後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人が失った貴重な財産(1)エリートとしての自己犠牲の精神と会社への忠誠心

2010年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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今回から新しい随筆シリーズを2つ同時に始めようと思っています。「日本人が失った貴重な財産」と、「日本人が持った貴重な財産」という2つの主題を持った随筆シリーズです。失うものがあれば得るものがあるというのがこの世の原理原則です。悲しむべき事が起きれば必ず喜ぶべき事が起きるのです。

今回は、失った貴重な財産(1)として、崇高な自己犠牲の精神と会社への忠誠心の消滅を取り上げます。1990年の頃のバブル経済の崩壊以来、急速に消えて行きました。

一昨夜、大学の金属工学科を昭和33年に一緒に卒業した30名の同級会が奥湯河原でありました。52年間、2、3年おきに続いた同級会です。熱海、湯河原、箱根、松島、秋保温泉、作並温泉などで開催して来ました。何故52年も続いたのでしょうか?

理由はいろいろでしょうが、重要なものとして「自己犠牲の精神」と「会社への忠誠心」があったと思います。会社への忠誠心は「金属工業への忠誠心」という意味も強いのです。

専門職にある者の崇高な精神は、その専門教育と会社での専門職の人事管理体制によって支えられてきました。

私達、74.75、76歳の男性は旧制の小学校に入学し、新制の中学、高校、大学を卒業しました。しかし高校はいずれも旧制の中学校が名前を変えただけで先生は旧制のままでした。大学も元の帝国大学が新制の大学になったもので教授も助教授も旧帝国大学で育ち、勅令で任命されたいわゆる勅任官です。

特に仙台の大学の金属工学科は、磁石の発明で世界的に有名な本田光太郎博士が作った研究所が隣にありました。講義のたびに、「君達はエリートなのだ。誇りをもった優秀な技師として金属工業へ一生を捧げなさい」と何度も言われました。説教だけでなく大学の研究室の実験設備は素晴らしいものでした。戦後の物資の無い時代に育った我々は実験装置の立派さに感激しました。その上、研究室に1人1人与えられた机の立派さに驚いたものです。教授達も我々を一人の紳士として扱い、決して乱暴な言葉を使いませんでした。卒業後は大手5社の鉄鋼会社、三菱、住友、石川島などの重工業会社、軽金属の会社、トヨタやニッサンの自働車のエンジン製作工場、などの技師として就職して行きました。伊藤忠などの鉄鋼貿易部門に就職した人もいました。(30名の卒業の中で私だけが大学に残りましが)。

これらの大会社では旧帝国大学卒の技師は他の大学の卒業生とは区別して、特別な人事管理をしていました。勿論、大学による差別は次第に弱くなってはいきましたが、しかしその精神文化は大会社には1990年頃まで色濃く残っていたのです。大学卒の差別的な人事管理の裏返しとして会社側はこれらの人へ会社への忠誠心を強く要求しました。技師の徹夜の現場勤務と転勤辞令への絶対服従などがその一例です。

この技師としての自己犠牲の精神と会社への忠誠心が1990年頃を境にして急速に消滅してしまったのです。

1990年以来、日本は10年以上も経済不況に陥ります。政府や官僚組織が不況脱却のためにあらゆる政策や施策を推進しましたが、全然効果がありませんでした。精神が壊れるとどんな景気対策も無力なのです。

「エリートとしての自己犠牲の精神」の消滅。そして、「会社や組織へ対する忠誠心」の消滅。これこそが日本人が失った大きな財産です。しかしそのお陰で素晴らしい財産を手に入れることになったのです。続編に書きます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


海の碧さと真鶴半島の原生林の緑をお楽しみ下さい

2010年05月26日 | 写真

昨日は晴天で海が紺青色に輝いていました。湯河原へ行く途中に、あちこちに寄って遊びながら行きました。真鶴半島の原生林は特に好きで長い間、何度も訪問しました。昨日は2年ぶりに行きましたが原生林は相変わらず緑豊かに茂っていました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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奥湯河原温泉での大学の同級会へ行ってきました・・・卒業後、茫々52年

