます。 

そして中村屋の支援でインド独立運動をしていたラース・ビハリー・ボースと合流します。 

その後のチャンドラ・ボースは日本政府と軍部の支援で、シンガポールで自由インド仮政府を組織し、自分が首班に就任します。そしてインド兵の捕虜を集めて「インド国民軍」を編成し、自分がその最高司令官になります。 

軍事的には無謀過ぎるといわれたインパール作戦では日本軍と共にインド国内へ攻め込みますが敗退します。 

日本の敗戦後はイギリスへ対抗する為にソ連の協力を得ようとして日本軍の九七式爆撃機でソ連へ向かうのですが、台湾の松山飛行場で事故に会い、1946年8月18日に死亡します。享年満49歳の短い人生でした。臨終の言葉は、「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」でした。インドの独立を見ないで死んだのです。 

遺骨は杉並区の日蓮宗の蓮光寺に埋葬されました。このお寺は中村屋のビハリー・ボースの住んでいた近所にあり、彼が主宰した葬儀には中村屋のお菓子が供えられたと言います。毎年8月18日になるとインド政府と日本の関係者が集まって法要を行っています。戦後は、ネルー首相やガンジー首相が蓮光寺を訪れチャンドラ・ボースの墓前でインド独立の感謝の祈りを捧げています。 

現在、インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボースの肖像画、右にはガンジーの肖像画、そして左にはネルーの肖像画が掲げられているそうです。 

戦後、インドは日本へ賠償を求めず、東京裁判では日本人戦犯の無罪を主張したのです。 

そしてインドの対日感情は現在でも非常に良いのです。 

戦後、日本を占領したアメリカはインドの独立を日本軍が支援したことを隠そうとします。日本のマスコミもアメリカに気を使い、ネルー首相やガンジー首相が蓮光寺を訪問し、ボースのお墓に参拝したことは大きく報道しません。チャンドラ・ボースと日本軍の関係は歴史の闇に消えようとしています。しかし私はガンジーだけでなくチャンドラ・ボースのことも忘れないようにしたいと思います。 

皆様はどのようにお考えでしょうか? 

下に蓮光寺にあるボースの碑とお寺の写真を掲載します。(写真の出典:http://netmuseum.co.jp/ippin/ippno40.html 

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追記:インド人は日本人を尊敬している一証左として、パール裁判官のことをご紹介して置きます。

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1886年にインド・ベンガル州ノディア県クシュティヤ郡カンコレホド村に生まれる。1907年カルカッタプレジデンシー・カレッジにおいて理学士試験に合格、数学賞を受賞。翌年カルカッタ大学にて理学修士を取得。1910年にインド連合州会計院書記生として就職した。

1911年にカルカッタ大学理学部、法学部を卒業し、1920年に法学修士試験に最優等にて合格、翌年弁護士として登録。1924年にはカルカッタ大学にて法学博士号 (LLD) を取得した。論文は「『マヌ法典』前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」であった。

1923年から1936年までカルカッタ大学法学部教授。1925年にはインド学会最高の栄誉であるカルカッタ大学タゴール記念法学教授に選出された[4]1927年にインド植民地政府の法律顧問に就任、1937年には国際法学会総会に招聘され、議長団に選出される。

1941年にカルカッタ高等裁判所判事に就任。1944年、カルカッタ大学副総長に就任[5])。

1946年極東国際軍事裁判ではインド代表判事として派遣された[6]

1950年10月に再び来日し、約一ヶ月間日本に滞在した。その際、原爆慰霊碑の碑文について、碑文の責任者である浜井広島市長と対談を行う。広島市中区の本照寺の住職・筧義章に請われ詩を執筆した。その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。

1952年下中弥三郎らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加。同年国際連合国際法委員会委員に就任し、同職を1967年まで務める(1958年度および1962年度委員長)。

1953年、下中彌三郎の招聘により三度目の来日。大倉山文化科学研究所で「インド法哲学思想の潮流」を講演。同年、インド国会下院議員補欠選挙に国民会議派から立候補し、3万6319票を得るが次点で落選(当選者は、5万8211票を獲得した共産党候補)。

1955年、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。1957年に国際連合常設仲裁裁判所判事、1959年にはナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデに就任。

1960年、インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章する。

1966年10月に清瀬一郎岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。

1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。82歳。最晩年のパールは、所得税を滞納したことから自宅を失い、恵まれない生活だったと伝えられる。


ブログに掲載したあなたの文章を「岩漿」という文芸誌で活字にしてみませんか?

