後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大震災は起きた・・・しかし世界平和が日本を覆う、復興だ!

2011年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真のように昨日の夕方、夏雲が出ていました。今朝は今年、初めての夏空が広がっています。

3月11日に日本では大地震と大津波、そして福島の4つの原発の爆発による放射能飛散という大事故が重なりました。家も職も失った人々がまだ10万人も避難生活をしています。家も職場も失い、不安な生活を続けているのです。

しかしここで、少し広い視野で世界の情勢を考えると元気が出て来ます。戦争の無い平和な世の中が続きそうです。平和が日本を覆い、数多くの外国の国々は日本の復興を物心両面から暖かく支援してくれています。

その一番大きな原因は第二次大戦後から1989年まで続いたアメリカとソ連の厳しい冷戦が終わった事によると思います。それは厳しい冷戦で、アメリカと安保条約を結んでいた日本はそのはざまで厳しい時代を過ごしてきたのです。

したがってこの大震災の復興の時期にあたって、もう一度、米ソの冷戦の終了の意義を考え直して見たいと思います。

それは復興への力強い心の準備になると私は信じているからです。

1989年のベリリンの壁の崩壊で、1945年の第二次世界大戦終了後から44年間続いた冷戦がアメリカ陣営の勝利で終わったのです。日本の周辺ではなにも変化が無く、北方4島は相変わらずロシアの領土のままです。従って日本人にとっては冷戦の終了はあまり大きな事件と思いません。しかし、ヨーロッパの東部ではロシアは衛星国を失い、ロシアの軍事防衛線が大きく東へ退いたのです。

以下の地図のようにポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営になってしまいました。更にその東のベラルーシとウクライナも独立してロシアの衛星国から脱したのです。その結果、ヨーロッパの東部とロシア西部の国境がとても大きく塗り替えられたのです。是非、下記のURLをクリックして新しい国々をご覧下さい。http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=56.57975141889055&lon=22.006962946169054&z=6&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=52.004151275936&hlon=19.007695368044&layout=&ei=utf-8&p=

その結果として、ポーランド北部とリトアニアの間に残ったロシア領のカリーニングラードが本国から切り離されて飛び地になったのです。この飛び地はロシアの軍事要塞として重要な意味があります。

それにしてもこの飛び地は不思議な存在です。そこで少し調べて見ました。歴史的には12世紀後半にカトリックの正式な修道組織として公認された「ドイツ騎士修道会」が布教と領土を求め東ヨーロッパへ侵入したことが原因になっているようです。ドイツ騎士修道会が作った国がプロイセンであり、現在のカリーニングラード付近を東プロイセンと呼ばれていました。第二次大戦の始まる前はドイツの飛び地でした

ロシアがそれを奪ったので戦後はロシアの領地になったのです。

ベリリンの壁崩壊の後で、エリツェン大統領がカリーニングラードをポーランドへ返還しようとしました。しかしポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営へ入ろうとしている情報を入手し、ポーランドへの返還を中止し、軍事要塞を自国の防衛の為に保持することになったそうです。

丁度、その頃、北方4島の2島をエリツェン大統領は日本へ返還しようとして橋本首相と交渉をしていました。それが突然中止になったのです。

何故か?私の個人的な想像を記します。ポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアがNATO軍事同盟へ加盟する動きをしたのでロシアは急に警戒を強めたに違いありません。当然、北方2島返還を止め、軍事基地設置を計画したと信じています北方4島返還はロシアとNATO同盟軍の動きと密接に関係していると思います。

日本では「北方4島返還」と空しく叫ぶ人が多いのも事実です。しかしそれはロシアの西側の東ヨーロッパで何が起きているかを考えないと無駄な叫びになります。

それよりも、大震災からの復興に心を注ぎ、努力することがもっと、もっと重要な事と私は信じています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

下の写真はエストニアの首都リガの風景です。出典は、http://www.tripadvisor.jp/Tourism-g274967-Riga-Vacations.html です。

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「罪を憎んで、人を憎まず」を福島原発事故へ応用するとこうなりますね

2011年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

「罪を憎んで、人を憎まず」を福島原発事故へ応用するとこうなるという短文です。

東京電力の人々や原発を推進して来た経済産業省のお役人を人間的に憎むのはそろそろやめませんか?