2010年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

仙台にある大学の金属工学科を1958年に31名一緒に卒業しました。日本の高度成長を支えた技術者です。3名亡くなって28名が健在で、昨夜は13名が集まりました。座敷にお膳を13並べ、ビール、ウイスキー、日本酒、焼酎と夫々好みのものを心ゆくまで飲みました。10時30分には全員寝ました。52年前の学生時代の話が中心でした。それと自分の病気、奥さんの看病などが話にでました。皆奥さんを大切にしている様子が言葉のはしはしに出て居ました。そこでお土産に名物のキビモチを買うことになりました。今日の帰りがけに、湯河原で大正時代に初めてキビモチを作った元祖小梅堂に寄り、それぞれお土産を買いました。座敷に13名の白髪の老人が座って宴会をしている写真を示したいのですが公開の許可を貰って来ませんでした。その代わりに小梅堂の写真と、会場の大滝ホテルの写真とすぐ傍にある不動の滝の写真と部屋の窓から見えた新緑の写真をお送りします。

尚、大滝ホテルは料金の割には料理に誠意がこもっていました。その上、源泉から噴出するお湯の質が良く、噴出量も大量で実に豊かな「かけ流し」でした。露天風呂もあり、久しぶりに温泉らしい本物に出会えました。お薦め出来る宿です。

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ブログで知り合ったHootaさんの素晴らしさと、駿河湾での豪快なセイリング

2010年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを書いていると素晴らしい人と会うチャンスが増えます。ブログで知り合ったプロの画家や陶芸家の個展を見に行って、親しくお話を聞いて来ることも出来ます。

今日は、ブログを通じて親しくなったHootaさんをご紹介します。東京ベイヨットクラブの専属ヨット指導者です。ブログの上でヨットの技術や緊急事態の対応方法を教えて貰いました。あまり親切な方なので感激し料理とビールを持って会いに行きました。千葉県の内房総にある保田漁港に彼の大型ヨット、ハンスクリスチャン43、Bambino号が係留してあるのです。一夕、そのキャビンでビールを一緒に飲みました。昨年の4月の事です。

その後の昨年5月2日には沼津沖の駿河湾でセイリング体験をさせて頂きました。Hoota船長指揮のもと、女性2名を含めた総勢6人で4時間程、烈風の中を豪快なセイリングを楽しんで来ました。HootaさんはHoota's Yacht Life というブログ、http://hoota.blog.so-net.ne.jp/ を書き続けています。ヨット技術の参考情報が満載の上、楽しいセイリングの写真が沢山載っています。

その折の写真をお送りします。爽快な海風を想像しながら写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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日本人のこういう考え方がとても変と思います!

2010年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカでは普通のホームセンターのような店で猟銃を売っています。ピストルも売っている銃砲店もあります。身分証明書を示すと簡単な手続きで誰でも気軽に購入出来ます。

銃の乱射事件やピストルを用いた事件が起きる度に、厳密な銃規制をすべきだという識者の意見が、何度も日本のマスコミに出てきます。これは日本人の特異な考え方でアメリカ人には到底理解されません。

銃を用いた犯罪は銃そのものに罪はなくそれを用いた人間がいけないのです。ですから人間は処罰しますが、銃を民間から取り上げることは絶対にしません。自分の身の安全は自分で銃を用いて守べきだ。これがアメリカの個人的な権利なのです。警官だけ銃を持っていたとして、悪徳警官が襲って来るかも知れないのです。その時は自分の銃で自分を守る用意をしておくのです。したがて居酒屋やコンビニのカウンターの下の引き出しにはピストルが置いてあるのです。

このような日本人の思考原理の延長にあるのが非武装論なのです。戦争は嫌だ。武器があるから戦争があるのだ。軍隊を持たなければ戦争が起きない。どんな場合でも武器は手に取らない。そうすれな平和な日本が続く。これが日本人の心の底にある本音なのです。

この思考方法だと強大な武装をして戦争を防止するという発想が出て来ません。ですから日本人は米軍基地を数多く置いて日本人の安全をアメリカ軍に守って貰う事が好きなのです。

