後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昭和時代を参考にして大災害から立ちあがろう!・・・昭和21年からの天皇の全国訪問のことなど

2011年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム

034

200804_hei_0311

035 200804_hei_011 200804_hei_021 Sp_03new1

今回の東日本大震災の被災地を今上天皇が丁寧に回って、人々を勇気づけていました。避難所では膝をついて、美智子香皇后さまが人々へ優しく話かけていました。

その様子を見ながら、私は終戦直後の昭和天皇の全国訪問の姿を思い出しました。美空ひばりも死んで、もう随分になります。戦後活躍していた映画俳優も次々旅立ってしまいました。小説を沢山書いていた文士も死んで行きました。ああ、昭和は本当に遠うくなったものです。しかしもう一度昭和という時代を思い出しましょう。すると元気が出て来ます。力が全身にみなぎってきます。

終戦直後の昭和天皇の全国訪問の時の写真を多数展示している記念館があるのです。昭和天皇の背景に写っている光景は戦争の荒廃です。栄養の悪い人々が群がっているのです。それでも日本は復興したのです。今回の大災害から日本は必ず復興します。

昭和天皇の全国訪問の時の写真を多数展示している記念館は、立川市の昭和記念公園の花みどり文化センターにあります。

昭和21年から29年にわたる全国の津々浦々へ行幸なさったたときの白黒写真のスライドが大写し画面で、ゆっくりと流れます。筆者が住んでいた仙台市へいらした時のもあります。小学6年生の秋でした。小旗を振ってお迎えしたのを思い出しました。展示のスライドは全国各地の人々の群れに囲まれた天皇のお姿が映っています。みな貧しげな服装ですが、栄養の悪い顔が明るく輝いているのです。

この時ほど昭和天皇を身近に感じたことがありませんでした。全国の都道府県をすべて巡幸されたのです。沖縄県以外は。

沖縄では基地反対運動などで騒然とした時代が長く続いたのです。天皇の訪問はついに 昭和62年、沖縄国体の時に決定しました。しかし残念にもご病気で取り止めになり、代理で皇太子、現在の平成天皇が行きました。

その時皇太子へ託した沖縄県民への手紙も展示してあります。沖縄上陸作戦に民間人が巻き込まれ、悲惨な地上戦が3ケ月も続い沖縄です。そんな沖縄への切々たるお気持ちがあふれた文章です。人間性豊かな天皇でした。終世、沖縄訪問を願いつつ果たせないまま亡くなったのです。

また展示室右手上には6枚の大型液晶画面があり87年のご生涯の映像が出ます。

晩年にテレビ記者と会見したときのお元気な御声をかなり長時間聞くことができ、あす。これは係の人に申し出て聞くようになっています

展示室の中央には昭和10年から52年までご愛用になられた箱形ベンツ乗用車が磨きあげて飾ってあします。たびたび新聞写真でみた懐かしい乗用車です。

館内は撮影禁止なので入口のドアーと受付のところの2枚の写真以外は記念館のホームページ、http://www.f-showa.or.jp から引用しました。 下の列の左から2枚目は87年のご生涯の折々のお写真、3枚目は生物研究室の様子、4枚目は公務用の机、5枚目は昭和3年のご即位の折の行列の一部の様子です。

昭和という時代は本当に激しい時代でした。大きな戦争があり300万もの人が戦死し、満州からの引揚げの途中多くの人が死んだのです。55万人がシベリアへ強制連行されたのです。アメリカの軍隊が日本中を占領していた時代もありました。

そんな昭和も遠い、遠い過去の事として忘れられようとしています。

しかし今回の大震災の復興の為にもう一度思い出して見るといろいろ参考になる事が多いと信じています。今回の大災害からの復興を信じることが出来ます。

今日は今回の大災害で被害を受けた人々が希望を持って、もう一度立ちあがる事が出来ますようにお祈りいたします。被災者の皆様のご健康と心の平穏をお祈りしています。藤山杜人

