後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

1990年頃から始まった日本の伝統文化の変革期(1)自然葬に関する現在の法律解釈

2012年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

1990年前後のバブル経済の崩壊から後を「伝統文化の変革期」と私は定義したいと思います。それは江戸時代から明治、大正、昭和と続いた日本人の伝統的な価値観や民族特有の文化がどんどん変化している時期だからです。

いろいろな新しい社会現象が起きています。

今日はその一例として「自然葬の普及」について考えてみます。

日本人は遺骨は決められた墓地以外に埋めると、刑法190条により「遺骨遺棄罪」になると思っています。この刑法を支えているのが戦後の昭和23年に出来た「墓地、埋葬等に関する法律」の規定です。

しかし、1991年に「葬送の自由をすすめる会」が神奈川県の相模湾で海への散骨をしたのです。その後、この会は全国に12の支部を作り、会員も12000人になります。

15年後の2006年までに全国で1137回の自然葬を行い、1945人の遺骨を自然へ還しています。現在は毎年100回程の自然葬を行い200人ほどの遺骨を自然へ還しています。

1991年、我が国で初めての海への散骨葬が行われたのは画期的な事でした。そのすぐ後、法務省と厚生省は刑法190条と墓地、埋葬等に関する法律に関して新しい解釈を発表し、「葬送の自由をすすめる会」の葬送は違法ではないという趣旨を公にしたのです。

適切な方法なら海への散骨だけでなく樹林葬や桜葬や山岳などなどへの散骨葬は違法でないという解釈です。

「適切な方法」は具体的に規定していません。

しかし法務省や厚生省の法律への新見解以後、多くの宗教団体や業者が「自然葬」を斡旋し、代行する事業を始めたのです。東京都立小平霊園でも現在、樹木葬のような自然葬の受付をしています。

私は先日以来、「適切な方法」とは具体的にどのような方法か調べてきました。数多くの自然葬実施団体の実行方法を検索してしらべました。

そこで判ったことでは、自然葬では以下のような条件が必要なのです。

(1)火葬にした遺骨は必ず米粒以下の粒子か粉にすること。一見して遺骨と判らないようにし、海水中や土中へ溶けやすい状態にすること。(遺骨はリン酸カルシュームが主成分で水には難溶性です)

(2)海への散骨は海水浴場や湾内の養殖筏の近辺はいけない。沖でも漁場に使われる海域はいけない。風評で魚が売れなくなることへ充分配慮する。

(3)陸上での散骨は土地の所有者の承諾を得ること。自分の所有する山でもキノコや山菜取りの入会権へ充分配慮する。自分の別荘の庭に散骨するのは別荘が他人の手に渡った場合についても充分な配慮をする。(アメリカでその為に不動産価格が下がって裁判になった例がある)

(4)国有林は広大で散骨に適しているが、管理している農水省や国土交通省の明確な見解が発表されていない。NPO葬送の自由を進める会が現在、国有林の散骨葬への解放運動をしている。

僻地の町や村の所有する山林はその役場に願い出ると許可される場合もある。

以上、結論的に言えば他人の迷惑にならないようにすることが「適切な方法」となります。

その具体的な相談に乗ってくれそうないろいろな団体のURLを下にしめします。

自然葬を行っている団体の数例:

風という会社:http://sankotsu-kaze.com/about/index.html

NPO葬送の自由を進める会:http://www.shizensou.net/

家族葬の会:自然葬(海洋葬・里山葬):http://www.npo-kazokusou.net/support/nature.html

7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/

そして下に実際に東京湾と湘南の7つの海域で散骨葬をしている場所の例を写真で示します。昨日掲載した、今日は曇り、後雨の暗い日なので晴天の日の写真をお送りします。の中の3枚の写真とあわせてご覧ください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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上は東京湾です。下は熱海湾です。

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下は沖の方です。実際に散骨葬に使うモーターボートが写っています。

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写真の出典は、7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/です。


今日は曇り、後雨の暗い日なので晴天の日の写真をお送りします。

2012年07月20日 | 写真

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上は海から見た横濱です。

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・上は横須賀から見た猿島です。そして下は江の島と富士山です。

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上の写真は明日の記事、「自然葬の流行と社会文化の変化」で使う写真の一部分です。出典は、http://shizensou.com/です。


今日の京王フローラルガーデンの花々の写真をお楽しみ下さい

2012年07月20日 | 写真

今日は久しぶりに20度以下になりました。曇りで涼しいです。

家内と午前中に調布市にある京王フローラルガーデンへ行きました。小径を散歩しながら、花々の写真を撮って来ました。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

