後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の各地でオート三輪車が活躍していた頃

2012年07月14日 | 写真

昭和30年頃前後はオート三輪車が全国で活躍していました。野菜や荷物の運送にはきまってオート三輪車でした。

子供はみな憧れて、乗ってみたいと思っていましたが、青果業や酒店などの子供しか乗る機会がありませんでした。

仙台に居た少年の頃、二三度だけ運送業のオジサンに荷台に乗せて貰ったことがあります。危なっかしい助手席にも乗せてもらい怖い思いもしたことがあります。

とにかく乗り心地が悪い、刺激的な乗り物でした。

そのうちこの不思議な乗り物は次第に消えて行きました。

中国や東南アジアにエンジン付きの三輪車が今でも走っていますが、日本のオート三輪とは全く違います。懐かしい乗り物ですが、もう二度と見ることが出来ません。

下の写真は昭和30年頃の小金井市の多摩青果市場の前に勢ぞろいしたオート三輪の写真です。(写真の出典は、小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」 です。)

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宗派をこえた共同礼拝・・・一般の人に見て貰いたいキリスト教徒の和解

2012年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム

おもにヨーロッパで発展してきたキリスト教には困惑するような歴史があります。

堕落したカトリックに反旗をひるがえして宗教改革がおきました。30年間もの宗教戦争も続きました。魔女狩りもあり、違った宗派の間に戦争がありました。ヨーロパ諸国が植民地のぶんどり合戦をし、宣教師も一役かって活躍しました。宣教師が植民地獲得の先兵のようです。

その上、ヨーロッパのキリスト教国の間で第一次世界大戦や第二次世界大戦も起きました。キリスト教は戦争防止にまったく無力だったのです。

そのような歴史を見て日本人はキリスト教は平和維持の役に立たないと判断しました。その宗教は逆に戦闘的で、排他的な宗教と思っています。宗教が無ければ世界がもっと、もっと平和になると信じています。キリスト教は教養として勉強しますが絶対に洗礼を受けようとしません。

日本中に数多くのミッションスクールがありますが生徒達はほとんど洗礼も受けないで卒業します。

公平に見れば上に書いたことが大部分の日本人のキリスト教へ対する見方です。

この日本人の見かたにはそれなりの理由があります。私はそれに対して声を上げて抗弁しようとは思いません。イエス様はそんな声高な議論を喜ばないからです。

今日あったイベントについて静かにご報告するだけです。

小金井市にある11の宗派の違う教会の信徒が一緒にイエス様の福音書を読み、神様が人々を強く愛して下さるようにと祈りました。このような合同祈祷会は既に何回も行われているのです。今日の合同祈祷会は日本アライアンス教団小金井教会で行われました。

自分はカトリックなのでプロテスタン教会の祈り方や儀式の様子に馴れていません。始めの数回はオドオドしていました。

しかし、今日もそうですが、最近は、私は安心しています。心地良いのです。全てをイエス様にお任せして合同祈祷会を楽しめるようになりました。教派の違いが全然気にならなくなったのです。そして今日はまた変なことを考えて祈っていました。

キリスト教を排他的だと思っている一般の人々もこの合同祈祷会を見て貰いたいと考えていました。出席すればキリスト教は排他的でないことがお分かりになれます。戦闘的でもありません。知らない同士が楽しげに、平和に話合っているのです。

16世紀にヨーロッパで起きた宗派の違いによる戦争の敵味方が日本で和解しているようです。いやそうではありません。故ヨハネ・パウロ2世はかつてのカトリックの宗教裁判の間違いを謝罪し、和解を求めたのです。その精神を日本人も大切にしているのです。

今日はいつも出席している我らがディン神父様は黙想会へ行っていて欠席です。でも心細くありません。

このブログで以前ご紹介しました丸山牧師や橋本牧師や宮川牧師がみなニコニコしているのが見えるのです。この小金井KC-ネットワ-クの組織化に尽力した山本量太郎神父の話も出ていました。

そして一般の近所の人々も出席していたらもっと良かったと思ったのです。教会は地域に溶け込んで、地域の人々に愛されるようにと私は祈っていました。それが私の今日の祈りでした。

下に今日の祈祷会関連の写真をお送りします。

説教をしている若い女性はカンバーランド長老キリスト教会の関伸子伝道師です。東北地方の大津波の被災地でのボランティア活動の報告が印象的でした。

宮本起代子さんがオルガンを弾いて下さいました。

祈祷会のあとで三番目の写真のように懇親会もありました。

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人間の心変わりの早さ・・・飽き易さ、根気の無さ、節操の無さ