このような思考は欧米人から見ると全く賛成されません。賛成されないどころか日本人は卑怯な民族だと軽蔑されるだけです。

1945年から1990年までの45年間、ソ連とアメリカは激しい冷戦を続行して来ました。しかし熱い戦争は起きなかったのです。アメリカの強大な武装がソ連を圧倒し、ついにソ連が降伏し、共産党独裁国家を止めてしまったのです。強力な武装こそが戦争を回避し、平和を守ったのです。この20世紀最大の事件は一見、ソ連の降伏ですが、見方を変えるとソ連人の理性の勝利です。輝かしい人間の理性が勝ったのです。それを勇気をもって実行したのがゴルバチョフさんです。彼がノーベル平和賞を貰ったのは当然です。

このような事実を正視しないで、何時までもアメリカの軍事力だけに頼っている日本が情けないと思いませんか?皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


熊笹の広がる平林寺の雑木林の写真をお楽しみ下さい

2010年05月25日 | 写真

先日、平林寺を散策していましたら一面に熊笹の広がっている雑木林がありました。南アルプスの甲斐駒に登ったとき中腹にそのような所があったのを思い出しました。熊笹は葉の周りが白くなっていて美しいと思います。好きな植物の一つです。熊笹のお好きな方へ3枚の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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階級社会のイギリスへ帰化した日本人家族が体験した差別と区別

2010年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

現在は辞めてしまいましたが、以前、趣味人倶楽部に英香さんという方が居ました。日本人のご主人がロンドンで事業を起こし、奥さんの英香さんともどもすぐにイギリスに帰化し、イギリス人になりました。そして一人娘を出産し、イギリスで教育を受け、イギリス人になりました。

その英香さんは才媛で明快な文章を何度も趣味人倶楽部で発表していました。倶楽部を止める前にお願いして幾つかの文章をこのブログで掲載させて頂きました。

今回の記事はその最後の転載です。転載を許可してくれた英香さんに感謝して、ご一家のご健康と平和をお祈り致します。

======英香さんの日記より=============

私が英国に住んでいると知ると、心配そうな顔をして「人種差別はありませんか?」と聞かれる事がよくある。

現在も階級社会が存在し、この地球上で最もそういう空気を漂わせている国であったから、英国に住むと決まった時、私も多少なりともその事は脳裏をかすめた。実際英国に住んでみると「差別された!」と嘆く人も少なからず居る。

ただこれは、英国のどの地域で、どのような立場で、そして何人として住んでいるかによっても、感想は大きく違ってくるような気がする。だから、あくまで日本人の私の立場で・・・としか答えようはないのだが・・・『人種のるつぼ』と言われるロンドンの街で、旅行者の立場で訪れた日本人が、差別を意識する場面に遭遇する事はまず無い。限られた期間駐在員の立場で暮らした時も『個人的な』被害は無かったような気がする。ただ、永住者として英国の地に深く根を下ろした時、それまで見えなかったものが見えて来る事はあった。

地元密着型の商店で、明らかに自分より後から来た英国人客を優先したなどと言う事は、良く耳にする些細な事例であるが、車の接触事故を起こされた被害者である友人が、裁判になった途端、目撃者の英国人が証言を翻して加害者の英国人の肩を持った為、被害者の友人が有罪の判決を受けた等と言う話になると、笑い事では済まされない。
特に私が英国に住み始めた頃は、実は凄まじい『ジャパン・バッシング』の時期と重なった。

TVを点けると夜のゴールデン・アワーの時間帯に戦争映画が放映される事が多く、日本兵が残虐な殺戮を繰り返す場面が殊更強調されるような映像が毎日のように流された。日本人の俳優であったら高いギャラを積まれてもやりたくない様な日本兵の役所は、どう見ても中国人そのままの俳優が憎憎しげに日本兵を演じる姿は、むしろ滑稽でもあった。

世界でも超一流と称されるロンドンのボンドストリートの有名店に、スニーカー姿の日本人観光客が団体で押し寄せ、高価なブランド品を買い漁る姿は度々新聞やTVに取り上げられ、酷評されると同時に失笑を買った。

極めつけと言えば、天皇皇后両陛下のロンドンご訪問でのパレードの最中、退役軍人とその遺族達がお馬車が通過するその瞬間、最前列に集団を組み、一斉にお尻を向けて抗議行動に出た事があった。ご訪問決定直後から、日本の戦争責任問題を追及する記事を連日のようにニュースに流していたマスコミ各社は、ここぞとばかりに翌日の新聞一面にデカデカとその瞬間の写真を掲載し、TVは悲しそうに伏目がちにされた両陛下のお顔を繰り返し放映した。
こんな事があった数日間は、さすがの私も、近所の人と顔を合わせないようにコソコソしている自分が情けなかった。

