後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

江戸時代の農家の長屋門と新緑

2010年05月08日 | 写真

江戸の西郊外の農家には作男一家の住む住宅と門が一体構造になっている長屋門が母屋を守っていました。その当時の地主と作男は厳しい主従関係でした。過ぎ去った歴史です。そんな時代を忘れたように、空にはみずみずしい新緑が輝いています。小金井公園に移築された天明家の門です。

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季節は足早に流れて行く・・・人々も目の前を通り過ぎて行く

2010年05月08日 | 写真

ロウバイや梅が咲いた。モクレンやコブシが咲き、桜が絢爛と咲き誇る。そんな風景を楽しんで居たら、季節がどんどんと流れて行きます。桜木は豊かな新緑になり、藤が咲き、それがもう散り始めています。季節の移ろいは足早やです。年をとってくると知人、友人が一人二人と旅立って行きます。気が付くと周りが広々と淋しくなっています。そうです通行人が目の前を静かに通り過ぎて行くのを眺めているようです。そして自分もその通行人の中の一人なのです。そんな事を考えながら小金井公園で藤の花を撮ってきました。つまらいない写真ですが、2枚お送りいたします。

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しみじみと しみじみと 懐かしい農家のたたずまい

2010年05月08日 | 写真

多くの日本人の心にある原風景は、茅葺農家のある風景ではないでしょうか?釘は使わないで縄で木組みを縛っています。軒を長く出し、雨の吹きこむのを防いでいます。入口を入ると広い土間があり、道具の修理や農作物の仕分け作業が出来ます。家内の唯一つの暖房は囲炉裏だけです。台所には木製の流しと水瓶があるだけです。そんな農家に上がり込んで、板の間に座り、しみじみと しみじみと 旧懐の情を楽しんできました。1720年前後に江戸の西の農村に建てられた綱島家を小金公園の「江戸東京たてもの園」に移築したものです。

日本は近代化したと言っても昭和40年(1965年)頃までの農村地方ではこのような家々に住んでいたのです。電灯だけはついていましたが。

先程撮って来た写真です。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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琵琶湖のほとりに住んでいるネット友との別れを惜しむ

2010年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム

山林の中に住んでいる鬼家(オニイエ)さんが、3年程前に私へブログを始めなさいと言ってくれました。それがこのブログのそもそもの始まりでした。その後、鬼家さんから、「ちひろさん」をご紹介頂きました。琵琶湖のほとりに住んでいて感性豊かな写真を沢山掲載している方です。あまりにも素晴らしい写真が多いので転載のお許しを頂いて何度も、このブログを美しくかざっって参りました。たった3年弱の交流でしたが10年以上のお付き合いのような気がしていました。その方が長年住み慣れた琵琶湖の家を引っ越さねばならなくなったそうです。コンピューターも止めるようです。なにか悲しい事情が起きたことを暗示するメッセージが彼女のブログに出ていました。

本当に人生は最後までいろいろな事が起きるのです。

昨日、以下の3枚の写真の転載のお許しを頂きました。ここに掲載し、ちひろさんとの別れを惜しみたいとおもいます。尚、彼女のブログは暫く見ることが出来るようです。

http://blog.goo.ne.jp/hanafubuki33 をクリックするともっと多くの美しい写真がお楽しみ頂けます。

今日はちひろさんと、皆様のご健康と平安をお祈り申し上げます藤山杜人

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船は装備によって雲泥の差・・・戦艦、三笠と帆船日本丸と氷川丸

2010年05月07日 | うんちく・小ネタ

1900年英国、ビッカース造船所製の三笠と、1930年英国、ラメージ&ファーガソン社製の帆船日本丸と同じく1930年三菱造船、横浜ドック製の氷川丸の構造と装備を比較すると欧米の船建造の思想が実に明快に理解できる。

