後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北方領土問題のロシア側からの見かた・・・その違いの大きさ

2012年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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(夏の千島列島のある島の海岸風景)

ロシアは歯舞諸島、色丹諸島を日本へ返すから平和条約を締結しようと提案しています。日本は、冗談ではない!択捉島と国後島も含めて4島全てを返すのなら平和条約を締結しても良いと言っています。日本人として考えると当然な主張です。

戦後67年、日本は同じ主張をして来ました。しかし何故ロシアは頑なに無視しているのでしょうか?理解に苦しみます。

そこでロシア側から見た北方領土の考え方を探して見ました。そうしたら、そのような歴史的説明がインターネットの上にありました。

以下に掲載いたします。

以下の見解に賛成とか反対する前に日本側との見解の大きな違いに吃驚します。これでは日本とロシアの間には永久に平和条約が締結出来ません。

そうなると現実問題として、「平和条約が無いことによる利益、不利益を査定する仕事」の研究が早急に必要になります。

そんなものが無くてもロシアとの経済交流が発展しているから心配無いという考え方もあります。

いや平和条約がなければロシアが攻め込んでくる危険があるという考えもあります。

それどころか日露不可侵条約があっても無視して満州を侵攻したのだから平和条約は役に立たないという考え方もあります。

さて皆さんはどのように考えるのでしょうか?

下のロシア側から見た歴史をご覧になってご意見を頂ければ嬉しく思います。

出典はhttp://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ です。

1.北方領土問題とは

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 もともと、千島にどのような人が住んでいたのか定かではありませんが、江戸時代にはアイヌの人たちが住んでいました。
 日本は正保年間には、択捉島・国後島を含む千島の存在を漫然と知っていました。しかし、択捉島を詳しく知ったのは、ここを日本人としては最初に探検した、最上徳内の成果でした。最上徳内が択捉島に渡ったとき、すでにロシア人がそこに居留し、ロシア正教を信仰するアイヌも多数存在していました。徳内はロシア人から択捉島やそれより北の地域について知識を得ました。なお、択捉島に、最初に勢力をおよぼし、税を取り立てたのはロシア人イワンチョールヌイです。

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 択捉島には日本よりもロシアのほうが先に勢力を及ぼしましたが、これは長続きしませんでした。高田屋嘉兵衛の国後・択捉間の航路開拓により、19世紀になると日本の支配が確立してゆきます。1855年、日本とロシアとの間で下田条約(日露通好条約)が締結されました。この条約交渉でロシア全権プチャーチンは当初、択捉島のロシア帰属を主張しましたが、交渉の結果、当時の、現実の支配関係に従って日露間の国境は択捉島とウルップ島の間に引かれました。なお、この時期、樺太には日露双方ともに支配が及んでいなかったので、樺太には両国間の国境を定めず、混住の地とされました。
 この条約は日露両国の友好をうたったものでしたが、日露戦争により完全に失効しました。(注1)

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 1875年に締結されたサンクトペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)は、樺太をロシア領とする代わりに、千島列島のロシア領だった島々を日本領にしました。
 同条約はフランス語が正文でした。交渉に当たった榎本武揚は日本語訳を作りましたが、訳文は不正確なものでした。この不正確な訳文を根拠にして、国後島・択捉島が千島列島に含まれないとの解釈が1950年代から1980年代までありました。
 サンクトペテルブルグ条約は正式なタイトルがなかったために、「千島樺太交換条約」「樺太千島交換条約」などと、俗称されます。

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 第二次大戦末期の1945年、ソ連は、米国大統領ルーズベルトの要請で日本との戦争に加わりました。そして、日本が降伏した92日に出された一般命令第一号にしたがって、千島諸島はソ連が占領するものとなりました。
 なお、ソ連の参戦は、国際法廷である東京裁判(極東国際軍事裁判所の判決)で、正当なものと認定されています

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 1946129日、GHQは日本の行政権の範囲を定めたSCAPIN-677を命令します。この命令により、日本政府の施政権は北方領土に及ばなくなりました。194622日、ソ連は四島を含む千島列島・南樺太を自国領に編入しました。
 194612月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、19497月までにほぼ全員の日本人が帰国しました。しかし、日本国籍を離脱し朝鮮国籍となった人はその後も帰還することができませんでした。日本人でも、帰国できない人と結婚した人や、ロシア人と結婚した人など、残留を希望する、わずかの人は、北方領土に残留しましたが、これらの人も、その後、サハリンや沿海州などに移住しました。なお、これらの人の23世の中には、現在、北方領土に住んでいる人もいます。

