後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本民族の戦争を考える(1)靖国神社の壁にある無数の写真

2012年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、ゼロ戦を軽く作るために、パイロットを守る装甲板を薄くしたという話を書きました。(航空公園でゼロ戦の飛んでいる姿と製造技術の映画を上映しています

それ以来、日本人の戦争へ対する考え方に何か間違ったことがなかったかという疑問が湧いてきました。

明治維新以来、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争という大きな近代的な戦争をして来たのです。その日本民族の考え方をもう一度考えてみようと思い立ったのです。そして何時までも伝承したいと思います。

日清戦争と日露戦争では、軍艦や大砲などをイギリスから買って、戦いました。太平洋戦争では日本人技術者の手で製造した戦艦や飛行機で戦いました。

武器の製造技術や大量生産力が劣っていたのでしょうか?そこで今日は旧日本軍の戦闘機や魚雷や戦車や大砲が展示してある靖国神社の遊就館を訪問しました。

そうしたら遊就館の多くの壁に日清、日露、日中、太平洋の各戦争で国に殉じた人々の写真が飾ってあります。

一人の高齢な婦人が神主に案内されて戦死した親族の写真の処へ来ていました。その婦人はその写真を丁寧に手で触って何か話しかけています。

最後に、案内して来た神主さんへ「有り難うございました」と言って静かに帰って行きます。

軍国主義を非難したり、劣悪な軍事技術を批判するのは簡単なことです。誰にでも出来ます。そんなことは後にして、まず写真についてご報告いたします。

私は壁に飾ってあった写真を丁寧に見て回りました。

国に殉じた人々に感銘をうけます。そのお陰で現在の日本があるのです。深く感謝します。

全ての戦死した人々の冥福を祈りました。写真は沢山あります。とても全てはご紹介出来ません。下にそのほんの一部だけを謹んでご紹介いたします。

皆様もお祈りして頂ければ遺族の方々も慰められるでしょう。合掌。

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多くの写真の中の少女の写真もあります。ある国民学校でアメリカ機の犠牲になったようです。それも戦死です。かわいそうです。

従軍看護婦として亡くなった方の写真もあります。シベリア抑留で亡くなった方の写真もあります。その他に戦争が終わってからB級戦犯として死刑になった方の写真もありました。完全に冤罪でした。

年齢や階級に関係なく皆等しく飾ってあります。 76歳になる私から見ると皆が若々しく見えます。良い表情をしています。美しいキリっとした表情です。

こんな若者達を死なせた戦争の不条理な悲劇が胸にせまります。

このような形で写真を公開することは大変良いことだと感動しました。戦死した方々の遺族の慰めにもなります。

そして戦争を、より身近に感じさせ、子々孫々へ伝承するためには大変効果的ではないかと思います。

戦争の理不尽さや残酷さを静かに、しかし強く訴えています。

私は、まず姿勢を正して戦死した全ての方々の勇気を讃え、感謝して、ご冥福をお祈り申し上げます。

その後で、日本の戦争指導者の戦略性の無さや、劣悪な武器、補給戦略の欠如などなど日本的な欠点について私の意見を書いて行きたいと思います。(続く)


私の一生は邯鄲の夢(3)苦しかったアメリカ留学

2012年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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留学という言葉の重さは時代によって変わります。明治維新以後、戦前、戦後と「留学」は立身出世のためにはとても大切だと考える人々がいました。

私は新制中学校に入学しました。昭和23年のことでした。先生方は戦前の教育を受けています。敗戦になっても急に教える内容は変わりません。軍事教育が無くなっただけで、長幼の序を守り、親孝行をし、立身出世をしなさいと教えます。

生徒たちは先生を尊敬し、その聖職にある人々の教えに忠実に従ったものです。特に印象深かったことは先生達が立身出世に努力しなさいと何度も言っていたことです。

単純な私はあまり深く考えないで、その為には留学すべきと信じ込んでいました。

大学に行くようになってから進駐軍の人や宣教師たちから英会話を習い、卒業後、オハイオ州立大学へ留学しました。1960年のことです。

当時はまだ自由な観光旅行は禁止で、留学や業務出張だけが許可されていました。

日本から持ち出せる外貨は200ドル以下と厳重に規制されていた時代です。

現在考えてみると貧乏だった私がよくぞ留学出来たと不思議な気分です。

往復の渡航費はフルブライト制度で出してくれました。生活費は指導教官のセント・ピエール教授が毎月200ドルくれました。

凄い貧乏生活です。その上、勉強と研究生活が厳しいのです。日本の大学のように甘くないのです。毎日のように短い筆記試験があり、夕食後はまた大学に戻り自分の研究のための実験をします。博士論文を書くための実験です。上の写真は教室と私の実験装置のあった建物です。オハイオ州立大学のロード・ホールという建物で、現在もあります。

貧乏と勉強に苦しめられた生活が2年続きます。しかし2年後、やっとPh.D.を得てすぐに帰国しました。

あんなに勉強したことは私の人生にはありません。あんなに貧乏な生活をしたことはありません。

今思うえば無謀にも、その貧乏生活の間に日本から婚約者を呼んで結婚したのです。先生方やアメリカ人の同級生が結婚式を支援してくれました。子供も生まれました。

それで立身出世はどうなったでしょうか?帰国してみると時代はどんどん変わって行きます。誰も立身出世などと言わなくなります。そんな考えは古臭いのです。ですから留学は立身出世には役に立ちませんでした。

それでは、あの苦しかった留学時代に得たものは何だったのでしょうか?親切だったアメリカ人の思い出だけだったのです。しかしそれはうたかたの儚い我が人生のなかで大切な宝として長い間心に残りました。今でも感謝しています。

一生の友人だったジョージ・オートンさんは夫妻ともども旅立ってしまいました。全ては夢のように消えてしまいました。しかし私はアメリカ人へ感謝しています。

このブログで親米的な意見や記事を何度も書いている訳はアメリカ人へ対する感謝の気持ちからです。

下の2枚の写真はオハイオ州立大学の名誉のために掲載しました。この大学はアメリカン・フットボールが強く、その上、壮大なスタジアムを持っているのです。その事を自慢に思っているのです。

この写真を見ると茫々50年前の暑かった夏の日のスタジアムを埋め尽くす歓声が聞こえてくるから不思議です。それも夢のようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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