下の写真は孫に囲まれる昭和天皇と皇后です。

Tennouheika1


今日の散歩・・・海岸禅寺の庭の散歩

2011年06月11日 | 写真

いつ行っても庭が丁寧に手入れされていて清らかなお寺が近所にあります。墓地を売り出しているとか駐車場を貸していたりして居ません。金銭慾の無い清楚なお寺です。庭には枝を低く垂れた見事な松の大木があります。睡蓮の花が咲いている池もあります。勝手に庭へ入っても、暖かく歓迎されているような雰囲気が好きで時々散歩に行きます。本堂の外廊下に坐って静かに庭を鑑賞します。お寺の人も、訪れる人もいない静かな時がゆったりと流れて行きました。

寺の前には広い駐車場があり、感心なことは落ち葉が何時も掃き清められています。いかにも禅宗らしいすがすがしいお寺です。以下に先程撮って来た写真をお送り致します。

007 013 009 001 016


カトリックでは世界中で同じ祈りを唱えています

2011年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

日本のお寺で読まれるお経は唐の玄奘三蔵法師がインドから持ち帰ったものです。ですから中国と韓国と日本のお寺で読まれる経典は同じです。お釈迦様の教えは国境と関係なく大切にされています。

これと同じようにイエス様の教えたキリスト教は世界中で同じような祈りが唱えられています。

特にカトリックという宗派ではローマのバチカン法王庁が決める礼拝の式次第と祈りの言葉が世界中で共通に使われているのです。ですから外国へ行ったとき行きずりのカトリックの教会に飛び込んで、ミサに参加しても式次第が同じなので良く理解出来るのです。祈りの言葉も全く同じです。人種や文化が違っても祈りの言葉が同じなのです。人類は皆同じ家族で、この青い惑星の上に一緒に住んでいるという実感が持てます。

私が行っているカトリック小金井教会にはいろいろな国の人が来るので、式次第と祈りの言葉を6つの言語表示で並べて書いた冊子が置いてあります。日本語と、そのローマ字表記、そして英語、スペイン語、ポルトガル語、それにタカログ語です。東京には中南米の人とフィリッピンの人が多いので、その人々の為に置いてある冊子です。

この冊子のなかで私が一番大切に思う祈りは、「主の祈り」です。イエス様が2000年前に神に祈った時唱えた祈りを、そのまま現在の信者達が唱えるのです。日本語と英語で示すと以下のようになります。

「主の祈り」

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にもおこなわれますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。

わたしたちも人をゆるしします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。

LORD'S PRAYER

Our Father in heaven,holy be your name,

your kingdom come,

your will be done on earth, as in heaven.

Give us today our daily bread.

Forgive us our sins as we forgive those who sin against us.

Do not bring us to the test but delover us from evil.

この「主の祈り」は弟子達がイエス様へ、「どのように神様へお祈りしたら良いのですか?」と聞いた時、イエス様が教えてくれた言葉なのです。祈りの内容は全能の神様が天と地上をおまねく治められますようにという前半分の部分と自分達へ毎日の糧を下さり、罪を許してくれるようにという後半分の2つの部分からなっています。

私たちが神社で、神様へ家内安全、商売繁盛を祈りますがそのような事は自分の利害に関する事なので神へ祈ってはいけません。そのような祈りはカトリックではマリア様へお願いすることになっています。当然、戦争の時に自分達が勝つようにと神に祈ってはいけません。勝っても負けても私達へ神様の豊かなお慈しみがありますようにと祈ります。

以前、神田のニコライ堂でロシア正教の流れをくむ日本正教会の礼拝に出た事がありました。その礼拝の間に平成天皇のご健康を祈る言葉が出て来た事に驚きました。日露戦争の間も明治天皇のために祈っていたのです。

宗教と政治権力者の関係はなかなか簡単に割り切れるような単純な問題ではないのかもしれません。

つまらない話を書いて失礼致しました。終ります。


ふるさと仙台にまつわるエピソード(4)江戸時代に仙台を繁栄させた商人、職人などの町民たち

2011年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

江戸時代の全国の城下町を繁栄させたのは商人、職人などの町民たちでした。武士たちは町の中心の良い場所に広大な武家屋敷を構え、住んでいましたが生産活動や経済活動はしない消費階級でした。それとは対照的に城下町を豊かにしたのは士農工商のなかの工商階級でした。

