1904年、明治37年に日露戦争が始まりました。翌年日本の勝利で終わりましたが、日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。
日本人のロシア人へ対する敵愾心は凄まじく、全国に散在するロシア正教関係の教会や集会所は暴徒の襲撃に会います。
しかし東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライは顔色一つ変えず動揺しません。
日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂を暴徒から守ったのです。
特に1905年9月15日の日露講和条約(ポーツマス条約)の日には激しい日比谷公園焼き打ち事件が発生します。神田、駿河台のニコライ堂へ暴徒の群衆が押し寄せます。
しかし日本の軍隊が暴徒を一歩もニコライ堂の構内へ入れなかったのです。
日露戦争になる前にニコライはロシアへ逃げ帰ることも出来たのです。しかし彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言して断固日本に残留したのです。日本の信者を見捨てる筈はなかったのですが、それを実際に見た政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライを大切にしたのです。
これだけではありません。ロシア正教の日本人信者とその家族がロシア兵の捕虜の慰問を日本政府と軍部が許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。
1905年にはおびただしい数のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。
日本国内には27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。
ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどを日本人司祭と信者が手を尽くして行ったのです。
私の手元にはそのような当時の写真があり、それを見ながら書いています。
捕虜収容所を訪問したニコライと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の上半身肖像写真。ペトル内田 補司祭と信者の家族とロシア兵捕虜との集合写真。京都、伏見捕虜収容所を担当したシメオン三井道郎司祭の上半身肖像写真。習志野捕虜収容所でのイアコフ藤平新太郎司祭とロシア兵との集合写真。神田、駿河台のニコライ堂前でのロシア兵捕虜慰問会の集合写真。
ここで皆様に是非ご想像して頂きたいのです。1905年と言えば、1917年の共産党ソ連の出来る随分前です。ロシア人はロシア正教徒でした。戦いに敗れ、呆然自失の状態で敵国の収容所へ送られたのです。そのような傷心の時、突然ロシア語の話せる日本人の司祭が現れたのです。信者の家族が親類のように子供連れで遊びに来てくれたのです。彼らの心が躍った様子が目に見えるようではありませんか?
それを許した明治時代の日本人は心が広く、本当に偉かったと思います。1912年、聖ニコライは75歳で日本の土になりました。明治天皇が大きな恩賜の花輪を供えました。
第二次大戦のアメリカ兵の捕虜に対して軍部は過酷な扱いをしました。アメリカからのキリスト教牧師が慰めに行くのを許しませんでした。それどころか敵性外国人として監視やスパイの嫌疑で逮捕していたのです。
明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたのです。我々日本人はこのような明治時代の日本人をもっともっと誇りに思うべきではないでしょうか?
そして日本のロシア正教が実質的に日本正教会への育って行ったのはこの日露戦争の頃からと私は感じています。皆様は如何お考えでしょうか?(終り)
Wikipedea でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。取りあえずここに転載しご紹介いたします。
=====ニコライの生い立ち======
スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。
翌1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。
1960年にオハイオ州でダッジ・コルネットという大型乗用車の中古を買いました。クリーム色と水色のツートンカラーの美しい車でした。
行っていた大学のそばの学生街の道傍には、イギリス製の真紅のMGスポーツカーがよく駐車してありました。。時々、幌が空けたまま駐車してあるので中がよく見えます。シンプルなダッシュボードに木目のハンドルがついています。MGは手動のギアチェンジ。軽快な構造で車体のフォルムが流れるように美しい。そばを通るたびにMGのところで、しばし足を止めたものです。
同級生にMGで通学している中年の空軍大佐が居ました。仲良くなった時、そのMGで家まで招待してくれたのです。車体が軽くてスピードを上げると飛び上がるように疾駆するのです。エンジンの音をわざとゴロゴロと響かせ、体をしびれさせるのです。
それ以来、いつかは自分もスポーツカーに乗れる身分になろうと頑張りました。それは苦しく、激しい人生でした。
一生の間に一度はMGのようなスポーツカーを持ってみたいと考えながら、その夢も果たせず60歳になってしまいました。
最後のチャンスと思い60歳過ぎに、MGと同じような軽スポーツカーのマツダ・ロードスターの中古を買ったのです。上の写真の車です。
家人も一度はスポーツカーに乗って見たいと言います。
彼女の好みの色合いの車を探しました。エンジンにガタが来ていてもどうせ3年だけ乗ると決めているので安い中古の車が沢山ありました。
落ち着いたマリンブルーの中古を見つけました。
それから3年間、山の小屋や土浦のヨットへと散々乗った後で、3年後に予定通り売ってしまいました。一生の夢がかなえられて満足しました。充実感もありました。
スポーツカーに3年乗ってみた結果として意外な感じがしたのです。スポーツカーは見ていればロマンチックな車ですが、乗ってみると違います。
特に老人にとっては椅子が硬くて、その上サスペンションのバネが最小限度しか付いていないので腰が痛くなるのです。
椅子が低い位置にあり、ドアーが小さいので乗り降りが非常に不便です。
タイヤの音が大きいので、4輪すべてを一番静かな新品タイヤへ変えたが、やはりうるさいのです。その上、屋根が幌なので他の車の騒音が入って来るのです。
快晴のときには幌を畳んで、オープンで走ります。たしかに爽快です。しかし埃や砂粒が遠慮なく顔を叩くのです。その上、陽射しがまともに顔に当たります。
家人も始めは喜んで乗っていましたが、次第に乗らなくなりました。
スポーツカーはやはり青春の乗り物なのです。
しかし3年間乗りまわして大いに満足しました。人生に思い残すことがまた一つ無くなりました。皆様はスポーツカーに憧れていらっしゃいますでしょうか?下に写真を幾つかお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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下は1955年のMGです。