今回の大地震・大津波の後、世界中の国々の人々から感動的な支援を頂きました。日本人が外国からこんなに愛されていたとは思いもよりませんでした。むしろ嫌われているのではないか思っていました。それだけに私は非常に感動し、また勇気づけられました。
そこで何故日本人はこんなにも外国人から好意を持たれていたか、その原因を考えて見ました。昨日はまず3つの原因を書きました。(1)日本人の国際ボランティアの活躍、(2)巨額のODA(発展途上国経済援助)が外国の国々へ送られた事実、(3)そしてJICA(外務省外郭団体)からの人材の派遣による技能・技術の指導、などを昨日の記事で説明いたしました。
しかしそれだけではありません。第二番目の原因として日本の会社の世界各地での工場建設と長年の友好的操業が考えられます。
そして第三番目に芸術家や学者の外国人との共同活動などがあります。勿論、日本人芸術家の海外公演も大きな役割を果たしています。
そこで今日は、第二番目の原因について私自身が現地で見て、聞いた事実を2つだけ書いてみたいと思います。それは極く限られたケースです。日本の会社は広く全世界の国々に工場を作り、現地の人々へ働き口を提供し、現地の経済を活性化して来たのです。中国、インドネシア、マレーシア、ベトナム、タイ、インドはもとより、東ヨーロッパ、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、などなど実に多くの国々に日本の会社は工場を作り、操業を続けているのです。
例えば、私が中国の河北省の保定市で日本の会社の社長に会ったのは1995年の頃でした。その会社は東京漏水(株)という中小企業でした。東京都の水道管の漏水を発見する器具と、漏水を防止する工事を請け負ってきた会社でした。その会社が東京にある本社を閉鎖して、保定市の工業団地に移転して来たのです。中国は水道の普及を進めているので漏水しない配管工事を沢山発注するのです。その東京漏水(株)の社長へ私が何故、日本の本社を閉鎖して中国だけで仕事をするのか聞いてみました。その社長が遠方を見つめるような眼差しをして、こう言ったのです、「他人の庭先を借りて仕事をするのです。庭を貸してくれた中国人を尊敬し、好きにならなければ事業は成功しません。日本の本社を閉鎖したのは私が中国の土になる決心をしたからです」。
もう一つの私の体験です。1990年に私はコロンバス市にあるオハイオ州立大学で働いていました。その南の方に30km位のところのマリオン市にホンダの大工場がありました。何度か工場見学に行き、その縁で本田宗一郎さんにお会いする事も出来ました。まあ、それは別の話として、近所のガソリンスタンドの若者との交流をご紹介します。当時、大学への通勤に使っていた車が中古で度々故障をしました。その度に近所のガソリンスタンドへ電話して修理に来て貰っていました。
毎回来る若者が実に愛想が良く、好意的なのです。どんなに仕事が忙しくても飛んで来てくれるのです。ある時、何故そんなに好意的なのか聞いてみました。彼が言います、「私の父がマリオン市にあるホンダ工場で働いていて、日本人をとても褒めているのです。あなたはの日本人特有の英語のなまりなのでサービスを良くしていたのです」と。
当時、日本のホンダ、トヨタ、ニッサンがアメリカに工場をつくり大量生産を始めていました。アメリカの車産業の中心地のデトロイトではその反発で日本の新車を一台、大きなハンマーで壊す事件がありました。マスコミ向けのデモンストレーションです。
しかしオハイオ州のコロンバス・ディスパッチ紙はそのようなばかばかしいデモを非難する記事を掲載していました。日本の会社が外国の各地に工場を作るとこのような事が起きるのです。現地の地元では大歓迎されるのです。それを日本のマスコミはデトロイトの日本車打ち壊し事件しか大々的に報道しません。オハイオ州の取材は省略してしまうのです。困ったものです。
それはそれとして、
今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人