京王フローラルガーデンの案内は、http://www.keio-ange.info/にあります。

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鰻の蒲焼とローマ教皇・・・大新聞の編集手帳の筆者を嗤う

2012年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

この記事の結論は、自分の知識を自慢する人を私は軽蔑するということです。それを嗤うと表現しました。

大新聞とは読売新聞のことであり、その1面に毎日出ている「編集手帳」と書いている偉い人です。偉い人を嗤うと何故か痛快です。それも人間の悪い一面なのですが。

その前に鰻の蒲焼の写真を見て、楽しみましょう。

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・写真の出典は鰻の蒲焼の写真検索にある写真集です。

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今日の「編集手帳」では今年のウナギの高騰ぶりを嘆いて、なかなか食べることが出来ないのが残念だということを書いています。そのように簡単に書いてしまえばたった2行で済みます。

ところが「偉い執筆者」は博識を自慢して、古今東西の故事や文学作品をやたら振り回して「鰻の蒲焼」へ無理して関連づけます。そうして下手な「オチ」をつけて終わります。

これがいつものパターンです。

私は毎日読んでは笑ったり、嗤ったりして楽しんでいます。無理な関連づけがアクロバチックで、曲芸を見ているようで面白いのです。

今日はまず最初に13世紀に在位した教皇マルティヌス4世が鰻が好物だったと自分の博識ぶりを自慢します。そしてダンテの「神曲」という叙事詩を持ちだします。それによると、教皇マルティヌス4世が死んだ後、煉獄へ送られ亡霊になり暴食の罪を償わされます。そして岩波文庫の「煉獄編第二十四曲」の文章が披露され、その意味を説明します。(日本の蒲焼と関係ありません!)。

困ったものだと思っていたら、予想通り話は急転直下土用の丑の日(7月27日)がまもなく巡ってくるという話になります。

そして土用の丑の日が近づくと、あちこちで斉藤茂吉のウナギ賛歌や大伴家持の「夏痩せに良しといふものぞ・・・」という歌が飽きもせず引用されていると言います。素直にそう言うのではなく婉曲に言うのです。

そして、ここでひねくれて・・・鰻が高騰している今年は常連さん(斉藤茂吉や大伴家持)の名歌を引く心境でもない。・・・と嘆きます。

そこでもう一度、ダンテの神曲へ戻ります。そうしたらローマ教皇は鰻をワインのような酒(ヴィルナッチャ酒)に漬けて酔わせてから、焼いてたべたそうだと教えてくれます。

「オチ」の文章は、・・・「これがまた、うまそうで癪(シャク)に障る。」と結んであります。彼のいつものパターンです。

冗談でしょう。鰻は甘い醤油ダレに何度も漬けて蒲焼にするから美味しいのです。ワインに漬けて、筒切りにして焼いたって美味しい筈はありません。泥臭くて、生臭くて食えたものではありません。嗤っちゃいました。

実はこの編集長は時々感動的な「編集手帳」を書きます。彼の名誉のために昨日の作品を褒めようと構想を練っていました。でも今朝の新聞を見てそれは止めにしました。

簡単に書きます。不運にも若くして死んでしまった数人の詩人の名と詩を紹介しています。そして次の文章で終わります。・・・(これらの詩を)「ひらくと、身近にある幸せに気づかずにいた罰当たりの身が縮むような、そんな歌集である。」

それはそれとして、あまりにも自分の知識を自慢げに書く人は一般的に尊敬できないものですね。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


北方領土問題のロシア側からの見かた・・・その違いの大きさ

2012年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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(夏の千島列島のある島の海岸風景)

ロシアは歯舞諸島、色丹諸島を日本へ返すから平和条約を締結しようと提案しています。日本は、冗談ではない!択捉島と国後島も含めて4島全てを返すのなら平和条約を締結しても良いと言っています。日本人として考えると当然な主張です。

戦後67年、日本は同じ主張をして来ました。しかし何故ロシアは頑なに無視しているのでしょうか?理解に苦しみます。

そこでロシア側から見た北方領土の考え方を探して見ました。そうしたら、そのような歴史的説明がインターネットの上にありました。

以下に掲載いたします。

以下の見解に賛成とか反対する前に日本側との見解の大きな違いに吃驚します。これでは日本とロシアの間には永久に平和条約が締結出来ません。

そうなると現実問題として、「平和条約が無いことによる利益、不利益を査定する仕事」の研究が早急に必要になります。

そんなものが無くてもロシアとの経済交流が発展しているから心配無いという考え方もあります。

いや平和条約がなければロシアが攻め込んでくる危険があるという考えもあります。

それどころか日露不可侵条約があっても無視して満州を侵攻したのだから平和条約は役に立たないという考え方もあります。

さて皆さんはどのように考えるのでしょうか?

