後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

植物公園の夏日の午後の風景

2012年07月04日 | 写真

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気温32度ほどの暑い陽射しの中を歩いてきました。神代植物公園を回って、爽快な汗を流しました。

今日は今年最高の暑さになりました。しかし風が吹いていてエアコン無しでも凌げます。

梅雨明けが近いのでしょうか?次第に気温が上がってきました。そのうち最高気温が37度になると覚悟しています。とにかくエアコンをなるべく使わないで扇風機で過ごす時間を長くしようと思っています。原発の割合を次第に下げて行くのが良いと信じていますから。

写真の花々をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。


アメリカ空軍の本土空襲による死者は33万人、負傷者は43万人でした。

2012年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム

下はB29の空襲の様子です。束になった焼夷弾が空中で分散し、落下しています。

B29s_dropping_bombs

下は焼夷弾空襲後の静岡市の写真です。

Shizuoka_after_the_1945_air_raid1   

現在の若い方々のために以下の事実をご紹介いたします。

日本本土空襲(にっぽんほんどくうしゅう)は、太平洋戦争末期、アメリカ空軍が日本各都市に対して行った空襲である。アメリカ軍による攻撃は、特に1944年、昭和19年末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われた。

攻撃は、B29に代表される長距離爆撃機による爆撃のみならず、機動部隊の艦載機や近くの硫黄島などから飛来する単発機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われた。また、沿岸部の都市では艦砲射撃射によっても攻撃されたところもある。

空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国の内地だけで200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災したのです。

上の文章と写真の出典は、(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2) です。

===参考資料:空襲の被害の大きかった市町村一覧======

アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市は200と言われています。

戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。現在の若い方々にご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。

内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。      昭和21109日 内閣総理大臣 吉田茂

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、東京都の区の存ずる区域,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。 

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、高松市  

徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。) 


私の一生は邯鄲の夢(2)仙台の大空襲と昔の故郷の消滅

2012年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム

「邯鄲の夢」が教えているように、人生は短い夢のようで、はかないものです。

夢ですから楽しい夢も、悲しい夢もあります。驚きの夢も、悪夢もあります。

1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。

9歳であった僕は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。翌日は少年の単純な好奇心で、鹿落坂をくだって焼け跡を見に行きました。下の写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇っていたのを鮮明に思い出します。

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7月10日の夜に下の写真のようなアメリカ空軍のB29が123機、来襲して仙台市を一挙に焼きつくしたのです。123機編隊でやって来たのです。小笠原のすぐ南の硫黄島の空軍基地からです。

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それは一瞬の悪夢でした。そうして間もなく敗戦です。多数のアメリカ兵がやって来ました。

戦争中に第二師団があった川内の広大な敷地に白い宿舎や事務所を建てて占領政策を実施していました。日本軍の使っていた松島飛行場や仙台霞の目飛行場は米軍基地になり、米兵が市内を闊歩していました。その上、市内の金持ちの住宅は接収されアメリカ軍の上級将校の自宅になったのです。仙台市の復興は遅々として進まず、砂埃の大通りを米軍のジープが走り回っていたものです。

あれから茫々65年。現在の仙台市を青葉城から見降ろすと下の写真のように復興したのです。

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仙台市の大空襲は悪夢です。そして立派に復興した姿も夢のようです。

この仙台を出て東京に暮らすようになって五十年以上になります。

時々、仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回ります。ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しているだけです。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。もうみんな旅立ったのでしょうか?

繁華街の一番町の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらないのは藤崎デパートと三越デパート、そして お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンなどです。他は全て消えてしまったのです。私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。甘い追憶の中のふるさと、仙台はついに消えて失くなってしまったのです。

昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か心が暗くなります。牛タン焼は美味しいものです。それは知っています。しかし仙台では絶対に食べないようにしています。まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに腹を立てているのです。

仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消失してしまったのです。

しかし。しかし街々を囲む山々の自然は変わりません。人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。でも自然の景観は何時までも同じです。それを見るとやっぱりふるさとは良い。仙台は良い所だと思います。

下に評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の写真を示します白い建物の後の小高い森が青葉城の本丸のあった所です。

真正面のテレビアンテナの鉄塔のある一体が八木山というところです。川の左手は経が峯といい、伊達正宗の廟所があります。ああ、それにしても全ては短くて儚い夢でした。「邯鄲の夢」でした。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)