この写真をご覧下さい。カトマンズの路上で農作物を売っている兄弟です。ニンニク、ショウガ、トウガラシ、ナス、ダイコン、それにカリフラワーなどがきちんと盛ってあります。親が作った野菜を道行く人々へ売るのが楽しいようです。2人の子供の笑顔が輝いています。
この写真を昨年撮った ひかるのさんが昨年の末にガンになりました。カトマンズとバンコックの両方に家があり26年も住んでいました。アジアの手紡ぎ、手織り布に魅せられて棲みついてしまったのです。
肺ガンのように胸水が溜まり、呼吸が苦しくなります。日本で治療を受ける決心をします。苦しい呼吸です。足を引きずるようにして成田へ帰ってきました。今年の1月から3月まで東京の大きな病院で腺ガンと診断され抗癌剤の治療を受けました。抗癌剤の治療は副作用がひどく、過酷な治療です。
しかし抗癌剤は効き目があります。ガンがほとんど無くなります。兎に角、飛行機でカトマンズとバンコックへ再び旅立つことが出来るくらい回復しました。あちらでの生活に幕を引くために成田を出たのは3月8日でした。バンコックに一週間居て自宅の整理をします。そして15日にカトマンズへ飛びます。
カトマンズでは15年間住んでいた部屋の大家さん一家が温かく迎えてくれます。一週間の滞在中、食事の世話をすべてしてくれました。抗癌剤で体力の衰えた彼には自炊をする気力がありません。カトマンズの町々を、もう二度と見ることも無いと思い、懐かしみながら散策して日を過ごします。惜別の散歩です。15年間、印象深かった瞬間の風景が脳裏に浮かんでは消えて行きます。上の写真を撮ったときのことも思い出したに違いありません。大家さん一家も主人がガンで亡くなり息子が肝炎になり薬代で火の車です。しかし何時も笑顔の絶えない一家です。
カトマンズの生活に幕を引き、バンコックへ2、3日前に帰ってきますた。
ひかるのさんは独身ですが息子が一人います。ストリートチルドレンだった少年を引き取り、育て上げたのです。大人になって働いています。バンコックでは病身の ひかるのさんの世話をあれこれしてくれます。ひかるのさんにとっては唯一人の家族です。その息子とも間もなく別れ、東京へ帰って来ます。し残した抗癌剤治療のためもう一度入院するためです。
カトマンズとバンコックへの惜別の旅については ひかるのさんが詳しく書いて、公表しています。http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season に御座います。彼が心身ともに元気だったころのブログは、http://asiancloth.blog69.fc2.com/ に御座います。合わせてご覧下さい。何故かしみじみとした静かな感動を感じられると思います。
ひかるのさんは現在、体力が衰えていますが、抗癌剤は非常に進歩しています。必ずや全快し、再び元気にバンコックとカトマンズへ旅することが出来ると私は信じています。今日は ひかるのさんの全快を心から祈って終りといたします。(終り)
仙台一高のある地元の仙台には、六光会西北会と云うのがあり、AZ君を親玉に据え、2ヶ月に1回ほど酒を飲んだり、ゴルフ、マージャンをやっているそうです。昨日の日比谷公園の松本楼での東京六高会の会合の様子を書いた記事をプリントアウトして、次回の仙台での六光会の27日の例会で参加者に配布してくれるという連絡を頂きました。
このようにブログのお陰で昔の高校の卒業生の連絡がし易くなりました。ブログの効用の一つの例としてご紹介いたします。ご参考になれば嬉しく思います。(終り)
写真はハワイ・ビショップ・ミュージアム:Bishop Museum(ハワイ王朝の歴史・文化、およびイギリス、ポルトガルから受けた文化的影響の足跡等の貴重な資料が展示されており、一見の価値あり。観光で行かれる方たちの宿泊しているワイキキ周辺からは、やや遠くにありますが、アラモアナ ショッピング センターから「THE BUS」で行くことができます。 *クリスマスを除き無休。9:00~17:00時開館。1525 Bemice St. / TEL.847-3511:もえじいより、:写真と文章の出典:http://tetsubu6.blog38.fc2.com/blog-entry-2.html )