下のロシア側から見た歴史をご覧になってご意見を頂ければ嬉しく思います。

出典はhttp://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ です。

1.北方領土問題とは

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 もともと、千島にどのような人が住んでいたのか定かではありませんが、江戸時代にはアイヌの人たちが住んでいました。
 日本は正保年間には、択捉島・国後島を含む千島の存在を漫然と知っていました。しかし、択捉島を詳しく知ったのは、ここを日本人としては最初に探検した、最上徳内の成果でした。最上徳内が択捉島に渡ったとき、すでにロシア人がそこに居留し、ロシア正教を信仰するアイヌも多数存在していました。徳内はロシア人から択捉島やそれより北の地域について知識を得ました。なお、択捉島に、最初に勢力をおよぼし、税を取り立てたのはロシア人イワンチョールヌイです。

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 択捉島には日本よりもロシアのほうが先に勢力を及ぼしましたが、これは長続きしませんでした。高田屋嘉兵衛の国後・択捉間の航路開拓により、19世紀になると日本の支配が確立してゆきます。1855年、日本とロシアとの間で下田条約(日露通好条約)が締結されました。この条約交渉でロシア全権プチャーチンは当初、択捉島のロシア帰属を主張しましたが、交渉の結果、当時の、現実の支配関係に従って日露間の国境は択捉島とウルップ島の間に引かれました。なお、この時期、樺太には日露双方ともに支配が及んでいなかったので、樺太には両国間の国境を定めず、混住の地とされました。
 この条約は日露両国の友好をうたったものでしたが、日露戦争により完全に失効しました。(注1)

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 1875年に締結されたサンクトペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)は、樺太をロシア領とする代わりに、千島列島のロシア領だった島々を日本領にしました。
 同条約はフランス語が正文でした。交渉に当たった榎本武揚は日本語訳を作りましたが、訳文は不正確なものでした。この不正確な訳文を根拠にして、国後島・択捉島が千島列島に含まれないとの解釈が1950年代から1980年代までありました。
 サンクトペテルブルグ条約は正式なタイトルがなかったために、「千島樺太交換条約」「樺太千島交換条約」などと、俗称されます。

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 第二次大戦末期の1945年、ソ連は、米国大統領ルーズベルトの要請で日本との戦争に加わりました。そして、日本が降伏した92日に出された一般命令第一号にしたがって、千島諸島はソ連が占領するものとなりました。
 なお、ソ連の参戦は、国際法廷である東京裁判(極東国際軍事裁判所の判決)で、正当なものと認定されています

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 1946129日、GHQは日本の行政権の範囲を定めたSCAPIN-677を命令します。この命令により、日本政府の施政権は北方領土に及ばなくなりました。194622日、ソ連は四島を含む千島列島・南樺太を自国領に編入しました。
 194612月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、19497月までにほぼ全員の日本人が帰国しました。しかし、日本国籍を離脱し朝鮮国籍となった人はその後も帰還することができませんでした。日本人でも、帰国できない人と結婚した人や、ロシア人と結婚した人など、残留を希望する、わずかの人は、北方領土に残留しましたが、これらの人も、その後、サハリンや沿海州などに移住しました。なお、これらの人の23世の中には、現在、北方領土に住んでいる人もいます。

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 1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島列島を放棄しました。平和条約の起草国である米国代表は演説の中で、「"Kurile Islands"という地理的名称がハボマイ諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。ハボマイを含まないというのが合衆国の見解であります」との発言をしています。吉田茂全権大使は、「北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」と表現し、歯舞・色丹が千島列島に含まれないとも受け取れる発言をしていますが、国後島・択捉島を「千島南部の二島」と表現しています。このように、日本が放棄した千島列島に、歯舞・色丹が含まれるのかどうかについて、意見が一致しなかったことが知られています。
 国後島・択捉島については、1951年秋の平和条約及び日米安全保国会審議の中で、西村政府委員および草葉政府委員が、国後島・択捉島はサンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれると明確な説明をしています

