後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ついにデジカメ壊れ、急遽セイリングを止め買いに行く

2010年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

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今朝は久しぶりの快晴です。早速、一週間ぶりにヨットへ行く。セイルを出して快調にはしりだしました。2、3枚写真を撮ったところで遂にカメラのレンズが出てこなくなりました。4月18日に三春の滝桜の写真を撮ろうとして家内が雪の残る土手に駆け上り、3分咲きの大樹を上方から写し、駆け下りる時見事な大尻もちをついて泥水の中へカメラを押しこんでしまったのです。乾燥してレンズの駆動部分へ入りこんだ土の粉末を少しずつ取りだしながら、手でレンズを動かして使ってきました。それがヨットの上でレンズがどうしても出てこなくなってしまいました。週末に家内と旅に行く予定があったので急遽セイリングを止めて帰って来ました。近所で「劇的にキレイに写る」というキャノンの小型デジカメを買って来ました。下の写真は庭で試験的に撮った写真です。なるほど少しキレイです。

前のニコン・クールピックスは2007年の11月から2年半の間よく働いてくれました。感謝しつつ、修理しようかと迷っています。皆様のデジカメは壊れませんか?詰らない話で御免なさい。

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横浜の「みなとみらい」に係留、公開している帆船日本丸のご紹介

2010年05月13日 | うんちく・小ネタ

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クルーザーで波風の少し荒いときに、風や波が帆や船体の何処にどの様に当たっているか実際に目に見えるような錯覚に捉われる。

いきなり唐突に連想が飛躍する、「大型タンカーやコンテナ船、そして豪華客船の船長は帆船操作の経験をして居るのだろうか?」「していれば荒天のとき落ち着いて操船出来るに違いない!」「待てよ、横浜の日本丸は昔、商船学校の練習船だったそうだ」、「そうだ、そこを訪ねて関係者に聞いてみよう!」、早速、車を駆って首都高速を駆け抜け、横浜、みなとみらいの日本丸の係留してある岸壁に着く。

乗船切符を買う窓口で賢そうな女性に上の主旨を言う。「それなら今日は、ボースン(水夫長)も船長もいるから紹介しますね」

ペンキ塗りをしていたボースンが快く仕事を止めて4本のマストとなどへ上げる合計29枚の帆の上げ方の概略を説明してくれた。そして大西船長へ引き継ぐ。

何故この船を、筆者は、「まだ現役大型帆船」と称するか?

筆者は今日まで、古い帆船の博物館と思っていた。しかし大西船長によると船舶検査にも合格し、いつでも東京湾へ出航できる状態で係留されているそうだ。上の写真をご覧頂きたい。潮の干満の影響が多少あるドック内に鉄の鎖でゆったり係留してある。29枚の帆の上げ下ろしは毎月1回以上行われている。東京湾へ出るのは何年かに一度ではあるが。29枚のセールは強風用と弱風用に分けて3セットずつ整備保管してある。

昔この練習船で船長や航海士をしていたOBと派遣された現役の船員や学生が共同で保守管理しながら、一般の人々の帆走訓練を実施している。

今日、説明してくれた大西船長もかつてこの日本丸の一等航海士をし、その後は、同じような練習用大型帆船の船長をしていたという。

大西船長へ聞く「タンカーなどのような大型船の船長は帆船の経験はあるのですか?」「日本人の船長なら全員この船か、同じような大型帆船で訓練を受けています。帆船によって船や海のことを学ぶのです。先生はこの帆船自身です。我々は船が無言で教えていることを時々練習生に説明します。大部分は練習生が直感的に理解します」

明快な回答である。そして意味の深い、興味深い話を長時間、情熱的にしてくれた。

今後、数回にわたり大西船長の話と杉浦昭典著、海洋文庫19「帆船」(舵社1986年発行)の内容をまじえながら数回のシリーズ記事「まだ現役大型帆船日本丸」を掲載することにした。なお杉浦昭典氏は神戸商船大学で大西船長の指導をしてくれた恩師とのことである。

最後に今日いきなり訪問した筆者へ長時間、貴重なお話をしてくれた大西典一船長(財団法人帆船日本丸記念財団、常務理事)へ深甚な感謝の意を表します。

この記事は2年前の2008年4月26日掲載記事の再録です。続編は2008年4月、5月に亘って掲載してあります。是非、帆船日本丸をご訪問なさることをお勧めいたします。

撮影日時:2008年4月25日午後2時、撮影場所:横浜市西区みなとみらい2-1-1岸壁にて


日本人が徒手空拳、イギリスでベンチャー企業を成功させた痛快な話

2010年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

023 1990年頃始まった日本の不況は10年以上続いた。経済産業省はベンチャー起業を盛んにして経済の活性化を推進しようとした。個人的な話で恐縮ですが、小生もその事業を数年手伝ったことがあり、ベンチャ-企業には特別な思い入れがあります。