日本人ビジネスマンが、名門ゴルフ場で(コンペ等で)集団で大騒ぎする姿が顰蹙を買い、以降日本人の入会を拒否する倶楽部が続出したなど、こんな事例を挙げ出したらきりが無い程・・・この時期ほど自分が日本人である事を痛感し、恨めしく思った事はなかった。

ただ、こうしたバッシングを受けた為に、ある事実に気がついた。
当初私は『人種差別』と聞くと、白人至上主義の国における有色人種の受ける差別の事しか念頭に無かったが、むしろ日本人固有の行動習慣や、それ以上に、過去の戦争による英国人の心に刻まれた深い傷跡が、その背景にある事を知った。折りしも、日本がお金にものを言わせて世界中を買い叩いていた時期でもあったから、尚更、出る杭が打たれた事も事実であった。

それが証拠に、今はそのような『ジャパン・バッシング』の陰も形もないし、殊更日本人をターゲットにしたマスコミの記事も報道もない。もはや日本は、叩くに値しない程の国力に成り下がったのかも知れない。英国人は妥協を知らない国民である。

あくまで持論を主張するが、一旦納得すれば尾を引かない、誇り高き大人の集団でもある。

英国での子育ての過程で、子供が学校側から差別を受けた事は全く無かったし、むしろ理数系に強い日本人の子供達は、英語も出来ない内から英雄扱いされ、先生達は人種にかかわらずその子達の能力を更に伸ばす努力を惜しまなかった。

娘が、その時々で最高峰の教育のチャンスを与えられたのも、そんな教師達の並々ならぬ指導のお陰だったと感謝している。

英国は、今では私にとって世界で一番住みやすい国になった。ただ、一つ付け加えなければならない重要な事は、英国には差別はともかく『区別は』間違いなくある・・・という点である。

住む地域や学校、街中の酒場に至るまで、見えない糸に区切られて、しっかりと区別されている事である。「階級社会とは互いに無用な摩擦を避ける為の『差別』ではなく『区別』なんだ・・・」と力説していた英国人の友人の言葉が、深い意味を持っているようで、印象に残った。(終り)


国家の崩壊(5)昭和7年から始まった軍部独裁が敗戦を招く

2010年05月25日 | インポート

日本は明治維新以来、急速に近代国家になる努力をして来ました。急がなければ西欧列強の植民地になる恐れがあったのです。近代国家としてのいろいろな法整備や政治組織や官僚組織が調和して進歩したのではなく、いろいろな分野がバランスを欠いていたのです。例えばシビリアンコントールの欠如が軍部の独走を招きました。そして敗戦後は、その反作用として戦後の日教組の跳梁が可能となったと見るのが自然な理解の仕方ではないでしょうか?

前回の国家の崩壊の記事は、国家の崩壊(4)戦後の日教組の反戦教育が日本人から愛国心を奪ったでした。

敗戦後、ソ連の共産党に結びついた日教組が反戦教育を徹底したお陰で日本人から国家意識も愛国心も消滅し、国家としての大きな弱点を抱えることになったのです。ヨーロッパの資本主義国では小学校、中学校や高校の教育にソ連の影響があったとは寡聞にして聞いたことがありません。

この日本特異の現象は戦前の軍部独走が人々を悲惨のどん底へ落とし入れた事実に深く関係していると考えざるを得ません。

軍部独走は昭和7年の5・15事件に始まり、昭和11年の2・26事件へ続いたのです。中国大陸における関東軍の勝手な侵略戦争がやがて日独伊三国軍事同盟へ発展し、真珠湾攻撃へと続くのです。

しかし昭和20年の敗戦によって明治維新以来、営々として築き上げてきた日本帝国が崩壊したのです。

日本の敗戦は勿論大きな悲劇です。しかしその悲劇は戦後における日教組の勢力拡大という弊害を招き、2重の悲劇となって日本を襲ったのです。その影響は甚大で現在に至るまで尾を引いています。