欧米では船、特に大型船を建造する場合にその船の使用目的をまず明確に決定する。その後で使用目的を達成する一番合理的な構造と装備を考えて建造する。

欧米の設計思想の根幹にはこの合目的性が一番重要になる。三笠の目的は敵艦より優れた大砲を多数装備し、高速で海上を自由に動けなければならない。その断面構造図には戦闘目的に関係しない装備は一切無い。士官室は後部、水兵室は前甲板の下と画然と分離され規律保持が徹底している。砲弾庫は船底の一番安全なところにあり、大量の食料は長期作戦のために冷凍庫に保存されている。

撃沈した敵の戦艦の乗員を救助し、捕虜にする予定で「捕虜収容室」も装備してある。

動力は蒸気機関で直立3気筒レスプロ蒸気機関で2基で合計15000馬力、2軸スクリューで15140トンの船体を18ノットで推進させる力を備えていた。燃料は石炭で、甲板の左右に多くのマンホール状の穴を作り船底に石炭を人力で落とし込む。出動の前には1500トンの石炭を積んだ。積み込むときは乗組員総員で迅速に積み込む訓練を重ねたという。

三笠の建造後30年たって1930年に日本丸と氷川丸が出来た。

日本丸は三笠と同じ英国製の排水量2279トンで池貝鉄工所製ジーゼルエンジン600馬力2基を装備している。この船の使用目的は帆走訓練生の大洋航海術の教育である。したがって大洋航行用の4本マストで、おもに横型帆と少しの縦型帆の合計、29枚の全てを人力で操作するように出来ている。甲板から上の全ての装置は、舵も含めて電気モーターや油圧動力は一切使わない。小さなジーゼル発電機は艇内の灯火と航海灯と無線電信機のみへ供給された。航海の90%は帆走し、ジーゼル燃料を節約した。

この船には武器は一切積んでいない。食料と清水だけを乗員数と航海日数に従って積載していた。この船の断面構造図を見ると平和的な構造になっている。それに比較して戦艦「三笠」が戦争目的の殺伐とした構造になっていることが歴然とする。平和な現在の日本人として見ると、三笠は非常に残酷な構造になっているように感じる。捕虜収容室など本気で作ってあるのは敵艦を沈めて、生存者を拾い上げようとしている。

さらに1930年製で排水量11622トンの氷川丸は客船であり、客室とダイニングルーム、社交室などが主な部分を占めている。5500馬力の大型ジーゼルエンジンを2基装備して太平洋を時速18.2ノットで駆け抜けた。ただ当時の社会風習に従って一等客室と三等客室の差が大きい。1等は個室で三等は上下2段ベットの狭い8人部屋で船底近くにある。食堂も貧弱である。三等船客は一等客室部分へは立ち入り禁止である。三等船客にとって、航海中は暗い毎日であったに違いない。最近の豪華客船のニッポン丸や飛鳥の船内とは雲泥の違いである。

三笠と帆船日本丸と氷川丸の構造・装備の違いを簡単に比較して欧米の船の建造の思想を考えてみた。そしてそれを敷衍すれば飛行機や自動車の設計思想にも同じようなことが見られる。皆様のご叱正をお待ちしています。(終わり)


ネット社会から自分が突然消える時、

2010年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを始めたのが2007年11月5日で、それ以来、色々なSNSに入会し、そこでも会員の方々と毎日のように交流しています。加入しているSNSは趣味人倶楽部、BYOOL、にほんブログ人村、みんなの足跡などです。毎日、日記や写真を見て、コメントを書いたりしています。ですから私はネット社会にドップリと浸かった日常生活をしています。

しかしここ数日、コンピューターの調子が悪くて、正常に動いたり、動かなかったりしています。そのせいで深く考えるようになりました。ネット社会は本当に自分にとって重要なのだろうか?あってもなくても差しさわりのないものだろうか?