2012年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

友人に馬場 駿さんという小説家がいます。その彼が20年前に岩漿文学会を創立しました。

主に伊豆地方の人が会員で、真面目な文学作品を書いて、それらの作品を「岩漿」という同人誌で発表しています。「岩漿」は毎年一冊ずつ発行しています。すでに20冊発行されています。

この同人誌は国会図書館や静岡県の市町村の図書館へ送られ、公開されています。

この馬場 駿さんと、岩漿文学会については末尾に付けたように、このブログで何度かご紹介してきました。

昨日、この「岩漿」の今年号(20号)が郵送されて来ました。

中身を見るとこの文学会では今年から広く会員を募集しています。

年会費3000円を支払って会員になると、「岩漿」へ作品を投稿出来ます。

「岩漿」にあなたのブログの文章作品を投稿すると活字印刷されます。あなたの作品が文学作品として残るのです。手軽で便利な大変良い方法と思います。

印刷公表するにあたっては1ページ(1000字)あたり1000円の費用負担金を支払います。

膨大な原稿を書きためて自費出版するのは大変です。しかし、「岩漿」に短い作品を時々公表するのも手軽で、費用もあまりかからずに便利ではないかと思います。

そこで会員になって作品を公表する手順の説明を以下にしめします。

同人誌にご関心がある方、そして活字印刷物にご興味のある方、一度ご検討頂ければ嬉しく思います。詳しいお問い合わせは、asei@vesta.ocn.ne.jp へお願いいたします。

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下に「岩漿」20号の写真を示します。

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下は「岩漿」20号の目次です。全140ページの雑誌です。

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以下に、ご参考までに馬場 駿さんについてご紹介いたします。

小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡

小説家、馬場駿と一緒に飲んだのは35年くらい前。深い森の奥の山荘の中、燃えさかる暖炉の前で、彼の兄をまじえて3人で飲んだ。彼らが手作りした暖炉は甲斐駒の御影石が埋め込んであった。歯切れの良い言葉で喋る馬場駿の才気が輝く、華やかな一夜であった。

彼はまだ小説を書いていなくて、当然馬場駿という筆名も持っていなかった。しかし彼の才能と情熱で何時かは大きな仕事をすると私は信じていた。

あの夜以来一度も会っていない。しかしその後、彼は伊東市に移り住んで20年前に岩漿文学会を創立し、小説も書き出した。処女出版は馬場駿の筆名で「小説大田道灌」を出している。その書評はこのブログでも2007年11月27日に掲載している。

昨年、郵送されて来た。「岩漿」第19号には、彼がこの文学会を創立したころの経緯や、この文学会の歴史について書いている。そしてその他に何故彼が馬場駿という筆名を持っているかという感動的な小文を書いている。

小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡がいきいきと描いてある文なので以下に転載することにした。転載を許可してくれた彼へ感謝しつつ。

=======「筆名は心の師」、木内光夫============

二十年以上も前、仔細あって所謂都落ちし、伊豆の地で志とはかけ離れた生活を悶々として送っていたときのことだ。生涯の師と仰ぐ馬場駿氏が単身、私の勤務先の観光ホテルを訪れた。このとき師は、かつて私が在籍していた会社を資本金数十億円にまで大きくし、社長付常務取締役として八面六臂の活躍をしていた。秘書も不知のお忍び旅行だという。師は私と妻を夕餉に誘い、その場で泣かんばかりにして私の現状を嘆き憂えた。こんなところで何をしているのだと。

この師との出会いは劇的だった。この会社の横濱支社へ応募した際、私は身内の身元保証を得られなかった。三十五六まで夢を追い、赤貧洗うが如しのアルバイト生活を送っていた私の、言ってみれば身から出た錆。私は不採用という結果に甘んじるしかなかった。ところが後日、会社が突然再面接を申し入れてきた。当時会社顧問だった師が支社長へ指示をしたのだ。高校任意退学、文部省大検一回全科目合格、通信教育四年で大学の法科卒、以後法曹を目指して職業的には浪々。師は弾かれた履歴書群の中から私の一枚を拾い上げたのだ。一転私は採用、本来経済力が必要な保証人も、母が「私が産んだ」という証明をもってこれに代えて可、となった。調査はしたよと破顔一笑の師。M銀行支店長だったという師はある日、「僕は東大卒、京大卒いろいろ部下をもったが、君のようなタイプは初めてだ」と肩を叩いてくれた。その言葉の含意は今も不明だが、私は心でその言葉を受け止めた。