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 1955年頃になると、徐々に東西冷戦が深刻化しましたが、その一方、日ソ間では外交関係を回復する気運が高まってきます。そうした中、ソ連から、『歯舞群島・色丹島を日本に引き渡し、国後島・択捉島以北はソ連領とすることで、平和条約を締結したらどうか』との提案がなされました。
 サンフランシスコ平和条約から5年後の、195697日、米国政府は対日覚書で『日本は、同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持つてはいない』と断定し、日本の対ソ交渉に対して制限を加えました。さらに、同じ覚書の中で、米国政府は、『択捉、国後両島は、常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した』と二島返還で妥結する事をきびしく禁止しました。
 このような経緯があって、195610月、日ソ共同宣言によって両国の外交関係は回復されましたが、平和条約を締結することは出来ませんでした。そして両国は平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意しました。また、ソ連は日本の要望にこたえ日本の利益を考慮して歯舞・色丹両島を、日本に引き渡すことに同意しました。ただし、これらの諸島は、日ソ間に平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとなりました。しかし、現在にいたるも、両国間に、平和条約は締結されていません。
 なお、19561129日参議院外務委員会において、下田武三条約局長は、歯舞・色丹に関して「事実上ソ連がそこを支配することを日本はまあ認めたわけでございまするから、ソ連の引き続き占拠することが不法なりとは、これまた言えない」と説明しています。

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 1961103日、衆議院予算委員会において池田総理大臣は、ウルップ以北が千島であり、南千島などは存在しないとの答弁をしました。これまでの地理上の常識や、日本政府の説明をまったく無視した強引な解釈がこのとき生まれました。
 この3日後、小坂外務大臣はウルップ以北が千島であることの根拠は、1875年に締結されたサンクトペテルブルグ条約であると説明しました。しかし、この条約はフランス語を日本語に訳すときに不正確な訳であり、この根拠はフランス語正文では成り立たないことが、その後、明らかにされています。当時、この条約の日本語版が不正確な訳であることは、あまり知られていませんでした。

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 1964617日、外務事務次官は自治事務次官に対して、国後島・択捉島を南千島と呼ばないように各方面を指導することを求めた、通達を出しました。
 この結果「南千島」の用語は徐々に使われなくなり、現在では多くの場合「北方領土」と呼ばれています。

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 北方領土返還運動は、194512月、当時、根室町長だった安藤石典が、北方四島をアメリカ軍の占領地域にして欲しいと、マッカーサー元帥に陳情したのがはじまりであるとされています。安藤石典は、その1年後、GHQにより公職追放になりました。
 なお、マッカーサー元帥への陳情は、占領とほぼ同時の


ヒマワリの花を見ると昔のことを思い出す

2012年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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人それぞれ花にはいろいろな思い出が重なっていると思います。

私は夏になるとギラギラ照りつける太陽の下に広がるヒマワリ畑を思い出します。

ヒマワリは戦中、戦後にさかんに植えられていました。夏が終わると大きな花の中にギッチリとつまった種を取り出してよく食べたものです。人々が飢えていた時代だったので、その油濃い種が大変美味しく感じたものです。

種といえばカボチャの種も乾してよく食べました。

ヒマワリの花を見るとB29の空襲で焼け野原になってしまった仙台の光景を思い出します。そして戦後、満州から引き揚げて来た同級生の青白い顔や、歯切れの良い話し方などを断片的思い出します。

そして亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の黒い炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。燃料にするだけでなく埋木細工を作って飾りものとして売るのです。

あれからもう何年たったのでしょうか?

夏と言えばノウゼンカズラやキキョウの花も思い出します。何故か考えてました。

そうしたら結婚以来、妻がよくこの花のことを話していたのです。

派手な西洋の花は嫌いと言い放つセリフが私の耳に聞こえます。

そして妻はいろいろな花々の特徴や、花言葉を教えてくれました。そのせいで私も花が好きになりました。西洋の派手な花々も好きです。その事がいつも我が家の夫婦喧嘩の種になります。ヒマワリの花の種から書きだして夫婦喧嘩の種に行きついたので今日の話はこれでお終いです。

それてにしても人生は、邯鄲の夢ですね。

上に示した、山梨県、明野のヒマワリ畑の写真の出典は「里山に住んで」(http://ihcuik69.web.fc2.com/) です。転載させて頂きまして、鬼家(オニイエ)雅雄さんへ感謝します。下に家内が撮ったノウゼンカズラとキキョウの花の写真をお送り致します。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

後藤和弘(藤山杜人)


アメリカの占領政策で報道されなかったチャンドラ・ボースとラース・ビハリー・ボースの秘密

2012年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後、日本を占領したアメリカはインドの独立を日本軍が支援したことを隠そうとします。報道規制のために戦後の日本人はチャンドラ・ボースとラース・ビハリー・ボースのことは知りません。

しかし歴史の真実は正確に子孫へ伝承すべきと思い、以下に日本と協力してインドの独立のために働いた2人のインド人のことをご紹介したいと思います。

新宿・中村屋の創業者・相馬夫妻のことを以前のブログの記事にしました。盲目の詩人、エロシェンコが何故新宿、中村屋に住み込んだのか?そしてその後の生活は? )

