戦後、日本を占領したアメリカはインドの独立を日本軍が支援したことを隠そうとします。報道規制のために戦後の日本人はチャンドラ・ボースとラース・ビハリー・ボースのことは知りません。
しかし歴史の真実は正確に子孫へ伝承すべきと思い、以下に日本と協力してインドの独立のために働いた2人のインド人のことをご紹介したいと思います。
新宿・中村屋の創業者・相馬夫妻のことを以前のブログの記事にしました。(盲目の詩人、エロシェンコが何故新宿、中村屋に住み込んだのか?そしてその後の生活は? )
相馬夫妻は多くの人々を支援しましたが、インドの独立の志士、ラース・ビハリー・ボースも支援し娘、俊子も結婚します。
しかし日本で有名なもう一人のボースは1897年生まれのチャンドラ・ボースと言ってガンジーとともにインド独立に活躍した人です。
はじめはガンジーと共に英国の植民地からインドを独立させる運動をします。しかしガンジーの無暴力主義に反対し、武力を用いて急速に独立をはたす急進派の指導者になります。チャンドラ・ボースは行動的な人です。ナチス・ドイツにわたり2000人のインド人部隊を編成してドイツ軍とともにイギリス軍と戦闘を交えようとします。しかしヒットラーやムッソリーニは冷やかに扱います。そこで日本の真珠湾攻撃のニュースを聞いて日本の軍部へ協力を申し出ます。ドイツ海軍と日本の潜水艦を乗り継いで日本へきます。
そして中村屋の支援でインド独立運動をしていたラース・ビハリー・ボースと合流します。
その後のチャンドラ・ボースは日本政府と軍部の支援で、シンガポールで自由インド仮政府を組織し、自分が首班に就任します。そしてインド兵の捕虜を集めて「インド国民軍」を編成し、自分がその最高司令官になります。
軍事的には無謀過ぎるといわれたインパール作戦では日本軍と共にインド国内へ攻め込みますが敗退します。
日本の敗戦後はイギリスへ対抗する為にソ連の協力を得ようとして日本軍の九七式爆撃機でソ連へ向かうのですが、台湾の松山飛行場で事故に会い、1946年8月18日に死亡します。享年満49歳の短い人生でした。臨終の言葉は、「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」でした。インドの独立を見ないで死んだのです。
遺骨は杉並区の日蓮宗の蓮光寺に埋葬されました。このお寺は中村屋のビハリー・ボースの住んでいた近所にあり、彼が主宰した葬儀には中村屋のお菓子が供えられたと言います。毎年8月18日になるとインド政府と日本の関係者が集まって法要を行っています。戦後は、ネルー首相やガンジー首相が蓮光寺を訪れチャンドラ・ボースの墓前でインド独立の感謝の祈りを捧げています。
現在、インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボースの肖像画、右にはガンジーの肖像画、そして左にはネルーの肖像画が掲げられているそうです。
戦後、インドは日本へ賠償を求めず、東京裁判では日本人戦犯の無罪を主張したのです。
そしてインドの対日感情は現在でも非常に良いのです。
戦後、日本を占領したアメリカはインドの独立を日本軍が支援したことを隠そうとします。日本のマスコミもアメリカに気を使い、ネルー首相やガンジー首相が蓮光寺を訪問し、ボースのお墓に参拝したことは大きく報道しません。チャンドラ・ボースと日本軍の関係は歴史の闇に消えようとしています。しかし私はガンジーだけでなくチャンドラ・ボースのことも忘れないようにしたいと思います。
皆様はどのようにお考えでしょうか?
下に蓮光寺にあるボースの碑とお寺の写真を掲載します。(写真の出典:http://netmuseum.co.jp/ippin/ippno40.html)
追記:インド人は日本人を尊敬している一証左として、パール裁判官のことをご紹介して置きます。
1886年にインド・ベンガル州ノディア県クシュティヤ郡カンコレホド村に生まれる。1907年、カルカッタのプレジデンシー・カレッジにおいて理学士試験に合格、数学賞を受賞。翌年カルカッタ大学にて理学修士を取得。1910年にインド連合州会計院書記生として就職した。
1911年にカルカッタ大学理学部、法学部を卒業し、1920年に法学修士試験に最優等にて合格、翌年弁護士として登録。1924年にはカルカッタ大学にて法学博士号 (LLD) を取得した。論文は「『マヌ法典』前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」であった。
1923年から1936年までカルカッタ大学法学部教授。1925年にはインド学会最高の栄誉であるカルカッタ大学タゴール記念法学教授に選出された[4]。1927年にインド植民地政府の法律顧問に就任、1937年には国際法学会総会に招聘され、議長団に選出される。
1941年にカルカッタ高等裁判所判事に就任。1944年、カルカッタ大学副総長に就任[5])。
1946年の極東国際軍事裁判ではインド代表判事として派遣された[6]。
1950年10月に再び来日し、約一ヶ月間日本に滞在した。その際、原爆慰霊碑の碑文について、碑文の責任者である浜井広島市長と対談を行う。広島市中区の本照寺の住職・筧義章に請われ詩を執筆した。その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。
1952年、下中弥三郎らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加。同年国際連合国際法委員会委員に就任し、同職を1967年まで務める(1958年度および1962年度委員長)。
1953年、下中彌三郎の招聘により三度目の来日。大倉山文化科学研究所で「インド法哲学思想の潮流」を講演。同年、インド国会下院議員補欠選挙に国民会議派から立候補し、3万6319票を得るが次点で落選(当選者は、5万8211票を獲得した共産党候補)。
1955年、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。1957年に国際連合常設仲裁裁判所判事、1959年にはナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデに就任。
1960年、インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章する。
1966年10月に清瀬一郎、岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。
1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。82歳。最晩年のパールは、所得税を滞納したことから自宅を失い、恵まれない生活だったと伝えられる。