結論は出ません。しかしコンピューターが完全に壊れてしまう前に書くべき事だけは書いて置こうと思っています。それはネット社会の上で交流し、私を励まして下さった方々へ感謝していることを書いて置きたいのです。ネット社会のお陰で人間の勇気と善意が確信できました。それは実社会以上の意味があります。ネット社会では人々は利害関係が一切ありません。それなのに友情を送ってくれます。激励してくれます。明るい気持ちにさせてくれます。本当に有難う御座いました。

これからこのコンピューターを直しにかかります。一度、ここでキリをつけて置こうと思い一筆書きました。下の写真は富士山の5合目で昨年撮った写真です。自分で気に入っている写真なので挿絵代わりに掲載させて頂きました。

本当に有難う御座いました。敬具、藤山杜人

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英国製の軍艦の性能の良さがバルチックj艦隊を壊滅させたのです

2010年05月07日 | うんちく・小ネタ

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東郷元帥の戦略も独創的で敵の意表をつく見事なものであった。でも、英国のビッカース造船所へこの戦艦を発注した海軍省の官僚も偉かった。砲身の直径30cmの主砲を前後に2門ずつ、両舷側に15cm副砲を7門ずつ、そして8cm砲を両舷側に10門ずつ、合計38門の大砲を持つ三笠の戦闘能力を忘れてはいけない。

大砲の戦闘能力は一分間に何発の砲弾を発射出来るか?砲身の方向を変える速度は大きいか?射程距離と命中精度が敵艦より優れているか?などによって決まる。

ビッカース造船所の戦艦製造技術と艦載大砲の優秀性がロシアのバルチック艦隊より優れていたら勝つのが自然という研究があっても良い。

当時の帝国海軍は東郷元帥の戦略的能力と決断力を高く評価しつつも、戦艦の戦闘能力を冷静に国際的に比較検討したに違いない。

ロシア艦隊に完全勝利しすぎた結果、大艦巨砲主義がその後の帝国海軍の主流となった。しかしその過ちが明白になったのは、巨大戦艦、武蔵や大和を建造し、アメリカの航空攻撃に沈められた後である。そんな歴史を思い返しながら三笠の甲板を歩いてきた。風の爽やかな晴天で、猿島の緑が美しい。

撮影日時:2008年5月27日午前11時頃、 撮影場所:横須賀市三笠記念公園


強風だったのでこんな恥ずかしいセイリングをして来ました

2010年05月06日 | 写真

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体力維持の為に天気が良ければ毎週、1、2回セイリングへ行くようにしています。

今日は温かな晴天なのでドライブを楽しみながら霞ヶ浦へ行きました。マリーナへ接岸し、エンジン調整をしてくれたS藤さんへお礼をして、預けていたヨットの鍵を貰って来ました。強風なので接岸、離岸に苦労しました。船の中で持参のカレーを温めて昼食にしました。午後から沖に出ようとしたら物凄い強風になってきました。

しかし港の中は流石に風もそれ程でなく、波も静かです。そこでジブセイルを半分だけ上げて港の中を行ったり来たりしてセイリングを楽しみました。幸い港の中の船は一隻も動こうとしていません。船上に人影もありません。1時間ぐらいこんな恥ずかしいセイリングを楽しみました。強風で船を係留するとき渾身の力を出しました。夏のように汗だくになりました。運動にはなりましたが、あまり格好の良いセイリングではありませんでした。詰まらない話で失礼致しました。(終り)


男の厳しいテーブルマナー・・・酒を飲むときの作法

2010年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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男が酒を飲むときの作法は民族ごと伝統的に決まっているようです。そしてその作法は地域によっても違います。それを無視して飲むと顰蹙を買います。我々日本人が宴会で燗をつけた日本酒を飲む時は、小さな杯で受けて飲みます。自分で杯に酒を注ぐのは作法に反しています。あくまでも他人に勧めて貰い、注いで貰うのです。少なくとも宴会の始めの間は皆この作法を守ります。