昨日の高校の同期会でトウルチャンという昔の友達に会いました。彼は昔から才気煥発でした。通学路の途中に彼の家があったので、帰りによく寄って遊んだ友です。とにかく会話が面白くいつも笑い通しです。ここ数年同期会で毎年会います。昔と全然変わっていなく面白い話が立て続けに出て来ます。同窓会のゴルフ同好会を主宰していてあちこちのゴルフ場へ行くそうです。ここにご紹介した写真はハワイにゴルフへ行った時に撮ったビショップ博物館の写真です。彼のブログから転載させて頂きました。有難うございます。
ハワイの青空の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終り)
年をとって引退する頃になると同窓会や同期会という名前の会合がよく開催されるようになります。同じ小学校、中学校、高等学校、大学を同じ年に卒業した同期会や同じクラスだった人々が集まってお酒を飲みながらワイワイ話をする会です。皆高齢なので夜ではなく午後1時くらいからします。
そのような会は嫌いだという人々も多いのか出席率は高くはありません。全国へちりぢりに住んでいるので遠路行くほどのことも無いと思う人も多いのです。それに学校時代の親しい友人とは個人的に別なお付き合いをしているので同期会やクラス会へは出ませんという人も居ます。顔もお互いに知らない同学年の人々の集まる会は楽しく無いと、出ない人もいます。私もそんな色々な理由で仙台一高の東京での同期会へはあまり出たことがありませんでした。同じ学年だった360人程の卒業生の関東地方在住者が中心になって毎年40人ほどが集まります。
昨日、日比谷公園の中にある松本楼で仙台一高の同学年の会合がありました。1954年の卒業ですから56年目の会合です。26年前から毎年開催していたそうです。ここ数年、3、4回程だけ出席しました。あまり情熱的に出席したわけではありませんでしたが、それなりに楽しい会でした。
しかし同期会を大変楽しむ方法を発見しました。それは大勢の人に話しかけて、相手の記憶を引き出す方法です。すると自分の記憶の糸と繋がります。それを立体的に組み合わせて行くと当時の高校生活の楽しかった事だけの風景が活き活きと蘇ってきます。楽しくないことは誰でも忘れてしまっています。
胸の名札を見て、「@@君、わたしを覚えているかい?」と聞いていけません。自分の胸に付けている名札を相手に見せて「漢文を教えてたナデコは熱心に教えていたね?」とか「ドイツ語は、der,des,dem,den の定冠詞の変化を暗記させられたけど憶えているかい?」とか、当時だれもが印象深かった事がらについて話しかけます。そうすると相手は急に火が付いたように色々な記憶を呼び戻してくれます。
そして「そういえば藤山君のことも思い出したよ」と当時の私の様子を話してくれます。私自身が忘れていたことを教えてくれるのです。このように顔もうろ覚えの同期生へ話しかけて、相手の話を聞くのです。その様子をそばで見ていたB君が私を静かな椅子に引っ張って行って、「君とは同じ小学校で1年間だけ一緒だったよ。そして同級生の家へ、戦死したお父さんのお葬式に一緒に行ったよ。覚えているかい?」それが全然記憶にありません。覚えていないと言うと、終戦直前の葬式の様子や私がお経に退屈してモゾモゾしていた様子を話してくれました。
体の大きな一見して芸能界の仕事をしてきたような禿げ頭の男がいました。胸の名札で昔の大人しそうな姿を思い出しました。あまりにも違ってしまった風采なのでチョット仕事のことを聞きました。映画やテレビドラマのプロデューサーをしたこともあるそうです。なにやら大きな映画会社の重役までしたということは別の出席者から聞きました。会社、銀行に勤めていた人、絵描きになった人、自営業の人などさまざまです。
出席者は遠くからも来ました。沖縄からのO君は毎回、古い焼酎持参で出席です。来年の幹事3名が決まって散会です。来年は隅田川の屋形船でするかもという提案もあり楽しみです。