しかしこの大事故の被害を受けた人々は可能な限り大きな補償金を貰いましょう。精神的な被害をお金でつぐなう事は出来ません。困った事です。この絶対に癒されない被害は永久に忘れないようにします。これが「罪を憎む」という事と思います。

他人を憎むことは自分の精神の平穏さを失うことになります。損なことです。しかし憎らしい。人間ですから当然です。被害者のこの気持ちへ心を寄せて、同情することは大切なことです。

しかし東京電力や原子力安全・保安院の人々を人間的に憎んで、何か得るものがあるのでしょうか?それよりは原発反対運動を繰り広げたいと思います。

原発反対集会やデモ行進は沢山ありました。今後もあるでしょう。

しかし新聞社もテレビ局もその事実を報道しません。電力会社から安い業務用の大電力を買って新聞社は輪転機を回し、テレビ局は送信用のあらゆる電気装置を動かしているのです。電力会社を怒らせるとこの業務用の電力を停電されてしまうのが怖いのです。業務用の電力の値段を上げられるから怖いのです。

他人を憎まず、冷静に賢く考えて、「原発反対運動」の戦略を作るほうが良いと信じています。あなたはいかがなお考えでしょうか?


湧水の清冽さ、冷たさを写真に撮る

2011年06月21日 | 写真

今日の東京は蒸し暑く、夏が近いことを思わせます。こんな日には冷たくて、清い湧水が恋しくなります。そのような湧水の清冽さ、冷たさを撮ったつもりの作品を1枚お送りいたします。

国分寺や小金井の崖線(ハケ)の下にはあちこちにこのような湧水が出ています。この写真は現在の国分寺裏のお鷹の道の湧水です。冷たさをご想像下さい。私はなるべくエアコンの代わりにこのような写真を見て、この夏を過ごしたいと思っています。

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完璧な鎧・兜を着た国宝の埴輪をご紹介いたします

2011年06月21日 | うんちく・小ネタ

174001 古墳時代の武人像です。こんなに精巧な鎧、兜を着ている全長130cmの大型埴輪は珍しいです。約1600年前の古い時代から完璧な鎧や兜が作られていたのです。その精巧さの故に国宝に指定されています。 挂甲武人埴輪(けいこうぶじんはにわ)です。

鎧と兜の構造は日本の戦国時代のとは随分と違い、朝鮮やモンゴルの武人のものに良く似ています。群馬県太田市で出土したものです。古墳時代の関東地方は大和地方と同じような豪族文化を誇っていたことが伺えます。

こんなに保存状態が良く、当時の武人の顔まで描写されているのは珍しいと思い、ご紹介いたしました。写真の出典は、http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0020-006kikaku-kouhou/saihakken/no-17.html です。

馬県太田市飯塚町で昭和初期に出土した埴輪です。

この情報を下さった、川野辺忠志さんへ感謝します。


大震災に襲われても静かに、そして毅然としている日本人を世界中の人が絶賛しています

2011年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

大震災後に沢山の外国の人々が日本人を褒めていました。世界中の国々の人が褒めるのです。静かに運命を受け入れ、毅然として生きている様子に吃驚したようです。秩序を乱す人も居なくて、東北各地の避難所には平和な雰囲気があったのです。

パニックになった人が居なかった事にも外国人は感動しています。特に尖閣諸島の問題で日本を目の敵にしていた中国人が褒めるのです。尊敬するのです。そして中国人は日本人を手本にしなければいけないとまで言うのです。

そんなにまで褒められた事の無い日本人はビックリしました。それ以来、私は何故日本人はこんなに立派な態度をとれたのだろうかと考え込んでいます。もう3ケ月以上になります。それで最近その理由が分かりました。日本人は精神修養を大切にする伝統があったのです。いかなる大事件が起きても騒がず、静かにする訓練を大切に思っています。