ところが最近、趣味人倶楽部の英香さんの日記を読んでいたら彼女のご主人がはるか以前にロンドンでベンチャー起業をし、大成功したことが書いてあります。経済産業省がベンチャー起業推進のいろいろな政策を実施するはるかに以前の事です。起業し、夫婦で努力して大成功したのです。日本人の痛快な成功物語です。もっともご夫婦はイギリスに帰化し、すでに日本人ではないかも知れませんが。でももともとは日本人だったのです。英香さんの日記には、妻の立場から努力したベンチャー起業の経緯が書いてあります。転載許可を貰いましたので以下に示します。それにしても多くの日本人の世界的な活躍には驚異の念を禁じ得ません。

=======英香さんの日記、「夢を追う」=========

そもそも私が、英国にこれ程長く暮らす事になったのは、当時商社マンであった夫の海外転勤がそのきっかけであった。
日本経済が飛ぶ鳥を落とす勢いの時代であったから、ヨーロッパの特殊な素材を担当していた夫の転勤は、当然の成り行きであった。
その英国転勤に同伴する事が条件で結婚を承諾した私は、天職と思っていた仕事を辞め、夫に伴って四年間の英国生活を体験する事になった。
夫の会社の規定は、先ず本人が一人で赴任し、ビジネスの見通しが付くと同時に、本人の海外での適応能力に問題なしと判断されて初めて、六ヶ月後に家族の渡航許可が下りた。
六ヶ月遅れで渡英した私を待ち受けていたのは、入れ替わるように長期出張に出かけて行ってしまった、夫不在の空っぽの新居の部屋であった。
新婚早々、初めての外国暮らしで一人放り出された心細さはあったが、見る物・聴く物・食べる物、何をとっても初めての体験は、結構刺激的で、むしろ積極的に生活を楽しんだ。
当時駐在員家庭では、家のお掃除などをしてくれるハウス・キーパーを雇うのは一般的であったので、妻達は有り余る昼間の時間を、英会話やテニス・ゴルフそしてアダルト・スクール等の習い事等に費やした。
休日ともなれば、自宅で夫の仕事関係者の接待に、レストラン並の品数の手料理を振舞わなければならなかったが、その合間を縫って、英国やヨーロッパ各地の旅行を楽しんだ。
こうして瞬く間に三年が過ぎ、任期の四年目に入ったばかりのある晩、夫が少し改まった顔付きで話を切り出した。
「実はこの四年の任期が終ったら、会社を辞めようと思う・・・」
当時日本企業の駐在員は、同一企業に四年間在籍勤務した実績があれば、晴れて英国の永住権が取得出来た。
その永住権が取れた時点で、長年自分が扱ってきた素材を製品化し、販売する事業を思いついた夫は、会社を辞め、この英国の地に留まって起業しようというのである。
既に取引先企業への根回しも済ませてあり、準備万端整っているかのように見えたが、会社を興すといっても、それまでサラリーマンだった夫に最初から社員を雇う余裕などなかった。
「この夢を実現するには、最初は君の協力が不可欠なんだ。だからもし、君が嫌と言えば諦める。」
青天の霹靂とはこの事で、私の頭の中は真っ白・・・その夜は思考が停止したまま眠りに付いた。
夫は確かに商才に長けた人であった。
彼の部署は順調に業績を上げ、彼の貢献を会社も高く評価してくれていたし、このまま無事に四年の海外勤務を終えれば、東京本社ではそれなりのポストが待ち構えていた。
何より、父が事業をしていて、その母の背中を見ながら育った私は、この三年間の結婚生活で、商社マンの妻の座をかなり心地良いと感じ始めていた矢先でもあった。
しかし、冷静な目で見てみると、夫は組織の中で生きて行く人間ではなかった。
今回独立しなかったとしても、将来組織を離れる可能性は十分に考えられた。
人生のチャンスと思える時は、そう何度も訪れるとは限らない。
私のモットーは「五分五分で迷ったら、先ず行動する道を選ぶ!」ではなかったか。
数日後私は夫に告げた。新妻らしく「あなたが望むなら・・・私は何処へでも」
等と殊勝な事は一切言わなかった。
最悪の結果を考えれば無理かもしれないと思いつつも「今の生活レベルを落さない位の覚悟があるのならば・・・」
が、夫は目を輝かせて即座に答えた「絶対!・・・努力する・・・」
その日から一年・・・十月十日病院のベッドの上で絶対安静という難産ではあったものの、待望の娘の誕生という喜ぶべき経験を経て、永住権が確実になった。
その夜、新たな門出を祝って、二人だけのささやかな祝盃をあげた。
突然の夫の「退職願」に、東京本社から常務が飛んで来て説得するという一幕もあったが・・・夫の決意は変わらず・・・その時から、私はそれまでの優雅な商社マンの妻ではなく、夫と共に戦場で戦う企業戦士に変身した。
自宅の一部屋がオフィスになり、私はそのオフィスに待機しながら、商品化する為の(それまでは趣味の域でしかなかった絵心を生かし・・・)デザイン画を描いては商品サンプルを発注するという仕事に明け暮れ、夫は夫で今まで以上にヨーロッパ中を飛び回る生活が始まった。
家事は元々ハウス・キーパーがいたが、やっと授かったばかりの娘には毎朝泣かれ、後ろ髪を引かれながらもベビーシッターに託し、食事さえもクックの世話になった。
こうして始まった、私達のアメリカン・ドリームならぬイングリッシュ・ドリームは、時代の追い風に乗って・・・次なるビジネス(現在の会社)へと移行していくのだが・・・
残り時間を数える事が多くなってきた昨今、夢に向かって夢中になってつき進んで行った若かりし頃の思い出が、妙に懐かしく思い出された。(終り)