南ドイツのローテンブルグでのワインを飲む時の作法も慣れるまではかなり面倒なものでした。ガストフという伝統的な居酒屋ではまずコートの脱ぎ方、壁の釘へかけるときの動作を慎重にします。悠然と重々しくしなければなりません。テーブルに案内されたらゆっくりとワインのボトルを注文します。知ったかぶりをしないで、その地方でブドウ酒の出来の良かった年を教えて貰い、それを注文します。主人がブドウ酒の瓶をお盆に捧げて持って来ます。程良く冷やしてあります。コルクの栓を抜いてワイングラスに少しだけ注いでくれます。

そこからが難しいのです。少し飲み、その味について必ず褒め言葉をいいます。「ウン、辛口ながらブドウの甘味と香りがほのかに有って良い酒です」とか言うと主人は安心したようにグラスになみなみと注いでくれます。兎に角一言、気のきいたお世辞を言うのがその地方の作法なのです。これはマナーであり、例え不味い場合でもそれを言わないのが、掟なのです。その事は2,3杯飲んだあとで主人だけへこっそり言えば良いのです。

これを的確に行うと、その後は主人がいつも愛想良くなります。毎回、ボトルのワインでは体にも良くないのでビールを飲みます。その土地の地ビールを主人に教わり美味しそうに飲みほします。それも作法です。不味かったら他のビールを注文すれば良いのですが、始めは地ビールへ敬意を表します。これは何処の国へ行っても同じで、地元のワインやビールへ敬意を表するのが作法です。ヨーロッパ大陸ではワインかビールを主に飲み、ウイスキーはあまり飲みません。従ってビールを小奇麗に勢い良く飲む作法と、ワインを飲む作法さえ守れば楽しく過ごすことが出来ます。ところが北欧に行くとサウナと赤いコケモモで香りを付けたウオッカがセットになって出て来ます。風呂上がりの一杯としてコケモモ入りのウオッカを飲み合うのです。これには作法というものがありません。しかし酔いが回り易いので絶対にウオッカを何杯も飲んではいけません。一杯か二杯で止めなければ大変なことになります。

中国や韓国には伝統的で優雅な杯の捧げ方と上品な飲み方の作法があります。乾杯、乾杯と飲み干すのも礼儀であり、作法です。しかし、乾杯は2、3回で充分です。それ以上は随意、随意と言って微笑めば、それ以上勧めません。それを無理して乾杯、乾杯を続けてはいけません。

さて、なじみ深いアメリカはどうでしょうか?それがアメリカでは酒を飲む伝統的な作法がないのです。カンビールはグラスに注がずにカンからそのまま直接飲みます。ビンビールもビンで飲みます。歩きながらでも飲みます。勿論高級なレストランではグラスに注いでくれますが。バーへ行けばカウンターでお金を先に払います。と、バーボンの入った部厚いグラスが滑ってききます。バーテンダーが熟練の技を自慢しているようです。

アメリカは伝統とか作法を嫌う文化です。そのような古いヨーロッパが嫌いな人々が移民してくることが多いのです。

酒を飲む作法はその民族の文化の一部です。酒を飲む折々に、色々な国の飲み方を思い出してその生活文化を楽しんでいます。皆様は酒を飲む時はどのようにしてお飲みになるでしょうか?

(下の写真はローテンブルグです)

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


冬眠して長い冬を越したモリアオガエルをいよいよ小屋へ放します・・・鬼家さんのブログより

2010年05月05日 | 写真

北杜市の山林の中に住んでいる鬼家(オニイエ)雅雄さんが昨年の春にモリアオガエルの卵から育て、冬眠させ、越冬したカエルをいよいよ飼育小屋に放すようです。

飼育や冬眠に細心の注意を払いやっと冬を越したのです。詳しくは、北杜市・自然の中で:http://sizen068.blog95.fc2.com/ をご覧下さい。転載の許可を頂きましたので飼育小屋の写真と冬眠から覚めて元気いっぱいのモリアオガエルの写真をお送りいたします。