その考え方は仏教の教えにもとづいています。千年以上にわたって民族宗教として日本人が大切にしてきたのが佛教です。それは現在の日本人の行動規範になっているのです。この世の全ての事は必ず変わります。どのような事が起きても執着心を捨てその運命を受け入れなさい。この世は無常です。静かにし、微笑みながら何事も無かったように生活を続けなさい。

このような精神を持っている日本人は立派です。私はカトリックですが、祖父が曹洞宗のお寺の住職でした。仏教関係の本も読みました。玄奘三蔵法師も尊敬しています。弘法大師は尊敬よりも、どちらかと言うと大好きな方です。自分がカトリックの洗礼を受けてから仏教の良さが深く理解出来るようになりました。ですから私は佛教的キリスト教信者なのです。その立場から見ると、日本人の偉さは、佛教が血となり肉となっている事に起因していると鮮明に分かるのです。多くの日本人はその事を意識していません。それも良いものです。

日本は必ず復興します。以前より一層良い国になります。多くの外国の人々が日本人を称賛しているのです。その称賛を裏切るわけにはいきません。

大震災から100日以上経過して、私は次第に明るい希望が見えて来ました。被災地の人々も必ず明るい希望を見い出すと信じています。皆様はいかがお考えでしょうか?被災地の方々の心と身体のご回復を心からお祈りしております。


アメリカとイスラム圏の戦争の原因(二)ナチスのユダヤ人殺戮の結果、イスラエル国家が出来た

2011年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

ユダヤ人がドイツ占領地域で虐殺されている間、アメリカ、イギリス、フランスに数多く住んでいたユダヤ人は連合国側へ助けを求めます。そして自分達の独自の国家を作ろうとしました。英国政府は中近東の植民地へ作ることに合意したのです。その一方でパレスチナ人へも独立国家を作ることも認めたのです。これが後に有名になった英国の二重外交です。

そもそもイスラム教徒が住んでいた中近東に無理やりユダヤ人の国家、イスラエルを作ったのです。第二次大戦直後に、英国の支配地だった中近東に住民の合意も得ずに一方的に作ったのです。それが現在も続くイスラエルとパレスチナ自治政府との間の果てしない戦いの原因になっています。そしてこの争いが欧米とイスラム圏との間の争いに発展して、テロ戦争へと続いたのです。この戦争は今後も長期間続き、世界の平和の脅威になる事でしょう。

このテロ戦争はイスラム教過激派とキリスト教国、アメリカの保守派との戦いなのです。長期化するのが当然です。その一方、日本は仏教国なので精神的には中立の立場になれるのです。

日本は、アメリカと軍事同盟を締結していますから、アメリカの軍事的な作戦へ協力します。しかし精神的には、比較的中立的な立場に立っています。ですからこそ、日本ではイスラム教過激派のテロ事件がほとんど起きません。

この日本人の精神的な中立は日本が佛教国であることでイスラム圏の人々が自然と認め、尊重してくれているのです。

その上、以下に書いた事情によって日本はユダヤ側からもイスラム圏からも好意的に見られているのです。

日本はドイツのユダヤ人の大量虐殺にも中立の立場を貫いたのです。

ドイツと同盟国であった日本はユダヤ人虐殺へ協力しなかったのです。それどころか満州に多数のユダヤ人を受け入れる計画すらあったのです。ドイツは当然それへ反対し、上海へユダヤ人のゲットーを作るように日本の軍部へ圧力をかけてきたのです。その詳細は、2010年4月2日に掲載した記事、この美しい日本はユダヤ人大量虐殺に関する限り完全無罪です! に書いてあります。奇想天外!関東軍のユダヤ人の大規模救済計画ー河豚計画 もご覧下さい。

結果として日本はユダヤ人を迫害もせず、中近東地域を軍事占領もしなかったので、アラブ社会は日本人の精神的中立性を認める結果になったのです。

現在、多くの日本人は無宗教です。仏教の信者でないと公言してはばかりません。しかし外国からみると日本はまぎれも無い佛教国なのです。その事実の重要性を日本人自身が知らないだけの事です。