2012年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム

26年間、ヨットを趣味にしていました。昨年の秋、ヨットを売って、キチンと幕を引きました。

この26年間、他のモーターボートやヨットの構造も見て、観察して来ました。出港した後の走りや性能をいろいろ考えて楽しむためです。持ち主が居たら、丁寧に挨拶をしてエンジンや船室の内部を見せていただきます。

しかし、とても心が痛むこともあります。それは持ち主が長い間来ない船が多いことです。ヨットやモーターボートに憧れて購入したのですが、数回乗っただけで、すぐに飽きてしまったのです。一旦始めた趣味を続ける根気が無いのです。係留地を大切にしようという気持ちもありません。一度は愛した自分の船に対して節操もないのです。

三浦半島のヨットやモーターボートの係留地を見るのが好きで、今でも時々行っています。しかし多くの船が長い間、放置されたままです。そのような船は係留ロープがキチンとしていないのですぐに分かります。

有料の係留地にある船はまだ良いのです。管理者が係留ロープだけは緩んでも切れないようにしています。船が沈まないように注意しています。

しかしもっと悪いのは川岸や海岸に無断で係留している船が、放置艇になった場合です。

行政官庁が撤去する法律が曖昧な上に、撤去の予算が無いのです。

下に示した写真には20年以上、放置されたままになっているモーターボートとヨットが写っています。

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豪華なモーターボート1隻の回りに5本のマストが見えます。5隻のキャビン付きのヨットが係留されています。

この風景が、なんとなくロマンチックなので、20年ほど前に、そばまで行って見ました。

ところが、そこには驚くべき光景があったのです。ホームレス達が住み着いていたのです。船の中には料理台もコンロも流しもあり、住むには便利です。特に大きなモーターボートには客室と料理場と寝室が別々にあって具合が良さそうです。

あまり熱心に覗き込むのも失礼なので早々に退散して来ました。

このような持ち主の分からない放置艇が全国に22万隻あるという報告書もあります。国土交通省の平成18年度の調査報告書です。

人間の心変わりの早さ・・・飽き易さ、根気の無さ、節操の無さを示している光景です。心が暗くなります。

何故、このように放置艇が多いのでしょうか?理由は3つほど考えられます。

(1)ヨットやモーターボートのロマンチックな絵画や写真を見て、安易な気持ちで買ってしまう人が多いのです。

特に水着の美人が船の上に立っている宣伝写真が多いのです。このような写真は冗談です。女性は原則として船が好きではありません。恋人や家内が浮世の義理で、たまに来てくれるだけです。絶対に来ない奥さんが大部分です。それが普通です。

(2)中古のヨットやモーターボートは数十万円です。働いている中年の人には気軽に買える値段です。ところがマリーナや漁港の年間係留料が高いのです。100万円以上のところが沢山あります。

そこで無料の川岸や海岸に留めます。しかしそういう場所は台風や大雨になると船が流されてしまうのです。

次第に興味がなくなり、船へは行かなくなります。そして上の写真の船のようにホームレスの住む家になってしまいます。

(3)日本には船を趣味として楽しむという文化が無かったのです。それには根気と責任が必要だという厳しさがある文化なのです。その伝統が無いのです。

日本では昔から船は魚をとるか、荷物やお客を運ぶためにだけ使用して来ました。船はお金を稼ぐ道具です。

船そのものを遊びの対象にする文化が無かったのです。

勿論、川下りの船や屋形船は遊びの船です。しかしそれは景色を楽しんだり、船上で花や月を眺めながらお酒を楽しんだのです。

船そのものの構造をいろいろ変えて、その走り方を楽しむ趣味は欧米の文化だったのです。根気と自己責任が要求される趣味なのです。

放置艇は欧米の文化に深く根ざした「船の趣味」を安易に輸入した証拠です。伝統文化でないので経済事情でされます。バブル経済のころはヨットもモーターボートも急増しました。不景気になると途端に減少するのです、

さて話は変わりますが、このような事は趣味の世界だけに限りません。

明治維新以来輸入した欧米の科学と技術のいろいろな分野や場面に見られることです。

しかし日本人は根気良く修正をして来ました。根気良く改良改善をして来ました。そして有数の工業国になったのです。経済も発展したのです。

放置艇も次第に処分されるようになって来ました。もう十年もすると日本の川岸や海岸から目障りな放置艇が消えてしまうと思っています。日本はもっと、もっと住み良い国になると信じています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)