後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世界中の人々が日本人を愛している(二)何故こんなに好意を持たれているか?

2011年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の大地震・大津波の後、世界中の国々の人々から感動的な支援を頂きました。日本人が外国からこんなに愛されていたとは思いもよりませんでした。むしろ嫌われているのではないか思っていました。それだけに私は非常に感動し、また勇気づけられました。

そこで何故日本人はこんなにも外国人から好意を持たれていたか、その原因を考えて見ました。昨日はまず3つの原因を書きました。(1)日本人の国際ボランティアの活躍、(2)巨額のODA(発展途上国経済援助)が外国の国々へ送られた事実、(3)そしてJICA(外務省外郭団体)からの人材の派遣による技能・技術の指導、などを昨日の記事で説明いたしました。

しかしそれだけではありません。第二番目の原因として日本の会社の世界各地での工場建設と長年の友好的操業が考えられます。

そして第三番目に芸術家や学者の外国人との共同活動などがあります。勿論、日本人芸術家の海外公演も大きな役割を果たしています。

そこで今日は、第二番目の原因について私自身が現地で見て、聞いた事実を2つだけ書いてみたいと思います。それは極く限られたケースです。日本の会社は広く全世界の国々に工場を作り、現地の人々へ働き口を提供し、現地の経済を活性化して来たのです。中国、インドネシア、マレーシア、ベトナム、タイ、インドはもとより、東ヨーロッパ、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、などなど実に多くの国々に日本の会社は工場を作り、操業を続けているのです。

例えば、私が中国の河北省の保定市で日本の会社の社長に会ったのは1995年の頃でした。その会社は東京漏水(株)という中小企業でした。東京都の水道管の漏水を発見する器具と、漏水を防止する工事を請け負ってきた会社でした。その会社が東京にある本社を閉鎖して、保定市の工業団地に移転して来たのです。中国は水道の普及を進めているので漏水しない配管工事を沢山発注するのです。その東京漏水(株)の社長へ私が何故、日本の本社を閉鎖して中国だけで仕事をするのか聞いてみました。その社長が遠方を見つめるような眼差しをして、こう言ったのです、「他人の庭先を借りて仕事をするのです。庭を貸してくれた中国人を尊敬し、好きにならなければ事業は成功しません。日本の本社を閉鎖したのは私が中国の土になる決心をしたからです」。

もう一つの私の体験です。1990年に私はコロンバス市にあるオハイオ州立大学で働いていました。その南の方に30km位のところのマリオン市にホンダの大工場がありました。何度か工場見学に行き、その縁で本田宗一郎さんにお会いする事も出来ました。まあ、それは別の話として、近所のガソリンスタンドの若者との交流をご紹介します。当時、大学への通勤に使っていた車が中古で度々故障をしました。その度に近所のガソリンスタンドへ電話して修理に来て貰っていました。

毎回来る若者が実に愛想が良く、好意的なのです。どんなに仕事が忙しくても飛んで来てくれるのです。ある時、何故そんなに好意的なのか聞いてみました。彼が言います、「私の父がマリオン市にあるホンダ工場で働いていて、日本人をとても褒めているのです。あなたはの日本人特有の英語のなまりなのでサービスを良くしていたのです」と。

当時、日本のホンダ、トヨタ、ニッサンがアメリカに工場をつくり大量生産を始めていました。アメリカの車産業の中心地のデトロイトではその反発で日本の新車を一台、大きなハンマーで壊す事件がありました。マスコミ向けのデモンストレーションです。

しかしオハイオ州のコロンバス・ディスパッチ紙はそのようなばかばかしいデモを非難する記事を掲載していました。日本の会社が外国の各地に工場を作るとこのような事が起きるのです。現地の地元では大歓迎されるのです。それを日本のマスコミはデトロイトの日本車打ち壊し事件しか大々的に報道しません。オハイオ州の取材は省略してしまうのです。困ったものです。