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25基もの古墳があった高倉塚古墳群のご紹介

2010年05月05日 | うんちく・小ネタ

昨日、府中市の西の郊外にある巨大な熊野神社上円下方石造古墳をご紹介しました。650年前後に造られた古墳です。

その南方向、約2km位のところに25基もの古墳がある高倉塚古墳群があったのです。全ては500年から550年の間に造られたことが出土品の土器、鉄鏃、玉類、直刀などから判明しています。昨日紹介した熊野神社古墳より100年位古いものです。

現在は一つの古墳だけが保存されています。後の24基の上には住宅が建っています。

この他に府中市にはもっと古墳があります。大和朝廷が武蔵野国の国府をここに置いたのは偶然ではありません。古墳時代からここは武蔵野の中心的な場所として有力な豪族が代々棲みついていたのです。

現在も古い街道の周辺に神社や寺が多いのも古墳時代からの伝統なのです。

江戸時代も甲州街道の宿場町として大いに繁盛した府中が明治維新で暗転するのです。新宿から甲府を結ぶ鉄道を嫌ったので中央線は府中のはるか北側を通ってしまいます。時代の変化に感慨深いものがあります。そなな感慨にふけりながら写真を撮ってきました。

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三蔵法師の遺骨に関する昨年の記事は間違いです!・・・記事の訂正・・・

2010年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

この遺骨が本物であるという科学的考察は無いのです。

そこで昨年9月14日に下記の記事を、「宗教的記事」として掲載しました。

しかし、この遺骨は第二次大戦中に日本軍が南京を占領したとき武力を使って持ち帰ったものです。そして日本は南京に見せかけの中国政府を作ったのです。この南京政府が日本軍の言うことを聞くのは当然です。この事実を軽く見過ごしてしまった下記の記事には大きな過ちがあります。やっぱり三蔵法師の遺骨ではないと思うほうが無難という結論に到達しました。勿論本物である可能性はゼロではないかも知れません。

しかしその可能性が非常に小さいのに本物らしいニアンスで書いたことは大きな間違いです。

この間違いに確信を持つまで8ケ月も要した私の不明を深くお詫び申し上げます。

=======2009年9月14日の掲載記事=====

三蔵法師の頂骨が昭和17年に偶然に南京で発見されました。お骨の入っていた石棺に、「宋時代の天聖5年(1027年)に、演化大師が西安から南京へ持って来た」と刻んであったのです。その頂骨の一部が昭和19年に南京政府から日本へ寄贈されたのです。そして日本の仏教界の為に海を渡って来ました。

玄奘三蔵法師が遠くインドへ旅したように死後にも旅をして日本へやって来てくれたのです。その遺骨は現在、埼玉県の岩槻の慈恩寺が守っています。昨日、お参りして来ました。慈恩寺の第50世住職の大嶋見道師と第51世住職の大嶋見順師の2代の住職が心を配り慈恩寺から少し離れた場所に玄奘塔を建て、その根元に遺骨を奉安しました。この遺骨は慈恩寺だけの所有物ではなく、日本の全仏教徒の為に眠っているのです。その為に見順住職は日本仏教連合会と相談をしながら、お寺とは独立した場所に13重の塔を建て玄奘三蔵法師のお墓にしたのです。更にその後、遺骨は日本仏教連合会の決定にしたがって、台湾の玄奘寺と奈良の薬師寺へ分骨されました。

慈恩寺へ行けば第51世住職の大嶋見順師にお会い出来ると楽しみにして参上しましたが、残念にも2年前に亡くなっていました。奥様と第52世住職の方としばしお話をした後に玄奘三蔵法師のお墓へお参りに行きました。午前中は教会のミサへ行き、午後に家内と一緒に行きました。

13重の玄奘塔は広々した田畑の中にありました。参道には店も無く、人気の無い淋しい野原が夏の名残の日差しの中に輝いているだけです。

下の写真が玄奘塔の入口の門です。思わず合掌し、中国の西安から、遠方の埼玉県まではるばる来てくれた三蔵法師の温かい慈悲の心へ深い感謝の言葉をつぶやきました。

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下の写真は13重の塔で東武鉄道の根津社長が昭和22年に寄進した見事な石塔です。この塔の基部に高さ8cm、直径7cmの水晶の壺に入れた玄奘三蔵法師の遺骨が埋めてあります。