仙台にも鉄砲町や鍛冶町があり職人が鉄砲や刀剣を、そしていろいろな農機具を作っていました。しかしこの職人たちは名前を残しません。記録もまれです。

しかし商人の方は記録がいろいろあります。郷土史家、田村昭さんによると仙台で一番古い店は田善銅器店(1596年)で、それから河原町にあった五軒茶店(1623年)や千松島酒造(1673年)などが記録に残っているそうです。

仙台藩は近江に飛び地の領地を持っていたこともあり、江戸中期に京都や滋賀からの商人が移住して来ました。奥州街道と仙台の大町通りの交差点にある「芭蕉の辻」近辺に店を構え、京都、大阪との商売で大きな儲けをもたらし、仙台を潤したのです。そのような豪商の代表は江戸中期の日野屋の中井新三郎です。現在の滋賀県の日野村からの移住者でした。

そしてもう一人居ます。現在の京都府の丹波の八木村から移住してきた豪商で、芭蕉の辻の近くに、「紅久」という化粧品や小間物を売っていた店を構えたそうです。「紅久の」の創業は天明3年の1783年と言われています。その他、近江商人が何人も移住して来て、薬品店、小間物店、呉服店などなどを開業し、仙台の城下町は繁栄の時代を謳歌したのです。

仙台と京都の物流は西の峠を越して最上川に出て、酒田まで川を下って行いました。酒田には近江商人の町があり、そこを経由して北前船で京都、大阪と取引をしていたのです。現在、酒田や鶴岡、そして北海道の松前へ観光旅行をすると当時の近江商人の豪商の屋敷などがあって、北前船の重要性がよく理解できます。

明治維新が起きましたが、商人や職人は江戸時代のままの活躍を続けたのです。鉄道や銀行を作ったのは仙台の豪商たちでした。明治20年頃になって政府がやっと整い税収が増大してから鉄道も銀行も民間から買い上げて国有にしたのです。

その明治時代に活躍した豪商の一人に「紅久」の4代目、八木久兵衛がいました。現在も仙台にある七十七銀行を作り、仙台味噌で大儲けをし、上野から仙台まで鉄道を敷き、兎に角、八面六臂の活躍をします。終いには勅撰の貴族院議員になります。そうして仙台城の南西の広大な裏山を全て買い取る決心をするのです。実際にこの広大な国有の土地を買収する事業を完成したのは五代目の八木久兵衛の時です。そのお陰で、現在の仙台市に、「八木山」という地名が残りました。

その5代目、八木久兵衛の息子が八木栄治さんです。私が向山小学校へ通って居た頃、この栄治さんの一人娘が同級生に居ました。あまり目立たない大人しい子供でした。小学校卒業以来、消息を聞いていません。

しかし八木栄治さんは小学校のPTA会長をしていたので何度かお会いしました。いかにも金持ちという鷹揚な態度で、やさしい話ぶりだったのを覚えています。

八木栄治さんの家は八木山の松林の中にある一軒家でしたが決して贅沢な家ではありませんでした。当時はそれでも広大な八木山一帯の土地を持っていて、その後、仙台市が動物園を作る時土地を寄付したり、住宅地へ開放したりして戦後の仙台の発展へも貢献していました。

権力を持っていた伊達家の歴史はいろいろ記録が残っています。しかし実際に城下町へ繁栄をもたらした町人達の記録は貴重なものと思います。今後も続編で少しずつ書いて行きたいと思っています。(続く)


大津波、私が受けた心の痛手

2011年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

家族を失った人々のことを思えば、こんな軽い痛手は書くべきでないと逡巡していました。しかし時が経つても癒されません。

昔、大学を卒業するまで仙台に住んでいたので家族と共によく海水浴に行きました。当時は海水浴くらいしか娯楽が無かった時代です。その海水浴場の若林区の荒浜も、菖蒲田浜も、桂島の浜も、野蒜の海水浴場もみんな津波で破壊され、瓦礫の浜になってしまったのです。遊びに行った石巻や松島の町も瓦礫の広場になってしまったのです。残ったのは家族を失った人々の慟哭だけです。自分の思い出がすべて流れ去ったことと重なって人々の慟哭が聞こえるのです。毎日のように聞こえます。