相馬夫妻は多くの人々を支援しましたが、インドの独立の志士、ラース・ビハリー・ボースも支援し娘、俊子も結婚します。

しかし日本で有名なもう一人のボースは1897年生まれのチャンドラ・ボースと言ってガンジーとともにインド独立に活躍した人です。

はじめはガンジーと共に英国の植民地からインドを独立させる運動をします。しかしガンジーの無暴力主義に反対し、武力を用いて急速に独立をはたす急進派の指導者になります。チャンドラ・ボースは行動的な人です。ナチス・ドイツにわたり2000人のインド人部隊を編成してドイツ軍とともにイギリス軍と戦闘を交えようとします。しかしヒットラーやムッソリーニは冷やかに扱います。そこで日本の真珠湾攻撃のニュースを聞いて日本の軍部へ協力を申し出ます。ドイツ海軍と日本の潜水艦を乗り継いで日本へきます。 

そして中村屋の支援でインド独立運動をしていたラース・ビハリー・ボースと合流します。 

その後のチャンドラ・ボースは日本政府と軍部の支援で、シンガポールで自由インド仮政府を組織し、自分が首班に就任します。そしてインド兵の捕虜を集めて「インド国民軍」を編成し、自分がその最高司令官になります。 

軍事的には無謀過ぎるといわれたインパール作戦では日本軍と共にインド国内へ攻め込みますが敗退します。 

日本の敗戦後はイギリスへ対抗する為にソ連の協力を得ようとして日本軍の九七式爆撃機でソ連へ向かうのですが、台湾の松山飛行場で事故に会い、1946年8月18日に死亡します。享年満49歳の短い人生でした。臨終の言葉は、「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」でした。インドの独立を見ないで死んだのです。 

遺骨は杉並区の日蓮宗の蓮光寺に埋葬されました。このお寺は中村屋のビハリー・ボースの住んでいた近所にあり、彼が主宰した葬儀には中村屋のお菓子が供えられたと言います。毎年8月18日になるとインド政府と日本の関係者が集まって法要を行っています。戦後は、ネルー首相やガンジー首相が蓮光寺を訪れチャンドラ・ボースの墓前でインド独立の感謝の祈りを捧げています。 

現在、インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボースの肖像画、右にはガンジーの肖像画、そして左にはネルーの肖像画が掲げられているそうです。 

戦後、インドは日本へ賠償を求めず、東京裁判では日本人戦犯の無罪を主張したのです。 

そしてインドの対日感情は現在でも非常に良いのです。 

戦後、日本を占領したアメリカはインドの独立を日本軍が支援したことを隠そうとします。日本のマスコミもアメリカに気を使い、ネルー首相やガンジー首相が蓮光寺を訪問し、ボースのお墓に参拝したことは大きく報道しません。チャンドラ・ボースと日本軍の関係は歴史の闇に消えようとしています。しかし私はガンジーだけでなくチャンドラ・ボースのことも忘れないようにしたいと思います。 

皆様はどのようにお考えでしょうか? 

下に蓮光寺にあるボースの碑とお寺の写真を掲載します。(写真の出典:http://netmuseum.co.jp/ippin/ippno40.html 

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追記:インド人は日本人を尊敬している一証左として、パール裁判官のことをご紹介して置きます。

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1886年にインド・ベンガル州ノディア県クシュティヤ郡カンコレホド村に生まれる。1907年カルカッタプレジデンシー・カレッジにおいて理学士試験に合格、数学賞を受賞。翌年カルカッタ大学にて理学修士を取得。1910年にインド連合州会計院書記生として就職した。

1911年にカルカッタ大学理学部、法学部を卒業し、1920年に法学修士試験に最優等にて合格、翌年弁護士として登録。1924年にはカルカッタ大学にて法学博士号 (LLD) を取得した。論文は「『マヌ法典』前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」であった。

1923年から1936年までカルカッタ大学法学部教授。1925年にはインド学会最高の栄誉であるカルカッタ大学タゴール記念法学教授に選出された[4]1927年にインド植民地政府の法律顧問に就任、1937年には国際法学会総会に招聘され、議長団に選出される。

1941年にカルカッタ高等裁判所判事に就任。1944年、カルカッタ大学副総長に就任[5])。

1946年極東国際軍事裁判ではインド代表判事として派遣された[6]

1950年10月に再び来日し、約一ヶ月間日本に滞在した。その際、原爆慰霊碑の碑文について、碑文の責任者である浜井広島市長と対談を行う。広島市中区の本照寺の住職・筧義章に請われ詩を執筆した。その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。

1952年下中弥三郎らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加。同年国際連合国際法委員会委員に就任し、同職を1967年まで務める(1958年度および1962年度委員長)。

1953年、下中彌三郎の招聘により三度目の来日。大倉山文化科学研究所で「インド法哲学思想の潮流」を講演。同年、インド国会下院議員補欠選挙に国民会議派から立候補し、3万6319票を得るが次点で落選(当選者は、5万8211票を獲得した共産党候補)。

1955年、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。1957年に国際連合常設仲裁裁判所判事、1959年にはナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデに就任。

1960年、インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章する。

1966年10月に清瀬一郎岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。

1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。82歳。最晩年のパールは、所得税を滞納したことから自宅を失い、恵まれない生活だったと伝えられる。


ブログに掲載したあなたの文章を「岩漿」という文芸誌で活字にしてみませんか?