年をとるとつまらないものまで美しく見える・・・これが老境の輝き

2010年05月12日 | 写真

ばかばかしい話です。老境になると目に見えるもの全てに感動するようになります。つまらない植物でも小さな虫けらでも命あるものを見ると特に感心します。先程、小金井公園を散歩し感激しながら写真を撮ってきました。後から家に帰って見ると何の変哲もない写真です。しかし同じように老境の方々にはご興味を持って頂けるかも知れないと4枚程お送りします。

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美しい写真をお送りいたします

2010年05月12日 | 写真

この数日天気が悪くて気分が晴れません。こういう時は色々な方の美しい写真を沢山見ます。元気が出て来ます。今日は Director_ヒロさんの『時・空 写真館』http://www.toki-sora.com/ をご紹介いたします。北海道へ何回も、10日間も滞在し撮影した多数の傑作があります。何時も感動して見ています。以前にも何度かこのブログへ転載してご紹介いたしました。

今回も転載の許しをお願いしましたところ早朝に返事がありました。「これから羽田に行って、10日間くらい北海道の写真を撮って来ます。写真はどうぞお使い下さい」というご返事でした。『時・空 写真館』の中から3枚の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

========ご本人の自己紹介=========

鹿児島生まれの下関育ち、現在 単身赴任で東京(豊島区)に住んでいます。写真が好きで、カメラは毎日持ち歩いています。今はホームページ(アドレスは下記に記載)も開設し、仕事の合間の写真三昧です。写真の好きな方、仲良くしてください。
『時・空 写真館』http://www.toki-sora.com/  お気軽にお立ち寄りください。

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船橋聖一も遠藤周作も、そして井上ひさしもいなくなった・・・

2010年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

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船橋聖一も遠藤周作も、そして井上ひさしもいなくなった・・・戦後から小説の隆盛時代が続いた。まだテレビも普及していない時代だったので本を読む楽しみしかなかった時代です。当時よく読んだ小説の作家が次々と旅立って行くと本を読むということが次第に少なくなり、最近はめったに読まない。特に最近の小説は読んでも何を書いているか理解できない。

太宰治、石坂洋次郎、船橋聖一、三島由紀夫、吉行淳之介、柴田連三郎、五味康祐、今東光、有吉佐和子、遠藤周作、石川達三、井上靖、山本周五郎、新田二郎、開高健、そして井上ひさしも みんな死んでしまったのです。上の挿絵の白い塀の彼方へ行ってしまったのです。

もう本なんか読む気がしません。高齢の皆様はいかがでしょうか?

脈絡も無く名前をあげましたが船橋聖一さんは個人的に忘れられません。1960年頃、仙台の河北新聞で毎週日曜日に短編小説賞の公募がありその選者が船橋聖一さんでした。何故か急に応募したくなり短編を数回送りました。ところがそのうちの2回が選ばれ日曜日の紙面1ページを使って全文掲載されました。そして選者の批評として船橋聖一さんが構成が良いとか、いろいろ褒めてくれたのです。

まあ、それだけの話ですが。それと井上ひさしさんは仙台一高の先輩です。「青葉繁れる」は彼が仙台のことを想いながら書いた小説です。同じ仙台出身という事もあり彼の作品はよく読みました。

他の作家の作品もみんな印象深いものでしたが、遠藤周作にだけは特別な影響を受けました。彼のカトリックの信仰にもとづいた小説は日本人のキリスト教の受け入れ方を力強く教えてくれました。私がカトリックになったのは彼の影響も大きかったと思っています。

本を手に取らなくなって何年も過ぎました。しかし昨日、「のだめカンタービレ」という映画を見てその構成の確実さ、クラシック音楽への造詣の深さ、ストーリー展開の面白さに衝撃を受けました。家内に聞くとマンガを映画化したのもので、原作者は二ノ宮知子さんというそうです。興味が出たのでいろいろ検索して調べて見ました。

埼玉県の秩父郡に生まれた方で、父上は私の好きな業種の精密金属加工の会社をしています。

Wikipideaの「二ノ宮知子」の項目には彼女が描いた漫画の作品名が全て紹介してあります。沢山あります。

それで思い出しました。日本人の描くマンガの質が良くて世界中で広く読まれているそうです。特にテレビや映画を通して日本のマンガやアニメが国際的に愛されているのです。外国の若い人々が日本に親しみと尊敬を感じるのはマンガのせいが大きいのです。日本の経済力だけのせいではありません。現在のグローバル化現象はもっともっと多種多様で奥が深いのです。「のだめカンタービレ」という映画を見ると一瞬にしてそれが理解できます。(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