同期会、クラス会、同窓会を徹底的に楽しむ方法の鉄則は、「話しかけて、相手の話を聞き出す」ということです。そうすると自分の昔の姿やそれを取り囲む風景が活き活きと再現されるのです。
今日は皆様も同期会やクラス会を大いに楽しまれますようにお祈り申し上げます。藤山杜人
昭和は遠くなりました。昭和29年卒業の県立仙台一高の同窓会が日比谷公園内の松本楼でありました。卒業以来茫々、56年、紅顔の少年たちも白髪の老人です。当時の先生や同窓生のうろ覚えの記憶をお互いに繋ぎ合わせて少年のころの日々を鮮明に描いて楽しみました。最近のことはすぐ忘れるのに何故か昔の事は良く覚えていることに吃驚しました。
昔の小学校、中学校、高校、大学と現在の学校のあまりにもの違いに感慨を覚えました。その事は「旧制の学校と新制学校の違い」という題目で、いつかきちんとした記事として掲載したいと思います。それにしても世の移り変わりの早さに驚く老境の日々です。松本楼は孫文を尊敬する日本人や中国人にとっては特別な店です。創始者が孫文へ2兆円もの支援をしたのです。(終り)
アメリカでひどく感動したことはチャレンジすると周りの人々や社会が応援したり、経済的に支援したりする事です。このことは日本の社会と本質的に違うと思います。このような社会なので世界一の国になれるのだと信じています。
アメリカ社会では昔から機会均等、チャレンジすればチャンスはいつでも有る。周りの他人が本気で応援します。昔からのコネや人脈を使うのは卑怯なことだと忌み嫌れます。そんな素晴らしい社会なのです。アメリカ社会にも暗部はいくらでもありまする。でも、以下のような体験は、現在の日本の若者にも参考になるに違いないと信じています。
熱心に研究するから引き受けて下さいという手紙をセント・ピエール先生に送りました。すぐにOKという返事が来て、1960年、オハイオ州立大学のセント・ピエール教授のところへ行くことになった。 お金が無いから高等教育が受けられないというのが日本の実情。太平洋の向こうでは自分で自分を売り込めば、学費と生活費は大学側でだしてくれる社会なのです。
◆人脈やコネを使わないで月給と研究費は自分でチャレンジして稼ぐ
後にこのセント・ピエール教授がオハイオの材料科学の学科主任になった。1988年に客員教授として呼んでくれた。着任した最初の日に主任が言う。
「一年間、月給は10ケ月だけ出します。2ケ月は休むなり働くなり自由にしてください。最初の一年の研究費は学科で出します。しかし二年目からは自分の月給と研究費は外部の会社や軍隊の研究所から貰って来てください」「先生、そんなことは無理です。アメリカでは人脈も無いので一年以内に外部から研究費など持って来られません」。
セント・ピエール教授の目が静かな怒りでキラリと光り、筆者の顔を見つめながら言う。
「古い人間的なつながりを利用して経済的な利益を得ようとしてはいけない。その考えが社会を腐敗させるのです。研究費を貰うには人脈やコネを使ってはいけません。将来の研究計画をきちんと書いて先方に送り、会う約束を取り付けて自分の研究がなぜ先方の役に立つか明瞭に説明して研究費を貰いなさい。」「手紙を送る相手の名前も住所も知らないし、昔の友人に頼んでもいけないのですか?」
「君の研究内容に興味を持ちそうな人の名前と住所はあとで沢山教えるよ。しかし友人を使うのは止めなさい。自分の経済的利益の為に友人を使えばアメリカでは友人がいなくなりますよ」「人脈やコネが重要な国は良くないとおっしゃるのですね?」「いや、そのような文化の国も尊重します。でもアメリカは違うのです。いつも新鮮でダイナミックな社会を維持するにはアメリカでは人脈を排除しているだけなのです」
◆日本での就職・転職先の探し方の変化に見る社会の変化
就職・転職先はどのようにして探すか?人生の一大事。
その方法がその国の文化の性質を浮き彫りにしている。両親や学校の先生に頼る。人脈やコネを使う。それが望ましい方法であると周りの人が言う。社会からも歓迎される。昔の日本はそうだったのです。
第2次大戦後のしばらくは人脈やコネの重要さが戦前とあまり違わない。第2次大戦後、日本で軍隊は無くなったが、人間関係はあまり変わらなかった。
社会の変革をしないで、工業技術のみ追いつき追い越せ。こんな風潮でした。