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下の写真は長安にある玄奘三蔵法師のインドへの旅姿の絵画を忠実に模した大きなブロンズ像です。

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下の写真は玄奘塔のある周囲の風景です。場所は、http://www.jionji.com/ に御座います。

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お参りして豊かな気持ちになりました。

しかし参詣人が誰も居ないのが淋しいです。多くの日本人は玄奘三蔵法師の遺骨がここに有ることを知らないのです。複雑な思いです。次の記事でその原因を少し考えて見ます。皆様はこの状態をどのようにお考えでしょうか?

=========終り=================

日本軍の南京での暴虐と関係の無い様な私の理解はやはり間違っていました。分骨して、それを受け取った奈良の薬師寺がその後、遺骨について完全にノーコメントを貫いています。それが正しいあり方と思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


巨大な 石造古墳が近所に!

2010年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、学校で大和にある大きな前方後円の古墳のことを習いました。それで古墳は大和地方にしか無いと思い込んでいました。中年になって埼玉県の「さきたま古墳群」の雄大な古墳群を見て度肝を抜かれました。

ところが数日前に隣町の府中市を車で通っていたとき道端に巨大な石造古墳を発見しました。今日はカメラを持って行って、写真を撮ってきました。上部が円形で、その下が四角形の石造りです。丸石は多摩川の河原から拾ってきたものばかりです。西暦650年頃に作られ、それを学問的に発掘をし、もともとの形に組み上げたものです。

上の円形の部分の直径が16m、そのしたの四角形の一辺が23mでその下に更に一辺が32mの四角形の台ができています。3層構造です。この形の古墳は古墳時代の終わりごろ盛んに造られたそうです。現存する上円下方古墳の中では最大の大きさです。

国指定の史跡になっています。「武蔵府中熊野神社古墳」という名前です。場所は甲州街道から中央高速道路の国立・府中ICに入る交差点の新宿よりの400m手前にあります。副葬品などから時代は650年前後と考えられていますが、埋葬された人の名前は分かっていません。写真をご覧下さい。

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この古墳を見てさまざまなことを考えさせられます。650年と言えば飛鳥時代です。仏教が伝来し飛鳥地方では所謂、飛鳥佛という仏像が多数作られ、その大らかな表情が現在までも日本人の心を捉えているのです。その一方で仏教とは関係の無い巨大な墳墓が各地で作られていたのです。お釈迦様は自分が死んだら墓を作るな。骨は野に捨てよと言い残して涅槃に入られたのです。インドへ経典を求めて旅をした玄奘三蔵法師も墓を作らせませんでした。西安の郊外の荒れ野に骨を捨てさせたのです。その遺骨の一部がめぐりめぐって埼玉県の岩槻市のあるお寺に祀ってあります。(この事実はこのブログに何度か掲載してあります)

650年前後は古い古墳時代の文化と新しい仏教文化が並存していたのです。丁度、縄文文化と弥生文化がかなり長い間並存していたようなものです。

学校で習う歴史では古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代と年号を区切って教えます。その無意味さを考えながら写真を撮って来ました。

お近くの方は一度、是非ご覧になるようにお勧めいたします。その巨大さに驚くと思います。(終わり)


玉川上水の新緑の写真をお送りします

2010年05月04日 | 写真

新緑の美しい季節になりました。それをを写真で表すのは本当に難しいですね。何度も試みましたが良く表現出来ません。先程、構図をいろいろ変えて撮ったものをトリミングしてみました。玉川上水の三鷹市内の様子です。出来の悪い写真ですがお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

あの有名な作家が死んだのはこの少し下流でした。もう60年も昔の事ですが、当時の新聞記事を今でも鮮明に憶えています。

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