それはそれとして、

今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


江戸時代には絶対に無かった日本の風景、そして昔から変わらぬ風景

2011年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

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人々は写真を何故撮るのでしょうか?感動した光景を記録して忘れないようにするのでしょうか?もう一つの目的は自分の感動したことを人々へ伝えようという目的もあります。写真を撮る時、私は何を伝えようとしているか明確に意識することが多いのです。

風景写真を撮る時に単に美しい風景だからという理由で撮ることはまれなのです。そのような写真はよほど撮影技術が良くなければ撮ることが出来ないのです。

一昨日、私は「江戸時代には絶対に存在しなかった風景」に出合いました。上は伊東マリン・タウンの風景です。ヨットやモーターボートは江戸時代の日本に存在していませんでした。右手のカラフルな建物群も最近の建築様式です。

そうなるとマリンタウンと対称的な、そして昔の人々が見て感動したであろう風景を探して見たくなります。そうして見つけたのが溶岩で出来た断崖と、それに砕ける波頭の風景写真です。

下の2枚の写真が昔変わらぬ風景写真です。城ケ崎の溶岩絶壁は3700年前に噴火した大室山から流れ下った溶岩で出来たものです。伊豆半島には大小60ケの火山が有るそうです。大室山と小室山がやく3700前に出来、他は全てそれより古い年代に噴火しました。
時代の流れを写真に撮る。それがこの3枚の組写真のテーマです。城ケ崎の写真を撮る時は家内に電線や電柱や鋼鉄製の吊り橋は写らないように注意します。人物も入らないようにします。服装が江戸時代とはあまりにも違うからです。

このように、日本の風景写真を撮る時、私は日本古来の風景と、文明開化以後の風景とを分けて撮影するようにしています。つまらない事ですが、それが私の趣味の一つなのです。失礼しました。

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伊豆の城ケ崎に咲くアジサイの写真をお楽しみ下さい

2011年06月16日 | インポート

何故かアジサイの花が好きです。ボンヤリした美しさが好きです。しかしよく見ると花びらの形や色合いがいろいろです。一番上の写真ははるか遠方の岩礁の上の絶壁に群生していたアジサイをズームで撮ったものです。暗い梅雨空で写真の出来は良くありませんが、肉眼では鮮明に見えました。あとの写真は城ケ崎の遊歩道や別荘地に咲いていたアジサイです。一昨日家内が撮りました。

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世界中の人々が日本人を愛している(一)大震災でそれが実感出来ました

2011年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

3月11日の大震災は我々日本人にとって大きな悲しい運命でした。心が痛み、希望を失い、暗い気持ちが続きました。

しかし僅かながら明るい希望の光が射しはじめ、それが次第に大きくなりました。悲しみが薄れ、次第、次第に前向きの気持ちが湧いてきました。その原因は(私にとっては)数多くの外国の国々からのボランティアの来日と義捐金の到着でした。経済的に苦しい国々からも人々の心のこもった義捐金が届いたのです。外国の大統領や皇族が被災地を訪問して人々を勇気づけたのです。

そうです。世界中の人々が日本人を強く愛していたのです。それが今回の大震災で実感出来たのです。今まで日本人が外国人に愛されているとは考えもしなかったことです。むしろ経済の事だけを考える日本人として忌み嫌われていたと思っていました。そこで私は何故、外国の人々がこんなにも暖かい心を送ってくれるのかと考えて見ました。下にその原因と思える過去の日本人の行為を書いてみます

(1)多くの国際的ボランティアが世界の果てまで行って現地の生活を支援して来たのです。

私は1995年頃、ある必要があって国際ボランティア団体の事務所を数か所訪問して、活動内容や資金の出所を調査した経験があります。当時はNGOと言ってました。資金の半分くらいは個人からの寄付です。後の半分は驚くなかれ、外務省から出ていたのです。

(2)巨額の政府援助(ODA)が世界中の発展途上国へ長年送られて来たのです。

ODAは相手国の偉い人の懐に入るだけだとか、結局儲かるのは日本の建設会社だとか非難の多い政策です。しかしその一部でも相手国の人々へまで支援が届いても、その金額は大きかったのです。為替レートのせいで大きいのです。彼等はそれで小学校を整備し、通学路を建設したのです。井戸を掘り、農業用水の水路を引く技術を教え、農機具の使い方を伝えました。ダムを作り、発電所を作り、家々には電燈がついたのです。テレビも見えるようになりました。