しかし1990年前後のバブル経済の崩壊によってこんな日本の社会も変り出したのです。特にインターネットの普及が社会の変質を加速すたのです。就職情報、転職情報がインターネットで隆盛を極め、その勢いは人脈やコネという言葉を廃語にしてしまいました。
ある人々は非常に淋しい思いでそんな変化を嘆いています。しかし、社会の公平性の前進という視点でみれば良いことではないだろうか?そして何よりもチャレンジする人々を支援する社会になれば日本人の独創性も伸び、経済不況も消えて無くなるのです。
就職・転職の仕方が変わったから日本の伝統文化も無くなるという議論は浅薄すぎると思う。
日本の社会の倫理性が向上したと理解すれば幸せになる。(続く)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
このブログではキリスト教の話題を時々取り上げます。しかし一度も信者になったほうが良いですと勧誘したことはありません。信仰の道は他人に勧められて入るものではないと思っているからです。昔の友人の多くは私が中年になってからカトリックの洗礼を受けたことを知りません。久しぶりに会ってビールなどを一緒に飲むとキリスト教の悪口を言う人が時々います。
「クリスチャンは猫なで声で親切そうに話す偽善者ばかりなので大嫌いです。第一、ヨーロッパの連中は宗教が原因で殺し合ったり、戦争をして来たではありませんか?宗教は人間へ害毒を流します。無宗教が一番良いのです!」ーーーまあ、このような論旨です。納得しますとあいづちを打ち、反論をしません。しかし偽善者のクリスチャンにしか会ったことのない友人の不運へ深い同情を覚えます。
”ヨーロッパの連中は宗教が原因で殺し合ってきた”という話も歴史的な事実です。反論の余地はありません。昔の友人は私へ宗教が原因で他人と争ってはいけませんと忠告してくれているのです。とても有難い話として静かに聞くべきで、声を大きくして反論をするのは愚かなことです。
日本人の多くは無宗教が良いとよく言います。それは一つの考えであり尊重すべきことと思っています。しかし時々、キリスト教のことを勉強したいので適当な本を数冊教えて下さいという依頼を受けます。あるいはチョット教会へ行ってみたいのですが何処が良いでしょうかとも聞かれることがあります。本のほうは簡単に答えられます。文庫本の「教養としてのキリスト教」とか「聖書入門書」とかを3冊ぐらい上げます。それから遠藤周作の本を2、3冊教えます。「沈黙」という小説は少し難しい内容なので後で教えます。
何処の教会へ行けば良いのですか?この質問は難問です。しかし一般論的には次の段階を経てキリスト教へ近づくと自然な気持ちで入ることが出来ると思います。
(1)自宅から便利に行ける所の、なるべく大きな教会の日曜日のミサや礼拝に試験的に出て見る。例えば東京のJR中央線沿線にお住まいの方なら四谷駅前の上智大学の入り口にある聖イグナチオ教会へ行く。あるいはお茶の水駅のそばの日本正教会のニコライ堂へ行きます。大きな教会は人数も多いので初めての人々も多く、不審がられないからです。そして急にいろいろ干渉されない自由さが有難いのです。
(2)その大きな教会の掲示板を見て、「聖書の勉強会」の日時を調べ、毎週、1、2回出席してみます。大体、神父様や牧師様が教えてくれますが、運が良ければ素晴らしい指導者に巡り合えます。そしたら何回も勉強会へ出て、「いずれ洗礼を受けたいのですが」と相談をします。
(3)その相談のあとは指導者も本気でいろいろな話をしてくれます。そんな期間が数カ月過ぎたら洗礼を受けるか、延期して一休みするかを気軽に考えるのです。無理は一番いけません。気軽に考えてイエス様に呼ばれていると思ったら洗礼を受ければ良いし、まだ呼ばれていなければ延期するだけです。その時、洗礼をせっつくような指導者なら止めた方が良いのです。
(4)さて洗礼について日本人は抵抗感を持つのが普通です。一千年以上にわたって日本は仏教国だったので洗礼へ抵抗感を持つのが当たり前です。それを感じないようでしたなら日本人として育っていなかったのでしょう。さてこの抵抗感の解決方法はあるのでしょうか?