国際関係を決めるのは経済関係や軍事力だけではないのです。そこには宗教の影響が非常に大きい場合があるのです。それを無視している日本人が多いのです。不思議だと時々思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


今日の散歩・・・緑深い蓮の葉の写真を撮りに行く

2011年06月20日 | インポート

霞ヶ浦の北側の湖岸には一面の蓮の田圃が広がっています。梅雨時になると鮮やかな緑色の葉が出て来て美しい光景になります。今日はその葉の美しさを写真に撮ろうと思い、家内とあれこれ撮って来ました。蓮の田圃に囲まれて、藁ぶき屋根のウナギ屋も見えます。よく行った店なので、なつかしくなり店先の写真を撮りました。

のんびりした風景写真を5枚お送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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アメリカとイスラム圏の戦争の原因(一)ヒットラーのユダヤ人大量虐殺の意味

2011年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

欧米諸国の主な宗教はキリスト教です。そのキリスト教の創始者はナザレのイエスという男でした。多くのの弟子を持っていましたが、最後に、ユダという名の弟子に裏切られて逮捕され、十字架に付けられて処刑されてしまったのです。

キリスト教はユダヤ教の一派として発生し、次第に分離、独立し世界宗教に発展して行ったのです。一方、ユダヤ教はユダヤ民族だけの民族宗教として長く存続して来ました。そして、このユダヤ民族はヨーロッパ各地に散在し、キリスト教徒の中の少数民族として暮らしてきました。

少数民族である上に、キリスト教の創始者を殺害したユダヤ人はいろいろな時代にヨーロッパ各地でキリスト教徒による迫害を受けてきたのです。

その迫害を大々的に組織化し、毒ガスで多数のユダヤ人を一挙に殺す方法を考案し、多量殺害を実行したのがヒットラーという男です。

600万人以上といわれるユダヤ人の大量殺戮を実行したのです。ヒットラーによるホロコーストでです。

更に、この狂気の殺戮の対称ははユダヤ人だけで無かったのです。50万人ものジプシーもホロコーストにあっています。ジプシーは日本では「流浪の民」という歌で、何かロマンチックで楽しそうな民族として受け止められて来ました。この平和で無力な民族もヒットラーによって殺戮されたのです。

第二次世界大戦中にドイツの占領地域が広がると、ナチスは多数のユダヤ人とロマ(ジプシー)を抱えこむことになりました。

ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマも殺害したのです。

ヨーロッパ諸国はイギリスの産業革命以来、汽車や自動車を作り現代文明を完成しました。そのキリスト教徒のヨーロッパ人がユダヤ教の民族を殺したのです。それも日本人には想像も出来ない残酷な方法でです。

西欧文化には輝かしい面もありますが、底知れぬ闇がつきまとっているのです。

それはキリスト教が他の宗教を駆逐したいという暗い本質を持っている事です。勿論大変間違った考えです。イエス様は絶対にそんな事を教えていません。逆に、「汝の敵を愛せよ。そして隣人を愛せよ」と教えているのです。

しかしナチスのユダヤ人殺戮の事情をもう少し詳しく観察すると、キリスト教徒の間違った怨念がどうしても見え隠れするのです。

ドイツ軍はポーランドに8つの絶滅収容所を作って270万人のユダヤ人を殺しました。こんなに多くの残酷な収容所を作ったのはポーランドだけでした。アウシュヴィッツ、ビルケナウ、モノヴィッツ、ソビブル、トレブリンカ、ヘウノム、ヘウジェツ、マイダネク、の8ケ所です。ポーランド人の協力もあってドイツ軍は99%のユダヤ人を絶滅出来たのです。