2012年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

友人に馬場 駿さんという小説家がいます。その彼が20年前に岩漿文学会を創立しました。

主に伊豆地方の人が会員で、真面目な文学作品を書いて、それらの作品を「岩漿」という同人誌で発表しています。「岩漿」は毎年一冊ずつ発行しています。すでに20冊発行されています。

この同人誌は国会図書館や静岡県の市町村の図書館へ送られ、公開されています。

この馬場 駿さんと、岩漿文学会については末尾に付けたように、このブログで何度かご紹介してきました。

昨日、この「岩漿」の今年号(20号)が郵送されて来ました。

中身を見るとこの文学会では今年から広く会員を募集しています。

年会費3000円を支払って会員になると、「岩漿」へ作品を投稿出来ます。

「岩漿」にあなたのブログの文章作品を投稿すると活字印刷されます。あなたの作品が文学作品として残るのです。手軽で便利な大変良い方法と思います。

印刷公表するにあたっては1ページ(1000字)あたり1000円の費用負担金を支払います。

膨大な原稿を書きためて自費出版するのは大変です。しかし、「岩漿」に短い作品を時々公表するのも手軽で、費用もあまりかからずに便利ではないかと思います。

そこで会員になって作品を公表する手順の説明を以下にしめします。

同人誌にご関心がある方、そして活字印刷物にご興味のある方、一度ご検討頂ければ嬉しく思います。詳しいお問い合わせは、asei@vesta.ocn.ne.jp へお願いいたします。

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下に「岩漿」20号の写真を示します。

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下は「岩漿」20号の目次です。全140ページの雑誌です。

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以下に、ご参考までに馬場 駿さんについてご紹介いたします。

小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡

小説家、馬場駿と一緒に飲んだのは35年くらい前。深い森の奥の山荘の中、燃えさかる暖炉の前で、彼の兄をまじえて3人で飲んだ。彼らが手作りした暖炉は甲斐駒の御影石が埋め込んであった。歯切れの良い言葉で喋る馬場駿の才気が輝く、華やかな一夜であった。

彼はまだ小説を書いていなくて、当然馬場駿という筆名も持っていなかった。しかし彼の才能と情熱で何時かは大きな仕事をすると私は信じていた。

あの夜以来一度も会っていない。しかしその後、彼は伊東市に移り住んで20年前に岩漿文学会を創立し、小説も書き出した。処女出版は馬場駿の筆名で「小説大田道灌」を出している。その書評はこのブログでも2007年11月27日に掲載している。

昨年、郵送されて来た。「岩漿」第19号には、彼がこの文学会を創立したころの経緯や、この文学会の歴史について書いている。そしてその他に何故彼が馬場駿という筆名を持っているかという感動的な小文を書いている。

小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡がいきいきと描いてある文なので以下に転載することにした。転載を許可してくれた彼へ感謝しつつ。

=======「筆名は心の師」、木内光夫============

二十年以上も前、仔細あって所謂都落ちし、伊豆の地で志とはかけ離れた生活を悶々として送っていたときのことだ。生涯の師と仰ぐ馬場駿氏が単身、私の勤務先の観光ホテルを訪れた。このとき師は、かつて私が在籍していた会社を資本金数十億円にまで大きくし、社長付常務取締役として八面六臂の活躍をしていた。秘書も不知のお忍び旅行だという。師は私と妻を夕餉に誘い、その場で泣かんばかりにして私の現状を嘆き憂えた。こんなところで何をしているのだと。