(5)簡単です。従来通りお寺へ行って墓参りもする。神社では家内安全の御祈りもする。神式でも佛式でもお葬式へは義理堅く参列することに決めれば良いのです。そんな事をしたら破門だという教会があったらこちらからご縁を切れば良いだけの話しです。この辺を日本人は誤解をしていて、クリスチャンになったら先祖代々の墓参りも出来なくなると狭量に考えている人がいます。家族や親類に不快感を与えるような愚か者をイエス様が喜ばれる筈が無いのです。
(6)キリスト教のある宗派で洗礼を受けたら他の宗派に変わることが出来ますか?これも簡単です。たとえばプロテスタントからカトリックへ、またその逆もできます。このブログで昨年11月に何回かの記事でご紹介した日本正教会のニコライ堂の伝教師の金田一豊さんはカトリックの聖職者から正教会へ変わった方です。その理由も11月のこのブログの記事でご紹介いたしました。
(7)洗礼をうけたが数年して教会へ行くのを止めてしまったのですが、それで良いでしょうか?こういう場合はそのまま自然にしていれば良いのです。イエス様が呼びもどしてくれるのを待っていれば良いのです。信仰を持てば、「完全な自由な境地」に入ることが出来るかもしれません。
(8)信者は聖書に書いてあることを皆本当のこととして信じているのでしょうか?答えは簡単です。疑う時があります。四六時中信じている訳ではありません。しかし確信を持って信じることの出来る瞬間があるのです。それが信者というものです。
以上は思いつくままに書いたものです。ご参考になれば嬉しくおもいます。下の挿絵の写真の白鳥の一家のように思い煩わないで全てを神様にまかせてしまえば楽になります。(終り)
ここでマザー・テレサのインド政府による国葬の様子を書くのはある目的があるからです。外国人の人情や考え方を本気で理解しようとしない日本の政治家の考えを早急に変えて貰いたいからです。そうしないと日本の国益が害されるからです。
マザー・テレサはインドの路上で孤独に死にそうな人を家に連れて来て温かく世話をして、見送ってあげたのです。その事を根気よく何十年も続けたのです。はじめは余計なことをすると感じていたインド人もやがて感動し、マザー・テレサを支援するようになったのです。
そして日本人は以下のことを忘れない方が良いと思います。
(1)ヒンズー教のインド人がキリスト教徒のマザー・テレサをインド人の誇りとして国葬にしたこと。
(2)マザー・テレサの行為は7つの宗教の壁を打ち壊すほど、宗教界へ大きな影響を与えたのです。宗教の対立が戦争を起こさせてきた歴史を振り返る時、マザー・テレサは偉大な変革を起こしたと思います。
(3)このマザー・テレサのインド政府による国葬のように世界的に重要な行事へ日本政府の代表が見えないのは残念です。日本の政治家が外国人の人情を理解できない偏狭さを早く直して貰いたいと思います。そうしないと外交上、日本の国益を害する事態が起きる可能性があるのです。
======マザー・テレサの国葬の様子=======
マザー・テレサは1910年にバルカン半島のマケドニアの首都、スコピエで生まれ、1997年9月6日にインド、カルカッタで亡くなりました。満87歳でした。亡くなる前の日まで元気に働いていたのです。葬儀は遺言通り質素に行う予定でしたが、弔問客があまりにも多いので遺骸を聖トマス教会へ移し、記帳を受け付けました。ヒンズー教徒の弔問者が長蛇の列をつくり、記帳を終えるのに6時間もかかったそうです。ただちにインド政府は国葬にすることを決定し、9月13日にマザー・テレサの遺骸は、インド独立の父マハトマ・ガンジーやネール初代首相の国葬で使われた砲車に乗せられ、5キロ離れた室内競技場へ向かったのです。その様子はBBCやCNNテレビによって世界中へ生中継されました。沿道には100万人のヒンズー教徒のインド人がマザー・テレサとの最後の別れを惜しんだのです。