墓参りに行って、本堂のご本尊へ線香を供える

2010年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

お寺の裏に広い墓地があって、檀家の先祖代々のお墓が数多く立っているのが普通です。春秋のお彼岸には家族が墓掃除をして花を供えます。線香も供えます。しかし本堂のご本尊様を拝まないでそのまま帰ってしまう人々が多いものです。先祖は大切にするがお釈迦様の弟子は大切にしていないようです。そのような様子を見て私は困惑しています。本堂の前に進み、賽銭箱に小銭を入れて手を合わせれば良いのです。

昨日、家内の妹の嫁いだ先の両murasaki のお葬式のあった八王子の広園寺へ行きました。お坊さんへ頼んで本堂に上がり、ご本尊の地蔵顔王菩薩様へ線香を供えました。この寺は1387年に創建された臨済宗南禅寺派のお寺だそうです。寺の仏殿のご本尊は弥勒菩薩だそうです。

東京には江戸時代のお寺は沢山あります。しかし鎌倉時代や室町時代のお寺はほとんど有りません。鎌倉幕府のあった現在の鎌倉市には当時創建されたお寺が多く残っています。しかしその他の地域には鎌倉・室町以前のお寺が非常に少ないのです。そんな中で広園寺は貴重な存在でした。しかし、元禄10年(1697年)の大火で総門、仏殿、鐘楼、庫裏の全てが焼失し、山門だけが残りました。

従って現在、一列に並んでいる、総門、仏殿、本堂、そして横にある鐘楼や庫裏はその後の再建によるものです。山門も含むこれらの建物群は室町期の様式を忠実に残しています。東京都の有形文化財になっています。

八王子市の西の郊外にあり近くには万葉公園や片倉城跡公園もあり、散策に良い所です。お寺の前には桐の大木があり見事な花が咲いていました。ご参考までに昔の山門と現在の本堂の写真と桐の花の写真をお送りいたします。

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045_2 曇り空だったので、大木の全ての枝に咲いている見事な桐の花がよく写っていません。

しかしこの様に大きな桐の木は本当に珍しいと思います。一面に淡い紫色の花が咲いて甘い品の良い香りの漂っている光景をご想像頂ければ嬉しく思います。


ピアノ曲のお好きな人へお薦めする映画・・・あのLang Lang の演奏です

2010年05月11日 | うんちく・小ネタ

国際的に活躍している中国の男性のピアニストに朗朗(Lang Lang)という天才青年がいます。彼の繊細でダイナミックな演奏が聞けるのです。マンガを映画にした「のだめカンタービレ」という連続ものの最終編を東宝シネマズ府中で見てきました。映画のストーリーはピアノの修業をしている「のだめ」という女の子と指揮者の男性の平凡な恋物語です。はじめは漫画的に大げさな演技に辟易しました。下らない会話に厭になっていました。ところがピアノが響きだしたら、それは本物です。ショパンやラフマニノフやラベルやベートーベンのピアノの名曲が次から次へと鳴り響くのです。映画館の素晴らしい音響効果が私の体を包みます。すっかり圧倒されました。いやいやながら家内に付き合ってきたことを忘れてしまいました。

終りのほうに演奏されたラベルのピアノ協奏曲には感動しました。それと2台のピアノの為のベートーベンのソナタには、自分の肉体がすっかり音楽の世界に溶け込んでしまいました。ソナタには退屈することが多いのですが、感動でアッという間に終ってしまいました。

この抜群の力量のピアニストは誰か?映画の終わりに出演者などの名前が出てくるとき目を凝らして見ました。最後の方の英語版の画面にLang Lang の名前を見つけて、やっと納得しました。彼こそ中国が世界へ誇れる名ピアニストです。瀋陽に1982年に生まれた28歳のピアニストです。Wikpideaで Lang Lang のことは詳しく紹介されています。以下はその末尾のみの転載です。

(得意とするレパートリーは、チャイコフスキーショパンのほかに、ラフマニノフがあり、生演奏ではアンコールに中国民謡を好んで弾いている。近年は、ダニエル・バレンボイムに本格的に師事していて、アルトゥール・ルービンシュタインがバレンボイムに伝授したルバート奏法などを教わっている。ボストン交響楽団ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団クリーヴランド管弦楽団デトロイト交響楽団ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団サンフランシスコ交響楽団ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団パリ管弦楽団、香港フィルハーモニー管弦楽団、シドニー交響楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など、世界の主要なオーケストラと共演を続けている。)

さてピアノ音楽の映画として忘れられないのは「戦場のピアニスト」と「海の上のピアニスト」の2つの映画です。しかし両方とも暗いストーリー性が強すぎて、純粋にピアノを楽しむわけには行きません。

今回見た「のだめカンタービレ」最終章は音楽性においては一番優れていると感じました。ピアノ曲の色々な魅力を余すことなく紹介しているのです。演奏が繊細で、ロマンチックな場面、寂寥感を出す場面、歓喜の場面、などなど全ての情感を力強く描き出しているのです。

ピアノ曲のお好きな方々は是非お見逃しないように祈っています。(終わり)