(3)JICAから世界中へ若者が派遣され、現地の人々へ生活向上の為の技術を伝えたのです。

このJICAは外務省の外郭団体で、お金は100%外務省から出ています。いろいろな技術をもった若者を募集して2年から5年間、発展途上国へ棲みついて人々と仲良くなり技術を伝授するのです。田畑へ水を引く水路の作り方から農機具の使い方などあらゆることを教えます。このJICAから派遣される若者の総数は想像以上に多いのです。私は中国に小さな技術移転のセンターを作ろうとして、当時、新宿にあったJICAの本部へ何度も足を運びました。結局私の計画は失敗しましたが、本部で会った人々の献身的な活動には感動しました。本部の人も現地へ住みついた経験者が多かったのです。

日本人が世界中の人々に愛されている原因はもっとあります。今回の記事が長くなりますので、それについては続編で書きます。

今回は民間の国際ボランティアの活動と外務省の取り組みだけをご紹介しました。下に、モンゴル人のMunkh-Uulさんからのメールをご紹介します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

========Munkh-Uulさんからのメール========

藤山杜人さん、こんにちは。母国モンゴルについての紹介へ感謝致します。

東日本大震災に際して、多くの一般のモンゴル人は日本の皆様の痛みを深く受け止めています。そこでモンゴル全国の8歳の子供から80歳の年寄りまで、一日の給料を義捐金として集め、3月にお送り致しました。

思い返すと、1990年に民主化の革命があり、大変な混乱に陥りました。電力不足と経済混乱が続き、商店には塩と石鹸しか無いかったのです。その折に日本の国民は手を伸ばし、大規模な支援をしてくれたのです。その事をモンゴル人は決して忘れず感謝しています。東日本大震災の被災地の人々が一日も早く普段の生活に戻れるように心からお祈り申し上げます。 Munkh-Uulより

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伊豆半島、下田への一泊旅行へ行ってきました

2011年06月15日 | 写真

昨日は熱川温泉に一泊し、今日は下田の歴史通りをペリー上陸地点から了仙寺まで歩いて来ました。

下の写真は上から順に、昨日、観光に行った城ケ崎の岩礁の写真、了仙寺までの歴史通りのアジサイの写真、それに下田の北にある白浜の波打ちぎわの写真です。

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都会の片隅にある ささやかな しあわせ

2011年06月15日 | インポート

東京で裕福なカップルは銀座、六本木などで遊びます。しかし質素なカップルが楽しそうにしてる場所があります。JR浜松町駅から竹芝桟橋へ歩き、そこから南隣にある日の出桟橋へ行きます。お台場行きの船にのります。下の写真のような船です。片道460円。レンボーブリッジの下をくぐり、お台場に行きます。30分毎に日の出桟橋とお台場を往復しています。

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20分でお台場です。下の写真にあるように、若いカップルが何組か船の屋上にいます。

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船着き場を上がってところに下の写真のようにショッピングモールが有ります。映画館コンプレックスもあります。2棟の8階建てのビルがお台場の商店街です。

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建物の7階と8階は香港の町並みを再現し、香港料理店が並んでいます。下の2枚の写真がその様子を示しています。

行った時は土曜日の12時頃でしたのでどの店にも若いカップルが沢山いました。皆静かに昼食を食べています。大声を上げる人は居ません。ささやかな しあわせ を見るような光景が広がっていました。

都会にはいろいろなささやかな幸せがあります。それらを丁寧に探して、写真に撮っていると自分もとても幸せな気持ちになるから楽しいのです。(終わり)

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梅雨の無い北海道の爽快な写真をお送りします

2011年06月15日 | インポート

富良野の あとみん さんは富良野健康生活というブログで、いつも素晴らしい北海道の風景写真を発表していらっしゃいます。お許しを頂いたので、いかにも北海道らしい爽快な写真を2枚お送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。出典は、http://furano2008.blog95.fc2.com/ です。