日本にあるアメリカ軍の基地を将来どのようにすべきかという国家としての基本的な戦略を立てる能力が日本人に無くなってしまったのです。日本がアメリカの隷属国を脱して、独立国家にろうという意思も無いし、その方法も考えていないのです。

私はそろそろ全ての日本人がこの問題を正視して、真剣に取り組み出す時期に来ていると信じています。それは普天間基地を沖縄北部へ移転させることよりも、日本の将来にとってもっと重要な問題だと信じています。

吉備野禅三さんはそのブログ(http://zenmz.exblog.jp )で昭和7年の5月15日に起きた5・15事件を詳しく紹介しています。以下にその冒頭部分だけご紹介いたします。詳しくは吉備野禅三さんのブログをご覧下さい。(続く)

★ 今日は、日本の現代史で特筆されるべき殺人テロ【5/15事件】記念日です。
 77年前の昭和7年(1932)のこの日、国家改造・軍部政権樹立を画策した旧海軍青年将校らが首相官邸を襲撃して犬養毅首相を射殺しました。
★ 実は、犬養首相は岡山のご出身です。その生家は我が家から南へ車で40分、岡山市内西部の庭瀬(にわせ)というところにあり、現在も大切に保管されており、隣接して「犬養木堂記念館」が建っています。
★ 毎年、受難日の今日、「木堂祭」がここで開催されますが、ことしは午後2時から、木堂研究家で倉敷芸術科学大学の時任英人教授が「犬養木堂・健・道子」の演題で記念講演がありますので私も出かけたいと思っております。今の私たちに「5/15事件」の教訓は非常に大切です。
★ この事件は、その後の日本現代史の展開に決定的な役割を演じました。
 翌日、内閣は総辞職し、替わって海軍大将を首班とする”挙国一致”内閣が発足しました。明治維新以後の政党内閣制は崩壊し、日本は軍部が牛耳る軍国主義国家に衣替えしたのです。

=======以下省略。4編のシリーズ記事へ続きます===========


国家を超越したイエスの弟子・・・日露戦争勃発でもロシアへ逃げ帰らなかったニコライの生き方

2010年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

0432 ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。着いた1861年はまだ江戸時代です。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。1861年から51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 今日はこの辺で止めます。(続く)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索するとその生涯の紹介があります。

「山林、杜の人のブログ」の下記のようなニコライに関連する記事があります。
(3)投稿日 2009/11/29 今日は夫婦解散、別々の教会へ行きました (金田さんの写真が出ています!)

ネット社会から消えた人が1年後に復活した話

2010年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

その方は現在80歳、岡山に住んでいて本名は銭本三千年さんといい、筆名を吉備野禅三と言います。ある大新聞の記者をしていました。流石に明快な文章で、日本の戦中、戦後に起きたあらゆる事件を精力的に書いていました。そのブログ、http://zenmz.exblog.jp の内容は日本の現代史として出版し、後世に伝えるべき貴重なものでした。わたしの愛読していたブログの一つでした。

吉備野禅三さんとは自然に交流が進み、私のこのブログでも以下のように何回も記事を掲載してきました。

2008年11月28日、ある方の宗教に対する心の軌跡(1)「軍国少年」だった私の告白

2008/12/04 ある方の宗教に対する心の軌跡(2)以下の告白を真剣に受け止めて下さい

2008/12/11 ある方の宗教に対する心の軌跡(3)本当に天皇陛下を神と信じていました?

2008/12/16 ある方の宗教に対する心の軌跡(4)こうして私はキリスト教を棄てた

2009年6月15日、消え行くネットの友人、そしてかけがえの無い友人達、 2009年9月6日、それでも、何故貴方はキリスト教を信じているのですか?、 2009年11月20日、キリスト教を棄教したブログ上の友人のことを考え続けています

特に、「軍国少年」だった私の告白は本人の書いた文章を何回かに分けて転載させて頂いたものです。その吉備野禅三さんが昨年5月に突然ネット社会から消えていまいました。目の前が暗くなりました。ご病気にでもなられたのかと時々思い出しては心配していました。ところが最近同じブログのアドレスで復活し、毎日健筆をふるい出したのです。その筆の勢いと精緻な考察は依然と寸分も変わりがありません。青年のような活き活きとした感性です。1年間のお休みがウソのようです。