そんな毎日ですが、数日前からしきりに奥松島の宮戸島のことを思い出しています。昔は交通が不便な島で、塩釜から「焼き玉エンジン」のポンポンという音のする小さな客船で行ったものです。山がちな島には3つ程の浜が開いています。大鷹森という山に登ると眼下に松島の島々が見える展望台がありました。

島へ行くと室浜の奥田実おじさんの家に泊ります。茹でたシャコを大ザル一杯に盛り上げて、馳走してくれます。新婚のころ妻を連れていったら昔と同じように大ザル一杯のシャコを出してくれました。あれから50年、それが我が家の伝説になっています。その室浜も大津波で家々が流されたのです。

その奥田実さんは祖父が島の小学校の校長をしていたときの教え子だったのです。祖父は喜蔵という名前で、大酒飲みでした。あまり酒を飲んだので、私が生まれる前に死んでしまいました。

奥田実さんはその祖父に可愛がってもらったようです。その思い出を話すときは目に涙を溜めていました。大男の実おじさんが悲しそうにして体をすぼめているのです。ある時は私だけを連れて奥松島の嵯峨渓を案内してくれました。自分で大きな木造の伝馬船の櫓を漕いで、大波を巧みに避けながら嵯峨渓の洞門の中へ入って行きます。今回の大津波が室浜を襲う前に、何年も前に実おじさんは死んでいました。ああ、大津波を見なくて良かったと思いながら冥福を祈っています。

その室浜から山を越えた谷間にお寺があります。そのお寺の客殿にもよく泊りました。単身赴任で宮戸島小学校の校長として渡った祖父が、そのお寺に下宿していたのです。先代の住職さんと気が合ったらしく祖父の思い出話を沢山してくれました。

室浜で酒を飲んで気勢のあがった祖父が近道をして何度も寺へ帰ってきたそうです。近道とは闇夜の裏山を登って帰ってくるのです。室浜から回り込んでちゃんとした道があるのに近道が好きだったのです。

これも住職さんから聞いた話です。ある時、松島の料亭で飲んで居て、島通いの客船に乗って帰ろうとしました。しかしその最終便は宮戸島までは来なくて2km位手前の港が終点だったそうです。酒で気勢の上がっている校長さんがそこから2kmの海を泳いで帰って来たそうです。その話は住職さんから何度も聞きました。

そのお寺はかなり谷を登った高台にあります。今回の大津波はそこまでは襲わなかったと信じています。50年程まえに新婚の妻を案内して行ったのが最後です。

あの思い出の宮戸島が少しでも早く復興するようにと時々祈っています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

(暗い木々の梢の間から明るい太陽が射している写真です。希望を持って生きて行たいと思います。家族を失った人々のために祈っています。)

083_2


今日の散歩・・・茫々47年、観光地・相模湖の今昔

2011年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

1964年、東京オリンピックの時、ボート競技の幾つかは相模湖で行われたのです。新しい艇庫やボートをつける浮き桟橋が出来、沖の岬の左手には審判用の鉄骨の櫓が出来ました。あの頃は観光客が相模湖へ集まって、賑やかな盛り場のようだったのです。

あれから茫々47年になります。今日の散歩に大垂水峠を越して久しぶりに行きました。観光客が群れていた湖岸には誰もいなくて、それは淋しい光景でした。

フト見ると、左手の沖の岬に、オリンピックの時の審判用の鉄骨の櫓がまだ残っています。早速撮った写真を下に示します。058

観光船の発着桟橋のそばには食堂や土産物店が10数軒並んでいました。何時行っても大きな拡声器で流行歌が流れていて、昼間からコップ酒を飲んでいるオジサン達が居たものです。