尚、この記事は2009年6月25日に掲載しましたが、あとみん さんの写真があまりにも美しいので再掲載させて頂きました。

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南米の風景のスケッチ3点・・・南米とはこんな雰囲気です

2011年06月15日 | インポート

ネズエラは南米大陸の北の部分を占める国。1976年に、2週間ほど滞在しました。南米は貧富の差が大きい所です。しかし信仰篤い人々が住んでいます。そしてスペイン人技師が働いています。その様子をスケッチ風に書いてみました。3枚の水彩画に題目をつけると以下のようになります。

(1)都会を囲む山の斜面にある貧民街

(2)荒れた闘牛場でのカトリックのミサ。

(3)奥地で鉄鉱石を掘ってているスペイン人技師。

熱帯特有の、あくまでも深い色合いの青空と白雲の下、人々は陽気で、明るく生きています。しかし、貧富の差の大きさと、生活の厳しさは想像を絶しています。ベネズエラの風景は何故か悲しい思い出として心に焼き付いています。

(1)山の斜面の貧民住宅地帯

首都、カラカス市の国際会議で知り合った研究者に山の斜面を案内して貰いました。彼も貧民地帯の出身です。

斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように、斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。誰も居ない、ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いていだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしています。我々をとがめるように、険しい目つきで見つめています。案内してくれた彼が何か現地語で挨拶し、話し始めます。時々笑顔を見せながら、彼と老婆が話し合っていました。

後で彼に聞いた事です。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で、皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったというのです。

(2)荒れた闘牛場でのカトリックのミサ

ホテルのデスクでキリスト教のミサに行きたいと相談しました。受付机のところにいたボーイが、それなら裏にある競技場へ、朝7時に行けと言います。翌朝行くと、荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしています。清潔そうではあるが、みんな貧しそうな身なりです。真ん中の円形の土の上に小さな絨毯をしいて神父さんが2、3人と、白い服を着た20人くらいの侍者を務める者の姿が見えます。

普通のカトリックのミサのようでもあるが、スペイン語が分かりません。でも雰囲気や式次第が日本のカトリックと少し違うようです。現地に昔からある原始宗教と交じり合ったようなミサの雰囲気です。ああ、これも良いものだと思いました。

回りの人々はスペイン人とインデオの混血で浅黒いひとが多い。日本人のように見える人々も多い。そんな中へ溶け込んでしまい、一緒に祈り、賛美歌も一緒に歌いました。メロディーを鼻声で。忘れられないカラカスでの思い出です。

(3)ジャングル奥地で働く技師たちとスペイン料理

早朝のカラカスの街を、四輪駆動車で出発しました。舗装の無いジャングルの道を4時間。鉄鉱石を露天掘りしている鉱山に着きます。

スペイン本国から来ている技師が英語で説明しながら採掘現場をあちこち案内してくれます。見学後、会社のゲストハウスで一緒に昼食をとりながら、案内してくれたスペインの技師がワインを勧めてくれます。良く冷えた辛口の白。スペインのある地方から取り寄せたと彼が説明します。アペタイザーに、透きとうる細長い小魚のカルパッチョ風の皿がでました。

味が良い。感心して褒める。それまで悲しそうな顔をして一度も笑顔を見せなかった技師が始めて笑顔になりました。これはアンギュラスと言ってスペイン独特の魚です。これが無いとスペイン料理になりません。本国から取り寄せました。日本人がスペインから輸入して、養殖してウナギにするので高くなりなかなか食べられません。

急に饒舌になり、いろいろ説明してくれます。ジャングルの奥地に住んでいると、料理の材料をスペインから取り寄せる以外、何の楽しみも無いと、寂しそうに話し続けるのです。

食後はシエスタ(長い昼寝)をしますと言って別れました。我々は赤茶けた凸凹道を車に揺られながらカラカスへの帰路につきました。

道路沿いには幹がスラリと高い椰子類のような樹木が茂り、木の下には見慣れない草が生えています。鉄鉱石を運ぶ長い無蓋貨物列車がゴットン、ゴットンと熱帯樹の向こうを走って行きます。スペインから来た技師の寂しさが身にしみる風景でした。(終わり)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人 