心の師が翌朝ホテルを去る際に至言をくれる。「大都会で金や地位欲しさに暗闘しているよりも、疲れ果てた人を癒す仕事の方が数段上かもしれないな。ゆうべは言い過ぎた。悪かった」。文通はその後も続いたが、師は難病に罹り終に帰らぬ人となった。私はホテルサービスという仕事から卑屈な想いを取り去った。師に認められた自分を思い出し、その事を支えにあらゆる屈辱に耐えた。処女出版「小説大田道灌」の筆名は馬場駿。自伝ではないが師に肯定された私の過去が入る連載小説「孤往記」も。あと一冊は筆名馬場駿でと、今は小説「疎石と虫」と向かい合う。(終り)

====岩漿文学会に関する過去の掲載記事=========

説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡

(2011年6月1日掲載記事)

伊豆の文学会の総合文芸誌「岩漿」、通巻第18号を一冊贈呈いたします

(2010年3月15日掲載記事)

伊豆の文学会の総合文芸誌「岩漿」、通巻第18号のご紹介

(2010年3月14日掲載記事)

馬場駿著「小説大田道灌」の読後感

(2007年11月27日掲載記事)

伊豆の岩漿文学会、木内光夫さんのこと、

(2007年11月15日掲載記事)


樹木葬に関心があったり、憧れている人の幸福度は高い。

2012年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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皆さまは樹木葬というものをご存知でしょうか?美しい樹林の地面に遺骨を埋めたり、散骨したりするのです。海への散骨のようなものです。しかし樹林は何処でも良いのでは無く、宗教法人が墓地として役所へ申請し、認可された地区に限ります。

時々、 美しい樹林を見ると樹木葬に丁度良い所だなと見とれてしまいます。上の写真は北海道の大沼公園の湖のそばで見つけた白樺林です。

下の写真は近所の小金井公園の中の常緑樹の林です。

どちらも樹木葬にぴったりの場所と考えながら眺めました。そして私は樹木葬というものに憧れています。

実を申しますと、私は家内と相談して数年前に自分達のお墓を作りました。花々が何時も咲いている公園のような墓地なので、時々、家内と遊びに行きます。

しかし最近、お墓に執着する気持ちが弱くなって来たのです。

お墓だけでなく、いろいろな事に関して執着心が薄くなって来ました。

悲しかったことや苦しかったことは忘れるようにしています。復讐心も無くなりました。全てを許せるような気分になります。そして私が知り合った全ての人々へ感謝の気持ちが湧いてきました。

恰好良く言えば無我の境地になったのです。煩悩が無くなったのです。いえ、そういう境地が少し判りかけたと言うべきです。まだまだ慾も煩悩もありますが。

仕事を一切止めて数年すると誰でもそのような境地になるようです。

これを悠々自適の状態と言うのでしょうか?

とても幸せな気分で毎日を過ごしています。

老境こそ人生で一番幸福な時期と思っています。別な言葉で言えば、幸福度が一番大きい時期なのです。

こんな経験から、樹木葬に関心があったり、憧れる人の幸福度は高いと思うようになりました。

いきなり話が飛びますが、先日テレビで樹木葬のことを放送していました。

樹木葬の墓地として認可された雑木林を紹介していました。上の写真のように白樺がまばらに植えてああります。

そこへ樹木葬を希望している中年の夫婦が来て見ています。遺骨は特定の木の根元に埋めるのではなく林のなかのあちこちに埋めて下さいと言うのです。死んでから特定の木になるのではなく樹林の土になるのです。そういう希望を静かに喋っていました。

この中年の夫婦の話方がおだやかなのです。優しさに満ちています。執着心がないのです。幸福そうです。

このテレビを見て、若くても執着心の無い人が居ることを知りました。そして幸せそうなのです。

それ以来、私は樹木葬に関心を持ったり、憧れる人の幸福度は高いと信じています。

・・・樹木葬は実際に面倒なことが多いようなので、憧れているだけの場合も多いようですが。・・・何故、面倒なのかは別の記事で書いてみたいと思います。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

後藤和弘(藤山杜人)

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参考資料:

樹木葬は樹林葬や樹木墓地や桜葬などいろいろ名称があります。検索すると全国の樹木葬の場所も判ります。東京都立小平霊園でも樹木葬を募集しています。

費用もいろいろです。少しご関心があればご自分で検索されると本当にいろいろな情報がネット上に御座います。下はそのほんの一例です。

桜葬・樹林墓地:

http://www.endingcenter.com/information/kaze.html

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