国葬はカトリックの告別ミサとしてヨハネ・パウロ2世から派遣された枢機卿の司式で開始されます。参列者はインドの大統領をはじめ各国の大統領夫人や首相夫人など15000人でした。ヨハネ・パウロ2世のメッセージが代読され、その後の献花は、ヒンズー教、イスラム教、佛教など7つの宗教の代表者が行いました。その後で各国の元首、大統領などが行い、最後にインドの大統領が献花しました。閉会のあいさつはカルカッタ大司教がしました。「マザーへ感謝します。そしてマザーを生んだ貧しい人々に感謝します」と涙で声を詰まらせたのです。マザーが貧しい人々へ奉仕するなかで、マザー自身が目覚めていき、ますますイエスの愛を実感し、イエスの教えを確信するようになったのです。
(以上の国葬の様子は神渡良平著「マザー・テレサへの旅路」サンマーク文庫2001年初版の、p281からp291を参考にしました。記して神渡良平さんへ深い感謝の意を表します。)
==========日本へ来た時のマザーの写真======
マザーが、長崎・聖母の騎士修道院を訪問した時の写真。出典は、
http://www.seibonokishi-sha.or.jp/in20.htm です。
1982年(昭和57年)4月26日、マザー・テレサは2度目の来日で長崎を訪れ、聖母の騎士修道院をご訪問なさいました。前年に長崎を訪問したヨハネ・パウロ2世に勧められ、マザーの強い希望が叶えられての長崎訪問となりました。長崎訪問では爆心地で平和の祈りを捧げ、「母と子の大集会」、「修道女との集い」に出席しました。また三ツ山町の恵の丘老人ホームを訪問し、大歓迎を受け、恵の丘の純心聖母会に宿泊しました。27日に長崎をあとにし、翌日に大阪からカルカッタへと帰途につきました
今日はお彼岸です。家内の3人姉妹と義兄、義弟で日野のお寺へお墓参りをし、国立の「シャルルマーニュ」で美味しいフランス料理の会食をしました。その後で駅の南口にある義弟の「孤董館」に寄り、古伊万里や柿右衛門などなどをゆっくり鑑賞してきました。やはり本物に触れると心が豊かになります。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。品物の説明は孤董館のホームページに御座います。HPのURLは、http://www.kotoukan.com/index.html です。(終り)
美の滴(しずく)~三輪 修 展
会期2010年4月6日(火)~15日(木) 会期中無休
開廊時間 平日10時~19時 土/日11時~18時
会場 名古屋日動画廊 名古屋市中区栄2-2-1
入場 無料
交通案内 地下鉄・伏見駅 4番出口 徒歩1分
名古屋日動画廊
http://www.meiten-net.com/syousai.php?key=1021
油彩画100号~小品 35~40点・展示予定
今回は5.2x10.2cmという手のひらほどの作品を20余点 展示します 。ミニアチュールの凝縮された世界をお楽しみください。
個展で画廊に在廊する日時
6日・7日・9日・10日・12日・14日・15日
午前11時~午後5時頃迄
8日・13日は午後2時~5時迄
11日(日)は今のところ未定です
在廊日程は変動することがあるかも知れません。
、「ドナウの四季」第6号(2010年4月刊)掲載の書評
新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。詩篇96:1-2 (2010年2月1日)
頌 主