そのうち中央高速道路が出来ると観光客は相模湖をすどうりして富士五湖へ行くようになりました。下町の盛り場のような雰囲気の相模湖は次第に時代遅れになり、観光客がドンドン減っていったのです。それでも私達は子供連れで相模湖へは良く行きました。観光船に乗ったり、手漕ぎのボートに乗ったりしたものです。冬に行くと相模湖で獲れたワカサギの天麩羅定食が美味しかったものです。

あの頃の相模湖が懐かしくて船着き場の方向の風景を撮りました。下の写真です。散歩は湖岸に沿ってかなり歩き廻りました。

060

湖岸のベンチで家内と昔話をしながら持参の弁当を食べました。空は何時までも暗い梅雨空で、晴れあがる様子がありません。何となく元気がなくなり大垂水峠をまた登って帰ってきました。途中、イギリス製のスポーツカーが追い越して行きました。下の写真にそのスポーツカーが写っています。

それで何故かまた元気が出て来ました。そんな梅雨の間のドライブでした。

それにしても観光地の盛衰の激しさには驚きます。皆様の近所の観光地はいかがでしょうか?

057


小さな花々を愛したあの人も旅立って行ってしまった

2011年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

013_2 

道端や山林に何気なく咲いている花を見るたびにあの人の事を必ず思い出します。私よりも15歳以上も年上のスウェーデンの工科大学のエケトロプ教授のことです。小さな花々が好きで自宅の庭に一面に咲かせていました。

それは1972年の夏のことでした。自宅へ泊めてくれ、花々の話をしてくれました。緯度の高いストックホルムでは高山植物の花々が自宅の庭に一斉に咲きます 

 イワカガミ、コマクサ、ミヤマウスユキソウ、チングルマに良く似た花々が裏庭一面に咲き乱れているのです。庭に面したテラスに坐ってビールを飲みながら、いつまでも暮れない白夜の花園を眺めていました。
 「驚きました。日本では高山にしか咲かない花々が低地の庭に咲くのですね」、と私。

「緯度が高いのでそうなのでしょう。でも良く見ると花々は日本のものとは違う筈です。植物は気候と土地の成分の違いによって同じ種類でも違った外見に育ちます。名前も地方によって違うのが普通ですね」、と静かに彼が説明します。

 「西洋の花々は色鮮やかで派手な花が多いのにこんな素朴な美しさを持っている花々もあるのですね?」。そして私は続けます、 「日本人は野生のニホンサクラソウやスミレ、ナデシコのように小さくて可憐な花が好きです。西洋人は薔薇やチューリップ、ガーベラのように、どちらかというと、派手で装飾的な花が好きなのだと思います」。

エケトロプ教授が言います、「しかし、西洋人にも小さな野の花々を愛する人が多いのです。この裏庭に小さくて可憐な花を咲かすにも結構、苦労が多いのです。雑草を根気良く取ったり、花々に合った肥料を秋の間に撒いたりするのです。すると次の年の初夏にこのように一斉に咲くのです。美しい花々を大切にする心は民族の違いに関係なく人類共通の本質です」。

そして彼は何度も行った日本での思い出を話します。美しい日本風の庭の話もしてくれました。
 夕食後の庭は白夜です。いつまで話し合っていても暗くなりません。ほの明るい夜目に、一面の花々が「高山のお花畑」のように輝いているのです。

裏庭の花々に囲まれて一緒にビールを飲んだ事を何度も、何度も思い出します。エケトロプ教授は1990年に旅立って行ってしまいました。

下の写真は昨日行った武蔵国分寺資料館の庭さきです。エケトロプ教授が喜びそうな小さな、静かなたたずまいなので彼の所へ持って行って見せる為に写真をとりました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

017


今日の散歩・・・1333年に消えてしまった武蔵国分寺の跡地を歩く

2011年06月09日 | インポート

聖武天皇の詔で741年に建てられはじめた武蔵国分寺は、1333年鎌倉幕府軍と新田義貞達の連合軍との「分倍河原の戦い」で焼かれてしまいました。

華やかな彩色が施された金堂、講堂、経堂、僧堂、七重の塔、鐘楼、中門、南門の全てが夢か幻のように姿を消してしまったのです。それ以後再建されず、田畑になってしまったのです。礎石すら農民に持ち去られ、あちこちに散逸してしまったのです。

