日本が第二次世界大戦で敗北したのは1945年の8月15日です。空襲で焼きつくされたた都市の風景が忘れられません。暑い夏でした。焼き尽くされた街に夏の陽射しが照りつけています。そのせいで毎年夏になると第二次世界大戦のことをいろいろと思い出します。
そしてこのような悲劇が二度と起きないように祈りつつ、以下に若い方々のためにシベリア抑留のことについてお送りいたします。
シベリア抑留は満州に突如攻め込んだソ連軍が敗戦後、55万人余の日本兵を捕虜にし、シベリア各地で強制労働をさせたのです。あまりの寒さと飢えで5万人余の日本兵がシベリアの土になり、二度と故国の土を踏むことはなかったのです。
このシベリア抑留が何故起こったかという問題を少し広い視野で振り返ってみます。
日本と枢軸同盟を結んでいたドイツがロシアへ進撃し、優秀な人間や若者の民間人を選んで1000万人銃殺した事実を日本人はあまり知っていません。この話をすると驚く人が多いのです。
第二次大戦でロシアの戦死者は1450万人。民間人の1000万人と合計すると2450万人です。これに対してドイツの戦死者は280万人、民間人の死者が230万人で合計510万人です。
戦争に勝ったロシアが2450万人死に、負けたドイツが510万人死にました。これらの数字は正確には調べようもありません。
(ここで用いた死者の数の出典:http://www.geocities.jp/wdbkwy/wdyhmfwys29.htmlです。) これには日本の戦死者数もでています。
日本ではドイツによる、「ユダヤ人の大量殺戮」のみがよく取り上げられますが、ロシアの民間人の大量殺戮もしたのです。その事を忘れては、歴史を理解する場合の公平性に欠けると思います。
ドイツと同盟した日本がシベリアの脅威になっていたのは事実です。そのお陰で、ドイツの侵入・殺戮を容易にしたと考えるのは自然なことです。日本の枢軸同盟のお陰で多数のロシア人が殺されたとロシア人は思っているでしょう。
シベリア抑留は日本人もドイツ人もやられました。ドイツ人のほうが多数で過酷であったそうです。
何故シベリア抑留が起きたか論理的に考える必要があります。
シベリア抑留は無理無体、無法の極み!残酷なロシアの政策!と、いくら非難しても足りないと思います。全くけしからん話です。
また戦後ロシアが頑なに鉄のカーテンを張り廻らせ東西間に緊張が続きました。しかしこの冷戦も1989年にアメリカの勝利で終わりました。ソ連に占領されていたポーランド、チェコソロバキア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、リトワニアなどのバルチック3国が皆完全独立したのです。
しかし、シベリア抑留も鉄のカーテンもみなロシアの2450万人の死者が原因の一つです。
共産主義は間違っています。でもロシアの冷酷な政策は2450万人の死者を忘れては理解出来ません。
こんな暗い、悲惨な人間の歴史の話の最後に、実に明るい話をご紹介します。
元日本兵の木内信夫さんがシベリア抑留中に描いたスケッチ風の絵画集がインターネットで世界中へ公開されています。http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm,です。
数ヶ国語の翻訳つきです。いろいろな国の人々から感動したという投稿が英語であります。絵画の主題は人々の友情や抑留生活中のユーモアある風景が多いのです。極限状態でも人間を信じ、ユーモアを忘れない木内信夫さんの勇気にみな感動してコメントを送るのです。ロシア人の謝罪と戦争反対のコメントはせつせつとして心にしみます。人類の善意と相互理解の可能性を信じ、筆を置きます。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)