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上の写真は南米、ベネズエラの写真です。カナイマ国立公園で、観光客が丸木舟のような形の船に乗って、写真の奥の方の瀑布を見に行こうとしています。抜けるような青い空に、白雲が力強く湧いています。出典http://www.lonelyplanet.com/worldguide/venezuela/


この鬱陶しい梅雨を心楽しく過ごす方法・・・庭の花々と仲良くなる

2011年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム

梅雨時は鬱陶しいですね。その上、日を追うごとに気温が上がって来て、蒸し暑くなってきます。しかし、庭にある小さな花々にとっては快適な毎日らしく、日々美しくなっていきます。

そんな花々と仲良くなって、彼等の気持ちになって見ると梅雨時も心楽しく感じられるから不思議です。

小さな庭にいきいきと咲いている8種類の花の写真をお送りします。ムクゲ、アジサイ、ハナザクロ、ミオウヤナギ、テイカカズラ、アヤメ、スイレン、メドウセージ、の8種類です。梅雨の鬱陶しさが消えれば嬉しくおもいます。

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韓国の慶州の古墳と同じものが埼玉にある事をご存知ですか?

2011年06月14日 | インポート

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上の写真の出典は、「さきたま古墳群」 からです。下は家内が撮影しました。

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学校教育で古墳は大和朝廷が作ったもので大和地方にあると教わったものです。仁徳天皇の前方後円墳などを写真入りの教科書で習い、他の地方には前方後円墳は無いものと私は老年になるまで信じていました。ところが行田市の埼玉(さきたま)という地域に巨大な前方後円墳や円墳が9個も集中して残っているのを見て驚きました。

さきたまの古墳時代に強大な王国が存在したことを想像させます。出土した、見事な細工の金属製馬具や装飾品の展示もあり、5世紀終わりから7世紀はじめに作られた古墳から出たその他の副葬品が展示されています。

その金属製の馬具や飾りを見てハッとしました。1983年頃、韓国、慶州で見た古墳からの出土品とあまりにも似ているのです。素人の気安さで言えば、埼玉の古墳を作った人々は韓国、慶州から渡ってきたようです。高麗という地名も埼玉南西部に現存すくらいですから。

専門家の研究は詳細には知しません。しかし、戦中、戦後の学校教育では万世一系の天皇をよく強調していたのです。そのせいか、埼玉にも巨大な前方後円墳のあることを学校では教えなかったのでしょう。小生の勉強不足のせいか、老年になるまで古墳は大和地方にしか無いと信じていたのです。

あなたは埼玉県の行田市の郊外にこのように巨大な古墳群が存在している事実をご存知だったでしょうか?

尚、古墳に関する調査結果やその検証と写真は「埼玉古墳群」と検索するといろいろ出てきます。(終わり)

撮影場所:埼玉県行田市大字埼玉(おおあざ さきたま)、撮影日時:2008年6月7日午後1時頃、  撮影者:Mrs.藤山


親日国、モンゴルからの東日本大震災の見舞金が届く!・・・マイフレのモンゴル人、Munkh-Uulさん

2011年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム

モンゴル族は日本人の祖先のような人々です。日本が好きらしく多くの相撲取りが来てくれています。横綱になった人もいます。モンゴルでは相撲の中継もテレビであるそうです。そのモンゴルでは大震災の後すぐに募金活動が始まりました。既に義捐金も届いています。下の3月25日の産経ニュースをご覧下さい。

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モンゴル、全公務員に一日分の給料の募金を呼びかけ

産経ニュース:2011.3.25 22:05

 東日本大震災に対して世界各国からの支援が相次ぐ中、親日国モンゴル(人口約270万人)の政府が全ての公務員を対象に給料1日分の募金を呼びかける異例の対応をとっている。これが一般国民や企業の自発的な募金運動に発展し、すでに1億2500万円以上が集まった。モンゴルは24日に100万ドル(約8100万円)の義援金を日本に送ったが、この募金を元に救援物資または追加の義援金による支援を検討している。