そして又,友人がネット社会から消えて行く・・・

2010年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

ネット社会はバーチャルだから本気になってはいけません。よく聞く言葉です。

しかしネット上だけの付き合いですが、尊敬している友人が又一人去ります。趣味人倶楽部の英香さんです。彼女が趣味人倶楽部を止める決心をしました。ご主人がイギリスの富豪で子育ても英国で済ませた女性です。ロンドンと東京に自宅があり、軽井沢に別荘があります。あまりにも贅を尽くした生活なので一瞬本当かな?と感じたこともありました。しかしその知的な文章を幾つか読むと全て真実であることが分かります。お許しを頂いたので最後のお別れの言葉を以下ご紹介します。そしてその下に「人種差別」に関する文章の一部を転載しました。イギリスに長年住んでいないと絶対に分からないことが書いてあります。私がこのブログで人種差別の問題を何回も書いていた頃に発表された随筆風の彼女の日記です。

聡明で、勇気があり、ネットの上でも誠実に執筆していた英香さんの末永いご健康を祈りつつ、以下に文章をご紹介いたします。

―――英香さんのお別れの言葉―――

軽井沢の夏の季節は思いの外短く、6月も下旬になると夏は駆け足でやって来ますが、8月の中旬を過ぎる頃には、又駆け足で去って行きます。
森に暮らす人々は、そんな夏の季節を惜しむように・・・短い時間の中で、自然や花や森の動物達と戯れ・・・短い時間の中で、森のコンサートを楽しみ・・・短い時間の中で、名店の美食に舌鼓を打ち・・・短い時間の中で、親交を温め合います。
私の軽井沢も、毎年そんな風にして瞬く間に過ぎて行きます。
軽井沢の夏の終わりは、私にとって日本での生活の終わりでもありますが、今年は英国に戻りますと、今秋竣工式を迎える新クィーンエリザベス号による長期航路の船旅に出る事にもなり、これから当分の間、PCを少し離れて現実社会に重点を置いた生活が続く事になりそうです。
趣味人倶楽部に入会して一年半・・・日記を書き始めてまだ半年と、決して長い在籍期間ではありませんでしたが、私にとりまして初めてのネット社会への参加でした。
バーチャルの世界とは言え、ここ趣味人の世界はまさに現実社会の縮図であり、笑いあり、涙あり、真心あり、そして愛憎もありと・・・とても人間味溢れる世界である事を知った事は、目からうろこの体験でした。
自分の日記を公開するという非日常的な行為は、子供の頃学校で作文でも発表した時のような、懐かしい気分を味あわせて頂きましたし、同時に、皆様方の真摯な生き方を拝見する中で、沢山の事を学ばせて頂きました事は、この趣味人に入会致しました何よりの収穫だったと、感謝致しております。
ですが、そろそろこのマイページを閉じさせて頂く時期が来たと感じております。
突然ではございますが、5月15日(土)を持ちまして皆様方とお別れすることになりました事を、ここにご報告させて頂きます。
又、何処かで別な形でお会いする事もあろうかと存じますが・・・その日まで、皆々様の益々のご健闘を心からお祈り致しまして、お別れの言葉と致します。               英香

―――以下は英香さんの英国における人種差別に関する文章の末尾ですーーー

英国での子育ての過程で、子供が学校側から差別を受けた事は全く無かったし、むしろ理数系に強い日本人の子供達は、英語も出来ない内から英雄扱いされ、先生達は人種にかかわらずその子達の能力を更に伸ばす努力を惜しまなかった。
娘が、その時々で最高峰の教育のチャンスを与えられたのも、そんな教師達の並々ならぬ指導のお陰だったと感謝している。
英国は、今では私にとって世界で一番住みやすい国になった。

ただ、一つ付け加えなければならない重要な事は、英国には差別はともかく『区別は』間違いなくある・・・という点である。
住む地域や学校、街中の酒場に至るまで、見えない糸に区切られて、しっかりと区別されている事である。
「階級社会とは互いに無用な摩擦を避ける為の『差別』ではなく『区別』なんだ・・・」と力説していた英国人の友人の言葉が、深い意味を持っているようで、印象に残った。(終り)本年3月11日掲載日記

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


山吹の花が美しい季節になりましたね・・・梅雨も近いのでしょうか?

2010年05月10日 | インポート

趣味人倶楽部のマイフレにチャッピーさんという方がいらっしゃいます。茨城県にお住まいの62歳の男性の方です。写真がお上手です。いつも拝見して楽しませて頂いてます。今日は季節の花として山吹の花の写真を3枚ご紹介します。転載の許可を下さいましたチャッピーさんへ感謝いたします。藤山杜人

(写真の出典は、http://smcb.jp/_pr00?oid=181076 です。)

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あなたの主任司祭はイエス様です!・・・動揺する群衆を一瞬にして静かにする

2010年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

カトリック小金井教会の主任司祭の山本量太郎神父様が突然、関口教会の主任司祭へ転任になりました。傾倒していたのでショックを受けました。それで昨日は関口教会のミサへ行って、山本神父様の説教を聞いて来ました。