ポーランドはローマ法王のヨハネ・パウロ2世の出身国で、圧倒的なカトリック国です。その国民がヒットラーに協力してユダヤ人の99%を処刑させたのです。

キリスト教徒の支援が無ければ99%の絶滅は困難です。これでもキリスト教徒は完全に無罪なのでしょうか?カトリック信者の私がいつも暗い気持ちになります。しかしこの事実を絶対に忘れないように何度も書いています。

このような欧米人の宗教観が、現在でもアメリカとイスラム圏の対立へと連続的に繋がっているのです。その歴史的な事情は続編で少しずつ書いて行く予定です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


アメリカとイスラム圏の戦争の原因(一)ヒットラーのユダヤ人大量虐殺の意味

2011年06月19日 | インポート

年老いて来ると自分の利己心から解放されて、20世紀の世界で何故いろいろな大戦争が起き、それが原因でイスラム圏とアメリカの果てしない戦争が現在でも続いているかが明快に分かります。特に私はカトリック教なのでヒットラーのずるいやり方と、それに賛同したドイツ人の気持ちが分かるのです。そして中近東のパレスチナ人の土地に無理やりユダヤ教のイスラエル国家をイギリスやアメリカが作ったか?その気持ちが分かるのです。しかし全ては大間違いでした。その間違いが、アメリカとイスラム圏の果てしない戦争の原因になっているのです。

人間の悲しい性(さが)です。明日からシリーズ記事としてこの問題を取上げて行きたいと思います。この短文はその予告編です。乞御期待。


ビール工場見学の勧め

2011年06月19日 | 写真

先に20分だけ見学すると、中ジョッキ3杯頂けます。工場で出来たてのビールなので美味です。ちょっとしたオツマミもついていました。先日、伊豆旅行の途中。小田原の北にあるアサヒビール神奈川工場です。下に写真をお送りいたします。

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私の宗教にかかわる遍歴(1)祖父が田舎の寺の住職でした

2011年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

宗教を信じる人、信じない人、どちらでも良いと思います。宗教を信じない人は、宗教的雰囲気や風習にふれるチャンスが無かっただけなのかも知れません。

宗教は所詮、伝承と生活習慣の一部として子々孫々つたわって行くもののようです。私は現在、カトリックの教会へ通っています。洗礼も受けました。何故、カトリックになったかを時々考えています。

人生の危機に遭遇して、それがキッカケになって入信したわけではありません。なんとなく洗礼を受けいたのです。いろいろ考えると幼児体験が非常に重要だったと思っています。

祖父は兵庫県の山里の曹洞宗のお寺の住職でした。梅田駅から出ている阪急電車を途中で、能勢の妙見さんへ行く支線へ乗り換え淋しい駅で下ります。そこからは予約しておいた箱型の黒いタクシーで山里の集落まで行きました。毎年、夏になると、仙台の大学で化学の研究をしていた父が一家5人で帰省していました。

お寺は高台の石垣の上にありました。水田の広がる30軒位の集落を見降ろす高台に石垣を築き、質素な山門と鐘楼と本堂と客殿からなっていました。全てが小さな作りです。それらが石垣の上にあり、白壁の塀にグルリと囲まれています。小さな、小さなお伽のお城のような感じです。

毎朝、祖父が袈裟を着て、本堂に坐って読経します。孫の我々も坐って簡単なお経を唱えます。それが終わってからお粥の朝ごはんです。

お寺での夏の数週間の生活は珍しい事の連続でした。お盆には和尚さんが10人位、色鮮やかな袈裟を着て、輪になって読経するのです。施餓鬼供養と言っていたようです。里人が神妙な顔で回りに坐っています。我々も坐って見ていました。

このお寺の生活の全ては、30軒位の里人によって支えられていたのです。秋になると白壁の小さな蔵の中に1年分の米俵が積み上げられます。野菜は毎日のように里の女性がお寺に持って来ます。裏玄関に坐り込んで祖母と関西弁で話しこんでから帰ります。祖母は大黒さんと呼ばれ、里人に好かれていたようです。下の田圃の向こう側にある小川に沢ガニをよく獲りにいったものです。里人に会うと丁寧に挨拶をしてくれ、「大黒さんは元気ですか?宜しく言って下さい」という意味の事を関西弁で言います。住職の話が出ないのです。カンシャク持ちの祖父は敬遠されていたのかも知れません。