 在日モンゴル大使館は日本への募金活動について「日本はモンゴルが市場経済に移行した1990年代、政府開発援助(ODA)で一番支援してくれた。国民みんなが感謝している」と語っている。

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===マイフレンドMunkh-Uulさんからメール===

マイフレンドの藤山様へ

私は藤山さんもご存知のように、モンゴル国の出身です。夏にはモンゴル全土を日本の旅行者とガイドしながら観光したり、写真撮影と大草原の花を見たりリラックスした旅が毎年をしています。子供どものときから色々な物に興味をもってチャレンジしたりしました。

今年もモンゴルへ多くの日本人をご案内したいと思い、HPを立ち上げました。

http://www.mongoljoho.com/ です。

このHPは、モンゴルへの旅行、渡航情報、ビジネスの情報、これからモンゴルに行かれる方への情報サイトです。モンゴルの歴史も書いてあります。
一般的な旅行情報だけでなく、ビジネスに関する情報についても幅広くお伝えしています。どうぞよろしくお願い致します。敬具、Munkh-Uul(ムンクオール)より

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今日の散歩・・・梅雨の空気の写真を撮る

2011年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ毎日、梅雨空がドンヨリ天を覆い、湿った空気がうっとうしく流れています。

そのような空気を写真に撮ろうと村山貯水池へ行きました。空気は透明で写真に写りませんから、周囲の木々のたたずまいや水面の影を写すのに苦労したようです。梅雨空の暗さや、湿った空気がご想像できれば嬉しく思います。

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身元不明遺体の土葬に読経をする僧侶

2011年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム

高野山で修業をし、お寺に属さないで托鉢しながら被災地を支援している修業僧がいます。高野山真言宗僧侶の望月崇英さんです。

4月上旬にはじめて行った被災地の東松島市での事です。身元不明の遺体を30体土葬にする場面に申して出て、読経をしたのです。そして一人一人を埋葬するとき丁寧にお経を唱え、引導を渡したそうです。もちろん身元不明ですから誰もお布施を出しません。

土葬には東松島市の環境課の相沢俊明さんが立ちあいました。相沢さんが言っています。「あの混乱の中でお一人ずつ丁寧に見送っていただき、ありがたかった。私たちも救われる気がしました」と。

修業僧の望月崇英さんは銀座で托鉢しながら、アルバイトをして、週末には被災地へ行くのです。

被災地へ行くと、瓦礫で埋もれた民家の前や海岸に独り立って、お経を唱えます。心を込めて犠牲者の冥福を祈ります。誰も近づきません。遠くから家族を失った人々がソッと一緒に手を合わすだけです。

いろいろな支援の仕方があるという話です。それだけの話です。昨日の読売新聞35ページに載っていた話です。

思い出します。昔、清朝の時代に北京では毎晩、赤子が街路に捨てられていたそうです。寒い冬には、朝まで凍った小さな遺体が幾つかあったそうです。当時、北京にいたイエズス会の神父たちが遺体を教会へ集め、お葬式をしてから埋葬していたそうです。不幸にして幼いまま死んだ子供達へ神様のいつくしみが豊かにあるように祈ったのです。神様が子供達を天にやさしく迎えてくれるように祈ったのです。清朝に仕えていたイエズス会のマッテオ・リッチ神父がローマ法王に送った書簡に書いてある話です。これも、それだけの話です。

しかし、上に書いた2つの話は何か似通っているような気がいたします。

つまらない話かも知れません。でも何か考えさせる話ではありませんか?