説教の内容をご紹介する前にカトリック関口教会のご紹介を簡単にいたします。文京区の目白台のそばにあり丁度、椿山荘の真向かいにあります。明治初年にフランス人神父様が土地を広く買って建設した教会です。東京大司教区の本部もあり、東京で一番大きな中心的教会です。見学は自由ですので一度ご覧下さい。下に昨日撮った写真を掲載します。

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カトリック教会では6,7年から10年に一回、主任司祭の交代があります。その方が信者の信仰が正しい方向へ進むのです。しかし信頼し、尊敬している神父様が急に転任になる事は全ての信者にとって悲しい出来事です。動揺もします。5月1日に急に主任司祭の転任の起きた関口教会でも小金井教会でも同じように皆が動揺しています。動揺するなと言っても信者が人間である以上無理です。私も動揺したので、昨日は関口教会での山本神父様の説教を聞きに行きました。

昨日のミサは山本神父が関口教会で始めて説教をする日でした。山本神父が説教台に静かに立ちます。教会で慣れ親しんだ神父様のかわりに見知らぬ人が立っているのです。500人位の群衆が何となくザワついています。浮足立っています。その心理が私にはよく分かります。しかし山本神父様は顔色一つ変えません。

そして静かに話し出しました。十数年前本部にいた時、急に主任司祭の居なくなったある教会に、代役でミサの司式に行った時に見たことを話し始めました。教会には病気のため本国へ帰った主任司祭様の書いた信者へのメッセージが残されてあったそうです。其処には書いてあります。、「私は、あなたがたの主任司祭でした。しかし本当の主任司祭はイエス様ご自身だったのです。私はそのように考えて皆様の為に働いてきました。私は去りますが、あなたがたの主任司祭は変わりません。イエス様ですから変わる筈がありません。・・・」

山本神父はこの内容をゆっくり明瞭な言葉で話して聞かせます。群衆がシーンとなります。安心したのです。

そして山本神父が続けます、「「主はみなさんと共に」と私が言えば、あなたがたは、「また司祭と共に」と唱えるでしょう。ですから、私とあなたがたの間にイエス様が立っておられるのです」広く、高いカテドラルの空間に穏やかな声が流れます。

群衆には、関口教会に降りて来て祭壇の前に立っているイエス様の姿が見えます。

群衆の動揺が消えてしまいます。

どんな組織でも転任の挨拶では自分の紹介をします。ところが山本神父は自分の姓名を告げただけです。その代り新しく着任した関口教会の信者の動揺を一瞬にして鎮めてしまったのです。名説教です。山本神父様はそういう方なのです。

その一方で大変人間的でもあり、その上ユーモアのセンスの持ち主ですそのような方に10年以上もお世話になったのです。神が、そしてイエス様が私共を愛してくれているという実感を何度も持てた10年間でした。

山本神父様へ家内と共に深く感謝しています。イエス様のためにもっともっと大きなお仕事をされる方です。いつもご健康であるように御祈りしています。

また時々、関口教会へお邪魔したいととも考えています。 主の平和。


初夏の宵、昔の研究仲間と惜別の宴

2010年05月10日 | インポート

 人生も終りに近ずいてくるといろいろな想念が頭を流れます。運命的に出会った人々の友情にたいする感謝の念。楽しかった頃の思い出。そしてやがて来る仲間達との永遠の別れ。楽しい宴の最中にも、これが案外最後になるかもしれないという想念が湧きあがり、ひとりひとりへの惜別の宴に一瞬にして変わります。

大岡山の研究室で一緒に研究をした昔の仲間が6人集まって、招んでくれました。私の情熱的な青春時代をともに数年間過ごしてくれた人々です。

皆それぞれに大学で一生を終えます。

KMさんは豊橋の技術大学を定年で卒業しました。優しい性格で、私を最後まで面倒をみてくれました。SBさんは千葉の工業大学を今年定年です。気持ちのよい男で何度も彼の津田沼にある研究室へ遊びに行きました。窓の外にユーカリの木が数本伸びているたのが忘れられません。

NGさんは長らく大岡山で活躍していましたが終り頃に縁あって上野の芸大の教授へ転任しました。芸大の話はとても面白いです。MRさんは尊敬する先輩の研究室からお願いして私の研究室へお招びした方です。人格者です。

SSさんはかなり後に来てくれた人です。関西のMT電器会社に行って、上司へ割愛のお願いをして来て頂きました。独創的な研究をしています。

そして今回の宴の世話人をしてくれたYMさんは名古屋の工業大学に行きましたが、数年前に本郷の大学へ招ばれて転任してきました。一番若い研究者ですが昔の研究仲間の面倒をみて、時々宴を開いてくれます。

今回の宴は湯島天神の裏側にある明治期から本郷にあった牛鍋屋の江知勝でした。世話人のYMさんの奥さんと小生の家内も含めて総数9人でした。

下記は昨日送ったお礼状の手紙です。

SBさん、KMさん、NGさん、MRさん、SSさん、YMさん、MK子さんへ:

拝啓、昨日は昔風でとても懐かしいお店で心温まる宴をして頂きまして本当に有難う御座いました。だんだん思い出しましたが、あの店は私が本郷にいたころ一、二度行ったことがあります。
みんなが、とても良い年の重ね方をして、お顔が悠々とした雰囲気なので大変嬉しく、楽しい会でした。悠々としながらも仕事はキチンとしていて、あちこちの学会から数々の受賞をされていることを聞き本当に感動いたしました。
昨日、家内が撮った写真を添付いたします。
2年前の3月末頃にRappさんが来日した折に会合をして下さったときの記事は、「八芳園の桜が見ごろですよ」 と題して私のブログへ掲載して置きました。
ブログのURLは
http://yamanasi-satoyama.blog.ocn.ne.jp/blog/ でございます。
実は昨年、前立腺ガンになり全摘出の手術を受けました。ガン細胞がとりきれずPSA検査値が少しずつ悪い方向へ動いています。まだまだ安全圏を推移していますので毎日遊び回っています。しかし年も74歳になりましたので、少しずつ旅立ちの準備をしています。
昨日の会では皆様と知り合った、運命的な出会いへ深く感謝しながらお話を聞いていました。私の気持ちでは一人一人と惜別する為の宴のように思える瞬間が断続的に続きました。
そこで今度、掲載するブログ記事の題を仮に、「初夏の宵、昔の研究仲間と惜別の宴」というような題目で私的な日記を書こうと思っています。
まだ構想が纏まっていませんが、明日位には掲載したいと思います。皆さんの写真は使いません。どうぞご了解の程をお願い申し上げます。

昨日は本当に有難う御座いました。家内からもくれぐれも宜しくとのことです。


何時も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。敬具、

以上は私の個人的な日記です。この個人的な日記をお読み頂いた方々へ感謝したしつつ、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

下の写真は昔の研究仲間と別れる悲しい気持ちを象徴しているような風景なので挿絵代わりに添付しました。甲斐駒ケ岳の麓の小屋の近所の林の夕暮れです。

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Dead Slow という字を見てゴッホの絵を連想する

2010年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

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油絵を見て感動する人も多い。シスレーやピサロの静かな風景画は好きだが、ゴッホの絵はどうも、と感ずる人もいる。でも、小生は上のような「星月夜」を見るたびに感動する。シカゴの美術館で見たときは、思わず涙が頬をつたわった。何故感動するのか言葉では説明出来ない。1890年自殺する前に描いた「アルルのゴッホの寝室」や歪んだ教会の絵などなど、どの一枚も感動を覚える。理由は全く分からない。

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人の連想は不思議だ。先日、氷川丸の5500馬力2基のエンジンルームでこの2枚の写真のような機械を見た時深く感動した。そしてゴッホの絵を見た時の感動を連想した。それだけの話である。これから先は大型船の離岸、着岸に興味のある方にはご理解頂けると思う。興味が無ければ実につまらない話である。

左の円形の機械は「エンジン・テレグラム」というもので、全く同じものが船の最上階にある操舵室にもある。出港しようと舵輪を握った船長がエンジンとスクリュウの回転速度を機関士へ伝達する機械装置である。Aheadは前進、Asternは後進で、Stand by、Dead Slow、 Slow、Half、Full とはエンジンの回転数を、中立、微速、ゆっくり、半分の速度、あるいはフル回転にするという指示板である。それらの指示を船長が出し、機関士へ伝達する機械である。機関士はその指示に従って即刻エンジンへ供給する燃料の量を右の写真のようなレバーで調節する。この機械装置はエンジンコントロールが完全電子化されていない時代に全世界の大型船で100年以上にわたって使用されていた。

操舵室のあるブリッジと機関室は遠く離れている。おまけに機関室は巨大なエンジンが唸っていて、声による指示は不可能である。

離岸や着岸しようとする大型船を岸壁と衝突させてはいけない。岸壁を擦って船腹を傷つけてもいけない。全ては船長の責任である。

スクリュウの回転速度を瞬間的に変えたい。また慎重に動かすために「死ぬほどユックリ」回転させたい。そんな船長の悲鳴にも似た指示がDead Slow である。これほど感情のこもった英語を見たことがない。日本語に約して「微速」と書くとなにか間違いのような気がする。

欧米人の知恵の結晶のような機械装置である。舵輪を握った船長と轟音うずまくエンジンルームでアクセル・レバーを握った機関士との瞬時の連係動作が要求される。

ゴッホの絵は彼の狂おしいほどの感情や情念を伝えている。Dead Slow は船長の感情を伝えてくる。緊張した、場合によっては狂おしいほどの船長の叫びだ。巨大な船が岸壁にぶつかる一瞬前にエンジンの回転数を変えなければいけない。

関係ないものだがDead Slow の英語を見て、ゴッホの絵を連想した理由かも知れない。人間の連想には明快な脈略が無いというが、その一例かも知れない。

つまらない話の終わりです。


無縁墓の急増と1319年に生きていた大蔵近之さん

2010年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の経済の高度成長期は1964年のオリンピックや1970年の大阪万博の頃から始まったとよく言われています。そしてその頃から墓地販売も盛んになり一大産業になって来ました。都会の近郊に広大な墓地を開発し墓石とともに売るのです。高額にもかかわらず飛ぶように売れました。その延長で現在でも墓の販売は盛んです。もっとも値段のほうはかなり安くなってきましたが。