それが623年後の1956年(昭和31年)から断続的に行われた発掘調査で数多くの瓦や道具類が出土し、お寺の規模や場所が次第に明らかになって来ました。

散逸した礎石も近隣の農地から集められ元の場所へ据えられたのです。礎石のあった場所は土中に深く玉石が埋められ基礎工事が出来ていたので分かります。

武蔵国分寺は623年間、田畑の中に眠り続けていたのです。それが学術調査により何処に存在し、どの程度の規模かが判明したのです。建物群の配置も分かりました。

武蔵国分寺のあった場所には礎石以外は何も無い草地が広がっているだけです。

近くの資料館に、発掘された瓦やレンガや土器、土師器、生活道具など展示しています。新しい「国分寺」と言う名前のお寺も北側にあります。

お鷹の道という湧水の美しい小道もあります。JR中央線の西国分寺駅から国分寺駅までの数キロの道もあります。とても良い散歩道ですので是非おいで下さい。

001_2 006_2 020_2

005_2 021_2 007_2


多種多様なアジサイの花々の写真をお送り致します

2011年06月09日 | 写真

毎年、毎年、梅雨に入るとアジサイの花が咲きます。それが次第に色鮮やかになって行きます。でも咲き出した頃の柔らかい色合の花々も良いものです。

アジサイにはいろいろな品種があります。府中市の郷土の森博物館公園には日本中のアジサイがさりげなく植えてあります。毎年その多様な咲き方を楽しむために見に行きます。昨日はゆっくり、時間をかけて独りで鑑賞しながら、写真も撮ってきました。平日で人影も少なく、梅雨の晴れ間の湿った空気が静かに流れていました。

006 023_2 021 007

004 009 017 005 015 020


ついに出た!・・・福島各地の地表面セシウム蓄積量の分布 

2011年06月09日 | 日記・エッセイ・コラム

待ちに、待った放射性物質の地面への降下、蓄積量の地域ごとの分布図がでました。今朝の読売新聞、35ページ目に出ました。文科省と米国エネルギー省の4月29日までの蓄積量です。この図面は明快です。以前からこのブログでは原発から北西方向が一番危険と推定して、何度も書いて来ましたが、今朝発表の図面ではまったくその通りになっています。セシウムの蓄積量が多い所は、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、飯舘町です。反対に半径20km以内でも南相馬市の海岸沿いは福島原発の傍まで安全です。この放射能分布図は文科省が莫大なお金を使って開発した「SPEEDI 」というソフトで随分前から分かって居た事です。それを今まで発表しなかった政府の態度に不信感が残ります。尚、ベクレルとミリ・シーベルトの換算については、1kg当たり10000ベクレルのホウレン草を食べると被爆量は何シーベルトになるか?をご覧下さい。

今日も皆さまのご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

001


なんじゃもんじゃの木・・・めいこさんのしみじみするブログをご紹介します

2011年06月08日 | インポート

とうとう今年も、代々木の絵画館の前にある、なんじゃもんじゃの木を見に行かなかった。
三年前、同じ沿線に住む小学校の友人、K さんに誘われて花の咲いている五月、この木を、見に行った。大きく広がって伸びた木には、こまかい白い花がかたまりとなってふんわりとやさしく咲いていた。私は初めてみた花だが、よく手入れされた広い公園の景色に似合い、上品な落ち着いた雰囲気がただよっていた。

Nanjamonjanoki1

久し振りに絵画館に寄ってから、案内板に添って歩くと、神宮球場があった。子供の頃、母に連れられて六大学野球をよく見にきたのはここだったのだと、久し振りにその頃の元気な学生達の応援歌や歓声を思い出した。

 Aさんのお父さまは、昔、日赤の医者で、戦前、朝鮮にたびたび渡って、仕事をされていたが、其の帰り、朝鮮の高官からこの木を頂いて、実家の庭に植えて大事にしていたら、たちまち大きくなったそうだ。けれど空襲で実家と一緒にこの木が焼けてしまった。Aさんはこの木にこだわり、時々、絵画館前に花を見に来ていたという。一人ではつまらないとこの年、私が誘われた。その日、食事をして、一日遊び、来年も又来ましょう、と約束した。