新年もどうぞよろしくお願い申し上げます。新年にふさわしい、立派な御著書『ポスト社会主義の政治経済学』をお贈りいただき、恐縮し、感謝いたしました。新年のフレッシュな気持ちで、じっくり拝読させていただき、1月末に読了いたしました。
今回も驚嘆しつつ読んだことの一つは、著者の語学力です。いろいろな場面での論争、提言等々、御地ではまったく御地の方々と対等に処しておられるという、そのことです。本当に敬意を表します。
そして、内容的な面での、多面的でキメの細かい分析力です。例えば、経済システム、政治システム、社会分析、イデオロギーと、いろいろな角度からアプローチがあり、全体として読者が立体的にイメージをもつことができるように論じられています。
読了して強く心に残り、納得しているのは、ソ連などでやってきた「計画経済」なるものが、実は「計画経済」とは全く異なり、ただの政治権力による配分だったという点です。本当に「計画経済」というものが、実際にあり得るのか。この問題は大変だなと考えさせられました。
さらに、戦後のハンガリーの政治・社会構造が、自分の想像以上に複雑で困難な内容のものであったということです。大戦中のモスクワへの亡命者たちとそうでない人々との複雑な関係が、日本の左翼にもあったのは知っていましたが、ハンガリーでは政権党になっていただけにいろいろあったんだ、ということを詳しく知りました。
また、ハンガリー事件とチェコ事件の際も強く印象に残りました。56年と68年とで、ほとんど「同じ情況」かと何となく思っていたのです。ポーランド、チェコは行ったことが何度かあるのですが、それ以外の「東欧」は実はほとんど行ってないのです。ハンガリーも含めて。
さらに、日本の「靖国」問題がときどき言及されている(103頁)のも関心をもちました。「靖国国営化」に反対する小さな市民運動に、もう40年以上かかわっているものですから。
最後の方で、塩原君も出てきて、あれーと思いました(202頁)。私も彼とはじめて会ったのは「朝日新聞」のモスクワ支局だったのです。彼もよく仕事をしますね。明治学院の国際平和研究所の『PRIME』誌の今度の号(第31号)に、彼のロシア軍事を論じたものの私の書評がでます。その号には、「敗戦50年」の明治学院の戦争責任告白のことをめぐる座談会も載る予定です。第30号の抜刷りと、小さい詩誌(家内が詩人で、新しい同人誌をだしはじめたので、私は詩人ではないが、応援で加わりました)を、御礼として同封させていただきます。
いっそうの御活躍を!! くれぐれもお元気で。
中山 弘正 (なかやまひろまさ、明治学院大学名誉教授、元明治学院長)
幕末の浮世絵師、歌川国芳の230点に及ぶ一大絵画展が府中市美術館で開催されています。3月20日から5月9日までです。
浮世絵といえば美人画、役者絵、武者絵、風景画というふうに限られてきましたが、国芳の絵画は美人画、役者絵、武者絵は勿論ですが、他に江戸の風物、子供の遊ぶ姿、ペットとしての猫の色々、奇想天外な妖怪の絵、隅田川のウナギ取り漁師の絵、そして開港された横浜の風景などと絵画のテーマが幅広いのです。見てまわるだけでその独創性と美しい構図に魅了されてしまいます。
江戸時代の人々の生活が身近に感じられます。家内と一緒に両国橋や佃島近辺の江戸の町をゆっくり散歩して来たような気分になりました。町々には子供たちがいろいろな遊びをしていて賑やかです。
版画や肉筆画をある個人が蒐集したものを分かり易く分類展示してあります。その上、学芸員によるスライドを使った解説講話がありまして大変楽しかったです。
府中市立美術館までの交通はhttp://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/に出ています。撮影禁止なのでパンフレットの写真を示します。是非ご覧頂いて、お楽しみ下さい。(終り)