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 1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島列島を放棄しました。平和条約の起草国である米国代表は演説の中で、「"Kurile Islands"という地理的名称がハボマイ諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。ハボマイを含まないというのが合衆国の見解であります」との発言をしています。吉田茂全権大使は、「北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」と表現し、歯舞・色丹が千島列島に含まれないとも受け取れる発言をしていますが、国後島・択捉島を「千島南部の二島」と表現しています。このように、日本が放棄した千島列島に、歯舞・色丹が含まれるのかどうかについて、意見が一致しなかったことが知られています。
 国後島・択捉島については、1951年秋の平和条約及び日米安全保国会審議の中で、西村政府委員および草葉政府委員が、国後島・択捉島はサンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれると明確な説明をしています

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 1955年頃になると、徐々に東西冷戦が深刻化しましたが、その一方、日ソ間では外交関係を回復する気運が高まってきます。そうした中、ソ連から、『歯舞群島・色丹島を日本に引き渡し、国後島・択捉島以北はソ連領とすることで、平和条約を締結したらどうか』との提案がなされました。
 サンフランシスコ平和条約から5年後の、195697日、米国政府は対日覚書で『日本は、同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持つてはいない』と断定し、日本の対ソ交渉に対して制限を加えました。さらに、同じ覚書の中で、米国政府は、『択捉、国後両島は、常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した』と二島返還で妥結する事をきびしく禁止しました。
 このような経緯があって、195610月、日ソ共同宣言によって両国の外交関係は回復されましたが、平和条約を締結することは出来ませんでした。そして両国は平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意しました。また、ソ連は日本の要望にこたえ日本の利益を考慮して歯舞・色丹両島を、日本に引き渡すことに同意しました。ただし、これらの諸島は、日ソ間に平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとなりました。しかし、現在にいたるも、両国間に、平和条約は締結されていません。
 なお、19561129日参議院外務委員会において、下田武三条約局長は、歯舞・色丹に関して「事実上ソ連がそこを支配することを日本はまあ認めたわけでございまするから、ソ連の引き続き占拠することが不法なりとは、これまた言えない」と説明しています。

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 1961103日、衆議院予算委員会において池田総理大臣は、ウルップ以北が千島であり、南千島などは存在しないとの答弁をしました。これまでの地理上の常識や、日本政府の説明をまったく無視した強引な解釈がこのとき生まれました。
 この3日後、小坂外務大臣はウルップ以北が千島であることの根拠は、1875年に締結されたサンクトペテルブルグ条約であると説明しました。しかし、この条約はフランス語を日本語に訳すときに不正確な訳であり、この根拠はフランス語正文では成り立たないことが、その後、明らかにされています。当時、この条約の日本語版が不正確な訳であることは、あまり知られていませんでした。

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 1964617日、外務事務次官は自治事務次官に対して、国後島・択捉島を南千島と呼ばないように各方面を指導することを求めた、通達を出しました。
 この結果「南千島」の用語は徐々に使われなくなり、現在では多くの場合「北方領土」と呼ばれています。

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 北方領土返還運動は、194512月、当時、根室町長だった安藤石典が、北方四島をアメリカ軍の占領地域にして欲しいと、マッカーサー元帥に陳情したのがはじまりであるとされています。安藤石典は、その1年後、GHQにより公職追放になりました。
 なお、マッカーサー元帥への陳情は、占領とほぼ同時の


ヒマワリの花を見ると昔のことを思い出す

2012年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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人それぞれ花にはいろいろな思い出が重なっていると思います。

私は夏になるとギラギラ照りつける太陽の下に広がるヒマワリ畑を思い出します。

ヒマワリは戦中、戦後にさかんに植えられていました。夏が終わると大きな花の中にギッチリとつまった種を取り出してよく食べたものです。人々が飢えていた時代だったので、その油濃い種が大変美味しく感じたものです。

種といえばカボチャの種も乾してよく食べました。

ヒマワリの花を見るとB29の空襲で焼け野原になってしまった仙台の光景を思い出します。そして戦後、満州から引き揚げて来た同級生の青白い顔や、歯切れの良い話し方などを断片的思い出します。

そして亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の黒い炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。燃料にするだけでなく埋木細工を作って飾りものとして売るのです。

あれからもう何年たったのでしょうか?

夏と言えばノウゼンカズラやキキョウの花も思い出します。何故か考えてました。

そうしたら結婚以来、妻がよくこの花のことを話していたのです。

派手な西洋の花は嫌いと言い放つセリフが私の耳に聞こえます。

そして妻はいろいろな花々の特徴や、花言葉を教えてくれました。そのせいで私も花が好きになりました。西洋の派手な花々も好きです。その事がいつも我が家の夫婦喧嘩の種になります。ヒマワリの花の種から書きだして夫婦喧嘩の種に行きついたので今日の話はこれでお終いです。

それてにしても人生は、邯鄲の夢ですね。

上に示した、山梨県、明野のヒマワリ畑の写真の出典は「里山に住んで」(http://ihcuik69.web.fc2.com/) です。転載させて頂きまして、鬼家(オニイエ)雅雄さんへ感謝します。下に家内が撮ったノウゼンカズラとキキョウの花の写真をお送り致します。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

後藤和弘(藤山杜人)