放射能の危険スポット、安全スポットの見分け方

2011年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム

福島県各地の空中放射線量は連続的にモニタリング・ポストによって測定され、毎日、新聞やネット上で発表されています。このモニタリング・ポストはソ連やアメリカの原爆実験で日本へ飛んでくる放射能を測定するため作ったので、測定器のある所は地上よりかなり高い所にあります。ですからこの測定は役に立たないという説を信じている人が多いようです。

しかし福島原発の水素爆発以来の継続的な測定値は大変重要な事実を示唆しています。

(1)福島各地の空中放射線量はゆっくりながら平常値へ向かって減少しています。この事は、福島原発の炉心から毎日空中へ上がっている蒸気に含まれるセシウムやヨウ素は極く少量で、遠方へな飛んで行かない。

(2)原発が水素爆発した3月12日から15日にかけて多量の放射性粉末が風で北西方向へ飛ばされ浪江町や飯舘村などに集中的に降下しました。そして福島市や郡山市のような大都会にも降り注ぎ、その空中放射線量は相変わらず平常値よりもかなり高いことが分かりります。

以上のような現象が起きました。これが「水素爆発以来の継続的な測定値」の変化から合理的に推定されるのです。

そうしますとセシウムやヨウ素の粉末が地上に積もっている状況が明快に想像出来ます。地上に積もった放射性粉末は風の日に空中に舞い上がり、雨の日にまた地表へ降ってきます。この繰り返しなので福島県各地の空中放射線量がなかなか平常値へ戻りません。

すなはち、水素爆発した3月12日から15日にかけて多量の放射性粉末が地面に降り積もり、それが空中と地面の間をウロウロして滞留しているのです。

しかしこのウロウロしている間に放射性粉末は雨の時、下水や河川へ流れて、少しずつ減少しています。この雨の作用や風の作用を考えると、「放射性粉末が集まる危険スポット」が想像できます。以下のような所は放射性粉末がますます集まる危険スポット所の例です。

(1)公園の舗装されていない広場や植え込みの中。

放射性粉末が雨でおりて来て、水だけが土中へ沁み込み、粉末は地表に蓄積して行きます。学校の校庭も土がむき出しなので同様です。

(2)田畑のうち、畑が危険スポット。

雨水を吸い込んで、放射性粉末が地表に蓄積するからです。特にビニール・ハウスの側の畑が危険です。

田圃は水が流れている限り、粉末も下流へと洗われているので、比較的安全です。

(3)本当に危険なスポットは自宅の庭。

公園が危険だからといって庭で子供を遊ばせる方が危険な場合があります。屋根の雨水が樋を通って庭土に吸い込まれているような庭が一番危険なスポットです。雨に降り注いだ放射性粉末が庭の表面に蓄積するから危険です。

屋根の雨水と庭の表面の雨水を、120%完全に下水管へ流す工事が出来ていれば安全です。しかし幾ら屋根の樋が壊れていなくても雨水は屋根から跳ね返されて庭にも落ちてくるのです。庭に放射性粉末が蓄積します。

特に庭土は風の日に家の中に吹き込んできます。そこは生活の場として一番長い時間を過ごすところです。公園や校庭が危険だから子供を遊ばせないことより先に、対策を施す事が緊急と私は信じています。

(4)水道用水の浄水場と下水処理場から出る濾過材の砂を取り扱う職場。

こういうところは子供は遊びませんが、職場の人が危険です。

危険スポット以外は安全スポットになります。しかしそんなに単純ではありません。上の論理に従って自分で創意工夫を重ねて、放射線の被害を最小にする努力が重要と信じています。

どうぞ皆さまのご意見をお聞かせ下さい。

それはそれとして、

今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


第60回水郷潮来あやめまつり 開催決定・・・今年も咲きました!

2011年06月12日 | 写真
 このたびの震災の影響により、今年度の開催が危ぶまれていた水郷潮来あやめまつりですが、水郷潮来観光協会、潮来市商工会をはじめとした、多数のあやめまつり協力団体の皆さんからのあやめまつり開催を望む声や、市内外からの多くのお問い合わせや応援メッセージを検討させていただいた結果、第60回水郷潮来あやめまつりの開催を決定いたしました。

【期間】5月21日(土) ~ 6月26日(日)
【内容】嫁入り舟運航、宵の嫁入り舟運航、ろ舟遊覧船運航等
※震災の影響により、園内で一部通行できないところがありますが、安全確保のためご了承願います。

■お問合わせ
 潮来市 観光商工課 TEL 63-1111 内線241 ~ 245

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