吉備野禅三さんのネット上での益々のご健筆をお祈りいたします。

そして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


国家の崩壊(4)戦後の日教組の反戦教育が日本人から愛国心を奪った

2010年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

日教組は戦後の小学校や中学、高校の教員組織です。共産主義の影響を深く受けた組織でした。学校の教育方針から教員の管理にわたる全てのことに大きな力を発揮して来ました。その教育は反戦という美名のもとに国旗掲揚反対や君が代斉唱拒否などに及び、生徒児童へ国家意識は全て邪悪であるという固定観念を強く植えついけて来たのです。その影響は現在でも強く残っています。

愛国心には良い愛国心と、悪い愛国心があります。武力で他国を侵略して日本を豊かにしようという愛国心は邪悪な愛国心です。一方、日本へ土足で上がって来る敵を武力で追い出すのは良い愛国心です。

日教組の教えはこの両方の愛国心を否定し、完全に排除して来たのです。

国家意識にも良い国家意識と邪悪な国家意識があります。日本に自由と平等が行き渡るように祈りながら上げる日の丸は、良い国家意識の表れです。他国を武力で日本の属国にしようと祈りながら上げる日の丸は邪悪な国家意識なのです。

日教組は愚かにもそのどちらも否定し、排除しました。その結果は大成功です。日本人から愛国心や国家意識が完全に無くなりました。善いもの、良いもの全てを消してしまったのです。

鳩山さんの昨今の挙動を見ていると日教組の忠実な教え子のように見えます。愚かな考えで右往左往しているのです。

さて何故日教組がそのような教え方をしたのでしょうか?それはソ連の共産党の言いなりになって、日本の利益よりソ連の利益になるように運動したからです。ソ連が日本を攻撃してもヒツジのように大人しく言うことを聞く。間違っても武力で反抗しない。そのようにしたのです。そして自衛隊が出撃しても、戦意が低くなるようにしたのです。

ドイツには強大な日教組のようなものはありませんでした。共産主義の東ドイツが隣に存在していたので、共産国の侵略へたいして即刻、武力で追いだす覚悟が必要だったのです。これは韓国でも同様の事情でした。

従ってドイツにも韓国にも米軍基地が存在していましたが基地反対運動は日本のように盛んではありませんでした。皆様は立川基地拡張へ熾烈に反対した「砂川事件」をまだ覚えていると思います。全国各地で同じような基地反対運動が起きたのです。反戦運動や平和運動という心地よい標語を叫んでいましたが、日本の共産主義者がソ連の影響で、ソ連の利益の為に繰り広げた一大運動なのでした。

米軍基地反対運動をすると何故か利益を手に入れる政治団体や一群のグループが必ず存在するのです。もっと言えばそれで利益を得る国が存在するのです。

社民党や共産党のことはさて置き、沖縄の米軍基地反対で利益を得る国は明白です。北朝鮮と中国です。社民党の利益と北朝鮮や中国の得る利益の大小を鳩山さんは比較検討したことがあるのでしょうか?社民党という弱小政党と連合を維持し自分の権力を維持する行為が日本を安く他国へ売り渡すことにならないように祈るばかりです。

下に示す写真は駿河湾にあるヨットの泊地です。こんなに美しく平和な風景は、日本が安定して豊かな国だから見ることが出来るのです。この日本を素朴に好きになりましょう。それが愛国心の出発点です。

皆様は日本人の愛国心の欠如についてどのようにお考えでしょうか?ご意見を頂ければ嬉しく思います。(終り)

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カトリック小金井教会にある聖餅の入ってる立派な箱の写真を撮って来ました

2010年05月23日 | 写真

赤い置電灯の向こうにある重そうな金属の戸棚には聖餅が常時保管してあります。ミサの間に神父様が信者の一人一人へ分け与えるキリストの体です。

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この聖餅の保管庫は祭壇の右側に位置しています。下の写真がその様子を示しています。棚の下には洗礼の時使う水盤が蓋をして置いてあります。右手には十字架のイエス像が飾ってあります。最近のカトリックは神秘主義を排除する傾向にあり、このような祭具は非常に簡素化されています。赤い電灯は、昔は天井から吊り下げた大げさなものでした。ヨーロッパ諸国へ旅をされる折には教会へ気軽に入って見て下さい。教会はいつでも旅人を歓迎し、休ませてくれます。内部の飾りの時代考証などを考えてぼんやり一休みなさって下さい。(終り)

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教養としてのキリスト教・・・聖霊とは何ですか?