老年になった現在考えてみると大黒さんがみんなに好かれていた事がお寺の生活にとって重要な事だったと思い至ります。

しかしそれとは関係なく、住職だった祖父の色鮮やかな袈裟姿や読経の声が心に焼き付いたのです。それは幼い私が経験した強烈な宗教的体験として、のちのちの私の宗教的遍歴を支えていたのだと思います。

その佛教的な幼児体験がいつの間にかカトリックへと繋がったのも不思議なことです。その経緯はゆっくりと続編で書いて行きたいと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


1854年江戸幕府開国、日米和親条約と下田条約関連の風景

2011年06月18日 | 写真

1853、米国特史、ペリーが浦賀に上陸し、翌年の1854年再び来日し、横濱の、現在の神奈川県庁付近に設営した会議場で日米和親条約が調印されました。そして続けて交渉の場を下田へ移し、了仙寺で日米和親条約の細則の下田条約を作ったのです。それに従って下田の玉泉寺にはじめてのアメリカ領事館が出来、ハリスが初代領事として着任したのです。このように下田は日本の歴史上大事件である鎖国から開国への転換の地となったのです。

1854年、ペーリーが上陸し、交渉の場の了仙寺まで軍楽隊を従えて威風堂々と行進した道が当時の雰囲気に復元されて観光道路になっています。その道にはナマコ壁の家が並び、アジサイが咲いていました。開国博物館もあります。そんな風景写真を示します。下田に行ったら、この歴史通りを是非訪れてみて下さい。

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オバマ大統領はアメリカの黒人差別克服のあかし・・・その苦しみの歴史を忘れない

2011年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

人間世界には格差や差別が付きまとうものです。少し気を許すと以前の差別社会へ逆戻りします。ですから常に差別の歴史、それを克服した努力を振り返って、忘れないようにする事が非常に重要だと私は信じています。

現在、世界一の国力を有し、自由と平等を謳歌しているアメリカ合衆国も黒人差別の恥ずかしい歴史が有ったのです。つい最近まであったのです。

黒人のオバマさんが大統領に選ばれた事は黒人差別撤廃の成功の「あかし」として歴史的な大事件でした。

昔の黒人差別のすさまじさを知っていた私は思わず、「万歳!アメリカ人は偉い!」と何度も、何度も心の中で叫びました。その叫びは現在でも続けています。

そこで、以下に私が見たアメリカの黒人差別の実態をご紹介したいと存じます。

◎50年前のアメリカの黒人差別の実状

1960年から二年間、オハイオ州の州都コロンバス市に住んでいました。バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろ。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言うのです。それ以来、白人席の末席に座るようにしたものでした。

コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていました。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人は立ち入り禁止です。

オハイオ州立大学には黒人学生が居ませんでした。居たとしても、その数は圧倒的に少ないので私は見た事がありませんでした。教授は当然、皆白人でした。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人には禁止されていた職種でした。

初めのころはこのような厳しい差別に心が痛み暗い気持ちになったものでした。しかし、少し経つと慣れてしまい、当然と思うようになるのです。 人間とはそのようにいい加減なものなのです。

日本の芝居ではよく黒子が舞台へ出入りしますが、だれも気にしません。黒人をこの黒子と思えば黒人が見えなくなるのです。この秩序は慣れてしまうと実に快適です。

ある時、アパート代の安い黒人街の物件を見に行くと、案内の黒人女性は柔和で大変親切です。アパートもかなり立派で、しかも安いのです。

引っ越そうとして大学の白人学生に相談したところ、ものすごい勢いで反対するのです。黒人は親切だが、貧しい親戚がしょっちゅう君のアパートに来て、食べ物をねだる。勉強なんかできないと言うのです。