 去年は丁度私が体調をくずした。今年は私が早めにAさんを誘ったが、Aさんは駅まで歩くのがやっとになっていた。この一年、電車に乗ったことがないというので一緒にゆくのは無理だ。私の年になると一年の体調の変化が大きい。

私には何の関係も無い木だが、この絵画館の前の、なんじゃもんじゃの木は、印象が深く、時季になると、私も思い出す木となった。

http://www.geocities.jp/hyoutannjima0/index.htm


今日の散歩・・・府中、多摩川ぞいを歩く

2011年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は、午前中は雨。昼ごろから晴れ上がりました。府中の郷土の森公園を散歩して、さらに多摩川沿いの土手に上がり、少し散歩しました。多摩川がゆったりと流れ、周りの草木の緑も深い色になっています。初夏のように汗ばむ気温でした。のんびりした風景写真をお楽しみ下さい。

038_2 045_2 053_2


国際原子力機構へ出す政府の事故調査報告を非難する、批判する

2011年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

今日の新聞に、国際原子力機構へ提出した事故調査報告書がかなり詳しく掲載されています。日本政府が6月20日に機構の閣僚級会議で報告する予定です。

まず第一に何故このような報告を国民へ第一に報告しなかったのでしょうか?国民を無視して、いきなり国際機関へ提出してしまったのです。被害を受けた人々へまず報告して、一週間くらいは意見を聞く時間をおいてからIAEAへ提出すべきでした。

さて、その内容です。いかにも優等生の答案のように総花的で、いたれり尽くせりで、立派な内容です。非の打ちどころがありません。

しかし、欠点は何時から、何処の原発施設の改造を始めるのか?どのような改造工事を何時までに完了するのかが具体的に一切書いてありません。

原発の設計から見直すと書いてありますが、それは今後新たに作る原発だけを設計変更し、既存の54基の原発は改造するのか、しないのか一切書いてありません。

この総花的報告書を各電力会社へ送って、震災対策をしなさいと強要するだけのようです。具体的な改造の優先順位までを書いていません。改造の費用が比較的少なくて効果が大きいのは、簡単に積み上げた防潮堤です。

その次は使用済み核燃料棒の貯蔵プールを独立した別の建屋に移動することです。そして循環冷却が止まっても多量の水が落下、冷却できるように改造することです。

第三の改造は、現在の原子炉の炉心圧力容器や原子炉格納容器には手を加えず、水素ガスが多量に発生した場合の水素爆発防止装置の追加設置です。

建屋の天井が大きく開く装置を付け、電源喪失の場合には扉の自分の重さで落下し、大きく開く天井扉を付けるのです。電気のある間は電磁石の杭が天井扉を支え、電気が止まれば電磁石の杭が自然に落ちるようにすれば良いのです。多少の放射能の空中放散は許しても、水素爆発だけは防ぐべきです。建屋の爆発だけを防止出来れば、配管系統が破壊されないのでその後の循環冷却が容易になります。勿論、ベントも自動ベントに改造し、炉内圧力が一定以上になったら放射能を含む炉心ガスを空中へ放出すれば良いのです。近隣の5km以内の住民は災害発生と同時に緊急避難する訓練をしておきます。

昔から日本の武士は、「肉を切らせて、骨を切らせない」という心構えを持っていました。放射能を放出させまいとして、大事故へ発展したのが今回の事故ではないでしょうか?

今回の政府の事故調査報告書は総花的過ぎて、一体実行が可能なのか?どの項目から順次改造して行くのか全く書いてありません。

設計変更するなら何故、現在の原発をアメリカから輸入するとき地震・津波に対して設計を変更しなかったのでしょうか?その事こそが人災と言われる所以なのです。

今回の政府の事故調査報告書には以上のようないろいろな欠点があると思います。みなさまのご意見を頂ければ嬉しく存じます。