2010年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

キリスト教で一番理解が困難なものに「聖霊」があります。カトリックでは「父(神)と子(キリスト)の聖霊のみ名によって、アーメン!」と何度も祈ります。この父と子と聖霊を三位一体と言います。

聖霊と神とイエスの三位が一体になっているのです。そして聖霊の赤い炎の玉は人間界へ送られ、善い事だけをしてくれます。例えば聖霊がマリア様に飛んで来て、イエスを身ごもりました。

それだけではありません。初期のイエス信者の所へ飛んで来て、多くの国々の言葉を喋れるようにしたのです。イスラエルに住んでいた信心深いイエスの信奉者へ聖霊の赤い炎の玉が飛んで来て次のような地方の言葉を流暢に喋るようになったのです。パルティア、メディア、エラムから、さらにメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネのリビア地方。その上、ローマ帝国から来てイスラエルに住んでいるローマ人、クレア、アラビアの人々。

これらの地方の名前は、東は現在のイランから西はローマ迄、さらに北アフリカの国々の名前です。(聖書は当時の地理情報も詳しく記録しています。)

日本にいる宣教師は日本語が流暢なのはこの記述に従おうと努力しているからです。先のローマ法王のヨハネ・パウロ2世は世界中の国々を周りましたが、訪問先での説教はその国の言葉でしました。日本にも1981年に来ましたが、説教は日本語でしました。その為の日本語の特訓には1年近い期間をかけて、日本人の枢機卿が教えたそうです。

聖霊は人間にいろいろな善いことをしてくれます。いきなり卑近な例で恐縮ですが、このような小文を私に書かせているのが聖霊です。今日のミサの間に飛んで来て、こんな記事を書きなさいと言ったのです。

下の祭壇は長崎県のある島にあった古い木造教会のものです。明治村で撮影してきました。きっと聖霊がこの木造の教会を守ってくれたのでしょう。そのお陰で明治村へ移築されたのでしょう。挿絵かわりに写真を付けました。(終り)

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あなたは気楽に他人へ話しかけられますか?

2010年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

はじめから方言の話で恐縮ですが、私は仙台弁が恥ずかしくて長い間、東京の人へ話しかけられませんでした。特に他人に会うと話しかけられるのが怖くて顔をそむけてきました。

しかし、そんな態度がガラリと変わってしまったのです。毎日こうして稚拙な文章を書いていると、読んで下さる方々へ心の中で有難うと言います。それが自然になってしまうと、他人へ気楽に挨拶が出来るようになります。

特に、下の写真のように人の居ないところで偶然、他人と会うと大切な人に会ったような気分になります。挨拶をして、少し話をします。この近所に質素な山小屋があります。そんなわけでこの山里の人々とは皆仲良くなりました。きっかけは気楽に挨拶し、話しかける事です。

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ブログを書いていると毎日何百人もの方々が見て下さいます。感謝しています。何か贈り物をしたいと思います。そこで、この「感謝の思い」に金色の羽根をつけ、目に見えない矢として一人一人へ飛ばしているのです。一人一人は皆違う境遇です。幸多い人、悲しんでいる人、病気の人、高齢な人、忙しい人、暇な人、みんな事情があります。千差万別です。その一人一人へ金の羽根の矢を送っているのです。まあ、想像だけの世界ですが、受け取って下さっているでしょうか?

インターネットの世界に入ると見に見えない他人を大切にするようになります。

「貴方を大切に思っていますよ」という心は容易に持つことが出来ます。思うだけです。損得はありません。他人を大切に思う心を大げさな言い方で表せば愛です。

西洋人の言う愛は恋愛という意味と他人を大切に思う心を意味しています。そうと分かれば仏教を信じる我々と変わりません。仏教では他人だけでなく生きているもの全てを大切にします。殺生を禁じています。

今日は皆様へ金の羽根のついた矢を送ります。今日一日楽しい気分で過ごせますようにお祈りいたします。藤山杜人