後で分かったのですが、本当の反対の理由は黒人差別の秩序が壊れるのを恐れていたのです。

アメリカは自由と平等の国と聞いていましたが、50年前には凄い黒人差別が厳然としてあったのです。

@黒人差別克服への努力、そして色々な試みの挫折

その後、ベトナム戦争がありました。黒人兵は危険な最前線に出て活躍したので、白人が黒人を見直し始めたのです。

国内では黒人差別撤廃の公民権運動が盛り上がりました。リーダーは、後に白人に暗殺されたキング牧師でした。

そのキング牧師の暗殺された日を休日とし、哀悼の意を表する州が数多く出来ました。私の住んでいたオハイオ州もそうです。全官公庁・学校が休みにして、キング牧師を記念する日になっています。

1990年前後にもコロンバス市に二年間住みました。

すると流石にバスの白人席と黒人席はなくなり、皆一緒に座るようになっていました。オハイオ州立大学も黒人学生が三分の一くらいになっています。周辺のレストランの黒人席と白人席の区別はなく、混じって座っているではありませんか。黒人の差別は非常に弱くなっていたのです。

同僚のR教授とビールを飲みながら、「30年経って住んでみると、黒人差別がなくなっているので驚いた」と言うと、R教授は「先祖の犯した罪は子孫が償う。公共の場所での差別はなくなった。しかし、居住地は相変わらず南と北に分離されている。黒人学校と白人学校は依然存在している」と言うのです。

そして、R教授は悩ましそうに続けます、「表面的な差別は撤廃できるが、心の中の差別は簡単になくならない」と。

私:「でも、先日、白人と黒人の若者が一緒に楽しそうにバーベキューをして騒いでいたが…」

彼:「そのような慈善活動をする若者グループが多くあり、混合ダンスパーテイなども実行する。しかし、帰る家は別々の住宅街にある」。

コロンバス市では、黒人小学校と白人小学校の児童分布を平等にするため、毎日、バスを黒人街へ黒人児童を迎えに行かせ、白人小学校へ送り込む。白人住宅地域へもバスを送り、その逆を行う。こうしたバス送迎を徹底し、白人と黒人の児童が完全に交じり合った教育を三年間続けたそうです。

しかし、黒人の子供には特有の遊び方があるのです。それと同様に、白人の子供にも友達同士の付き合い方が黒人の子供と異なっています。

大人の偽善的な試みの犠牲になるのは両方の生徒だったのです。この試みは両方の子供の反対に遭い挫折したそうです。3年間だけで終わったのです。

@黒人差別撤廃への社会運動の成功

1990年以後にもアメリカ各地を旅行しました。

色々聞いて見ると、どの会社も黒人を一定割合以上採用しなければならないという規則がるのです。

テレビやマスコミも黒人差別撤廃のキャンペーンを繰り返しています。

その結果、白人だけの高級住宅地区へ黒人も混じって住むようになりました。

その頃から黒人の市長があちこちで選ばれるようになったのです。そしてブッシュ政権では黒人女性のライス国務長官が大活躍しました。

そしてついに黒人のオバマさんがアメリカの大統領として選ばれたのです。公民権運動のさなか銃弾に倒れたキング牧師は天国で大いに喜んでいるに違いありません。

@日本に於いての黒人差別

アメリカ本国では黒人差別はかなり無くなったのです。しかし日本へ来る黒人をあなたは差別していないでしょうか?私は時々心配になります。電車の中で、路上で道を聞いている黒人へ人々はあまり親切ではないようです。

人間は自分が差別されると非常に怒りますが、割合気楽に差別をする傾向があります。この傾向を忘れないで差別撤廃に努力しなければなりません。常に努力する事が重要と私は信じています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


今日の散歩の代わりに庭の花の写真を撮る

2011年06月17日 | 写真

今日は昨夜からの雨が続いていて外出出来ません。散歩の代わりに庭の花の写真を撮りました。梅雨の水滴がついた花や葉が新鮮に見えます。写真は上から順に、3年前に潮来から引っ越して来たアヤメ、スイレン、ガクアジサイ、クチナシ、ミオウヤナギです。

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