その結果全国のお寺にある先祖代々のお墓の世話をする子孫が消えて居なくなってしまったのです。「00家先祖代々之墓」の子孫は遠方に住んでいて、そちらに生前から墓を作っているのです。そしてお寺さんとは縁が切れてしまうのです。先祖代々のお墓の供養の為に子孫がお寺へ支払う御礼が急に少なくなって来たのです。その結果、多くのお寺さんが困窮しているのです。

人々は何故お墓を作るのでしょうか?死んだ後に静かに眠る場所が欲しいのです。死んだあとでも自分が忘れられないようにしたいのです。年月がたっても朽ち無い記念碑が欲しいのです。そして家族が時々来てくれて、また会える場所が欲しいのです。

それを合理的に考えればお寺の裏の墓地である必要はないのです。

そんな事を考えながら府中の高倉塚古墳の近所をブラブラしていたら1319年に建てられた石碑がありました。鎌倉時代から室町時代の300年間に盛んに建てられた秩父産の黒い石板の卒塔婆です。死んだ人の供養を祈る板碑です。府中市内だけでも300枚も見つかっているそうです。お寺にも建てましたが下のように当時の重要な街道へ面して建てられたものも多かったようです。この写真の板碑は大蔵近之という人が父の大蔵道仏の17回忌の供養の為に建てたと書いてあるそうです。街道を通る人々がこの石碑を見て手を合わせ供養をし、旅の安全を祈ったのです。

そうですね。これは一種のお墓です。大蔵近之さんと父の道仏さんが眠る墓です。そして道行く人々といつも賑やかに話が出来る場所なのです。次第に縁が切れる子孫に拘泥しないでさっぱりしています。昔もスマートな日本人が居たものと感心しましたので皆様へもご紹介いたします。(終り)

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あなたは何時、日本が先進国になったとお考えでしょうか?

2010年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

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先進国とはどういう国でしょうか?いろいろな決め方がありますが、私は都会と田舎の生活レベルが同じ国を先進国と考えたいと思います。日本では終戦後もずうっと後まで、都会と田舎の生活レベルの差が非常に大きかったのです。現在の日本人はもうその事を忘れてしまっています。

この記事の下の方に江戸時代中期に造られた農家をご紹介しました。「しみじみと しみじみと 懐かしい農家のたたずまい」と題する記事です。このような農家は驚くなかれ昭和40年(1965年)頃まで全国の農村で実際に使用されていたのです。流石に家の廊下や窓にはガラス戸がはめ込まれ各部屋には電灯が付いていましたが、暖房は囲炉裏と石油ストーブで、水道は山水を引いて使っていました。

何故、昭和40年頃と推定できるのでしょうか?川崎市立日本古民家園には数十軒の農家や漁師の家が全国から移築されています。その移築の時期が昭和40年、41年、42年、43年なのです。古い農家を新しく建て替えたので、不要になった古い家々を寄付したのです。

ところが東京の田園調布の住宅街では、大正時代の末には既に、上の写真に示すような西洋館に大川さんという鉄道技師一家が女中とともに住んでいたのです。この家は大正14年に造られたのです。台所には電熱器と電気オーブンがついていて、居間にはピアノがあります。

第一次世界大戦で日本が戦勝国になり、武力の上では一等国の仲間入りをしました。しかし都会と田舎の生活レベルには雲泥の差がありました。農村の人々は都会の生活に憧れを持っていたのです。この状態は戦後も同じで、その差が縮じまり出したのは昭和40年(1965年)頃からです。それから10年から15年かかってやっと生活レベルが同じようになったのです。

従って、日本が先進国になったのは1980年前後ということになります。

こういう事実を敢えて書いているのは日本の近代化の歴史をいろいろな視点から考えなおすことが重要であると思うからです。我が国のGDPが大きいから幸福な人生を送れるとは限らないからです。経済的な繁栄の統計的な比較ではなく、富がどのように分配されているか?生活レベルは外国と比較して遜色無いのか?生活の利便性は良いのか?などなどを多角的に考え直す必要があるのではないでしょうか。

このような多様な視点でその国の現状を考えるといろいろ興味深いことが分かります。

中国政府は自ら、「中国はまだまだ発展途上国です」と言っています。田舎と都会の生活の格差がまだまだ大きいのです。海岸部と内陸部の経済格差が大き過ぎるのです。ですから中国政府の主張は正しいと私は思っています。

実は1969年から1970年にかけてドイツに住んでいた時に驚くような体験をしたのです。ドイツではどんな田舎に行っても家々が立派で生活レベルが都会と同じだったのです。ヨーロッパの豊かさに圧倒されたのです。その時の驚きを時々思い出しています。そして日本はまだまだ貧しい国だと思っています。

皆様は日本を豊かな国で、人々は幸福な人生を送っているとお思いでしょうか?時々冷静に考えて見ることが重要ではないでしょうか?日本の将来はどうすれば良い国になるのでしょうか?政治家にビジョンが無いばかりでなく、我々皆も明確なビジョンを持っていません。それは不幸なことではないしょうか?皆さんのコメンントを頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人