唐の時代に、廬生という若者が邯鄲(かんたん)という町で一眠りしている間に一生の夢をみます。目を醒ましてみるとそれはごく短時間な一睡でした。
そのように人生は儚いものだという意味で、「邯鄲の夢」という言葉がよく使われています。
人生は短く、儚いものであるという実感は老境にいたると一層、強く感じるようになります。そうして自分の人生にたいする執着心が無くなってくるのです。
それが老境の良い一面です。人生に執着しなくなれば、物事を自由に公平に見ることが出来るのです。
しかし何故か淋しい心境でもあります。
自分の人生に執着しなくなる一つの理由は、私を支えてくれた人々が亡くなってしまって、誰もいなくなるからです。誰もいなくなったこの世にはあまり執着心が起きません。
そこで私の人生を振り返って、どのような人々が私を支えてくれたか考えてみました。そして、いろいろな人を取上げて、「私の一生は邯鄲の夢」という連載記事を書いて見ようと思います。
人々へ感謝しながら、その思い出を懐かしむ連載記事です。
高齢者の皆様は必ずや同じような感慨をお持ちのことと信じています。
まず思い出すのは母の3人の弟たちや2人の妹たちに遊んで貰い、可愛がって貰ったことです。仙台で生まれ、母方の祖母の家に近かったので叔父や叔母さんが良く遊びに来ては私と遊んでくれたのです。おじさんたちは肩車をしてくれて散歩に連れて行ってくれます。おばさんたちは絵本を読んでくれたり昔話をしてくれたのです。
戦争前、戦争中でした。当時は親類の付き合いは濃密でした。何かというと母の弟や妹が来るのです。その上、父の弟が我が家に下宿していて大学へ通っていました。そのおじさんも私を散歩に連れ出して、ススキの葉で笛を作ってくれたりしました。
父方の祖父は兵庫県の田舎の寺の住職でした。毎年、夏になると一家で帰省します。お寺での生活は子供心にとっても珍しい体験でした。一緒に衣を着て小坊主になりお経を読んだりしました。祖母は優しい人で私と2人の弟を本当に大事にしてくれました。
このような幼時の頃のことを思い出すと、祖父母や叔父さん、叔母さんとの楽しかったことを鮮明に思い出します。しかしその祖父母もおじ、おばも皆が旅立ってしまったのです。母の2人の妹が元気ですが、あとは皆いなくなってしまったのです。
戦中、戦後の困難な時代でした。おじさん、おばさんがひたむきに生き、皆が生を全うしました。あの世で安らかに休んでいます。
残ったのは懐かしい思い出と感謝の気持ちだけです。
あれから茫々60年、70年も経ってしまいました。遠い、遠い昔になってしまいました。
私の一生は邯鄲の夢という感慨がします。(続く)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
参考資料:
邯鄲の夢:http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-066.htm
唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)に登場する故事です。「邯鄲の枕」とか「黄粱の一炊」などさまざまな呼び方があります。邯鄲は現在もある河北省の都市です。趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも仕え賢臣の誉れを得る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥(あわがゆ)がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
中国においては粟(あわ)の事を「黄粱」ともいい、廬生が粟粥を煮ている間の物語であることから『黄粱の一炊』としても知られる。同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など多くの言い方があり、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。「邯鄲の夢」は人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られている。