この師との出会いは劇的だった。この会社の横濱支社へ応募した際、私は身内の身元保証を得られなかった。三十五六まで夢を追い、赤貧洗うが如しのアルバイト生活を送っていた私の、言ってみれば身から出た錆。私は不採用という結果に甘んじるしかなかった。ところが後日、会社が突然再面接を申し入れてきた。当時会社顧問だった師が支社長へ指示をしたのだ。高校任意退学、文部省大検一回全科目合格、通信教育四年で大学の法科卒、以後法曹を目指して職業的には浪々。師は弾かれた履歴書群の中から私の一枚を拾い上げたのだ。一転私は採用、本来経済力が必要な保証人も、母が「私が産んだ」という証明をもってこれに代えて可、となった。調査はしたよと破顔一笑の師。M銀行支店長だったという師はある日、「僕は東大卒、京大卒いろいろ部下をもったが、君のようなタイプは初めてだ」と肩を叩いてくれた。その言葉の含意は今も不明だが、私は心でその言葉を受け止めた。

心の師が翌朝ホテルを去る際に至言をくれる。「大都会で金や地位欲しさに暗闘しているよりも、疲れ果てた人を癒す仕事の方が数段上かもしれないな。ゆうべは言い過ぎた。悪かった」。文通はその後も続いたが、師は難病に罹り終に帰らぬ人となった。私はホテルサービスという仕事から卑屈な想いを取り去った。師に認められた自分を思い出し、その事を支えにあらゆる屈辱に耐えた。処女出版「小説大田道灌」の筆名は馬場駿。自伝ではないが師に肯定された私の過去が入る連載小説「孤往記」も。あと一冊は筆名馬場駿でと、今は小説「疎石と虫」と向かい合う。(終り)

====岩漿文学会に関する過去の掲載記事=========

説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡

(2011年6月1日掲載記事)

伊豆の文学会の総合文芸誌「岩漿」、通巻第18号を一冊贈呈いたします

(2010年3月15日掲載記事)

伊豆の文学会の総合文芸誌「岩漿」、通巻第18号のご紹介

(2010年3月14日掲載記事)

馬場駿著「小説大田道灌」の読後感

(2007年11月27日掲載記事)

伊豆の岩漿文学会、木内光夫さんのこと、

(2007年11月15日掲載記事)


樹木葬に関心があったり、憧れている人の幸福度は高い。

2012年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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皆さまは樹木葬というものをご存知でしょうか?美しい樹林の地面に遺骨を埋めたり、散骨したりするのです。海への散骨のようなものです。しかし樹林は何処でも良いのでは無く、宗教法人が墓地として役所へ申請し、認可された地区に限ります。

時々、 美しい樹林を見ると樹木葬に丁度良い所だなと見とれてしまいます。上の写真は北海道の大沼公園の湖のそばで見つけた白樺林です。

下の写真は近所の小金井公園の中の常緑樹の林です。

どちらも樹木葬にぴったりの場所と考えながら眺めました。そして私は樹木葬というものに憧れています。

実を申しますと、私は家内と相談して数年前に自分達のお墓を作りました。花々が何時も咲いている公園のような墓地なので、時々、家内と遊びに行きます。

しかし最近、お墓に執着する気持ちが弱くなって来たのです。

お墓だけでなく、いろいろな事に関して執着心が薄くなって来ました。

悲しかったことや苦しかったことは忘れるようにしています。復讐心も無くなりました。全てを許せるような気分になります。そして私が知り合った全ての人々へ感謝の気持ちが湧いてきました。

恰好良く言えば無我の境地になったのです。煩悩が無くなったのです。いえ、そういう境地が少し判りかけたと言うべきです。まだまだ慾も煩悩もありますが。

仕事を一切止めて数年すると誰でもそのような境地になるようです。

これを悠々自適の状態と言うのでしょうか?

とても幸せな気分で毎日を過ごしています。

老境こそ人生で一番幸福な時期と思っています。別な言葉で言えば、幸福度が一番大きい時期なのです。

こんな経験から、樹木葬に関心があったり、憧れる人の幸福度は高いと思うようになりました。

いきなり話が飛びますが、先日テレビで樹木葬のことを放送していました。

樹木葬の墓地として認可された雑木林を紹介していました。上の写真のように白樺がまばらに植えてああります。

そこへ樹木葬を希望している中年の夫婦が来て見ています。遺骨は特定の木の根元に埋めるのではなく林のなかのあちこちに埋めて下さいと言うのです。死んでから特定の木になるのではなく樹林の土になるのです。そういう希望を静かに喋っていました。

この中年の夫婦の話方がおだやかなのです。優しさに満ちています。執着心がないのです。幸福そうです。

このテレビを見て、若くても執着心の無い人が居ることを知りました。そして幸せそうなのです。

それ以来、私は樹木葬に関心を持ったり、憧れる人の幸福度は高いと信じています。

・・・樹木葬は実際に面倒なことが多いようなので、憧れているだけの場合も多いようですが。・・・何故、面倒なのかは別の記事で書いてみたいと思います。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

後藤和弘(藤山杜人)

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参考資料:

樹木葬は樹林葬や樹木墓地や桜葬などいろいろ名称があります。検索すると全国の樹木葬の場所も判ります。東京都立小平霊園でも樹木葬を募集しています。

費用もいろいろです。少しご関心があればご自分で検索されると本当にいろいろな情報がネット上に御座います。下はそのほんの一例です。

桜葬・樹林墓地:

http://www.endingcenter.com/information/kaze.html

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道端に花をみつけたら車を停めて写真を撮る・・・そんな安易な趣味

2012年07月17日 | 写真

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安易な趣味のようで、実は四季折々花々のある所を覚えておく必要があるのです。そこを10ケ所くらい憶えておき、車でそこへ行くのです。

人が見えたら花の写真を毎年撮らせて頂いて有り難う御座いますと丁寧にお礼を言います。

花を植えている人が老人になって次第に花園が縮小して行くのは淋しいものです。

亡くなってしまって花園が消えてしまった所もあります。

しかし若い人が新しい所に花園を作り出します。

人間も花園も輪廻します。そんな事を考えながら一昨日、北杜市、武川町で写真を撮ってきました。


楽しく、奇想天外な路上音楽会の演奏をお送りします

2012年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

1971年にカトリック立川教会で知り合ったペロ夫妻から時々手紙が来ます。

夫がJimで奥さんがSantaといいます。

今日送ってくれたのは、楽しく、奇想天外な路上音楽会の演奏の動画です。是非、音声を出してお楽しみ下さい。

http://www.youtube.com/watch_popup?v=GBaHPND2QJg&feature=youtu.be

ある銀行の広告用の動画のようです。他にも面白い動画が沢山あります。

それにしても今日は暑いですね。庭の寒暖計が40度近くまで上がっています。


私は川を所有している!?・・・豊かな気分

2012年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

甲州の甲斐駒岳のふもとに本当に粗末な小屋を持っています。もう40年近く通っています。

その小屋の窓の向こうに一年中、水の涸れない小川が流れています。時々、ヤマメも泳いでいます。小川の向こう側数メートルまではも自分の土地です。

その先の斜面と丘は他の里人の土地です。その斜面や丘には桜や朴、クヌギコナラなどの雑木が生えています。その雑木林は私のものではありません。

小川も自分の所有物ではありません。武川米のための大切な水源の一つです。里人の財産です。

しかし40年近く通って、この小川の傍で焚火をしたり、ビールを飲んでいると、この川が自分のもののような気分になるから不思議です。

里人は一度も登って来ません。何をしても誰も文句を言いません。

私が勝手に橋をかけたり川底を綺麗にしたりして遊んでいます。しかし小川を汚すような廃水やゴミは絶対に流しません。自分の川と思うから大切にしているのです。

この小川は子供達も大好きでした。それぞれ堰を石で作り、自分用の池を持っていました。夏には水遊び場でした。それも随分と昔のことになってしまいました。いまは3人の孫達が同じように遊んでいます。

丘には細い道を作り、ロープを伝わって子供でも登れるようにしました。孫達は「命ガケ」と名付けて登り降りを楽しんでいます。里人に聞くと、人間が歩くだけの道なら雑木林の何処に作っても良いと言います。車の通れる道は、勝手に作ってはいけないそうです。それが昔からの掟なのだそうです。

長年眺めていると小川の向こう側の樹木も自分のもののような気分になります。

何十年たっても誰も切りに来ません。細かった雑木が大木になってしまいました。

川と雑木林を所有しているような気分は決して悪くはありません。こころが豊かになります。

他人が見たら汚い小さな流れと、何の変哲も無い雑木の写真ですが、見る度に豊かな気分になるのです。そのせいでこのブログに何度も出て来る写真です。

皆様もこの小川と雑木林がご自分の所有物として是非ご覧下さい。豊かな気分になるかと思います。

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一昨日、小屋の窓から撮った風景です。梅雨があがっていないので暗い日でした。

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所々に堰を作り、綺麗な水を溜めて、空と樹木を写して楽しんでいます。

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雑木もこんなに大木になりました。誰も切ろうとしません。夏はこの深い緑を眺めて楽しんんでいます。冬になると葉がすべて落ちてしまい明るい太陽が小屋まで射してきます。

雪が白く全てのものを覆います。そんな雪景色も良いものです。四季折々いつでも小屋の回りの風景を楽しめるのです。


各地に炭鉱があった頃のことを思い出し、しばらく沈思する

2012年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

九州に住んでいらっしゃる江島達也さんはどういう訳か知りませんが古い石炭の町の写真を沢山撮っています。昔の写真を探し出し、自分の撮った写真と較べながらブログに掲載しています。

日本中に蒸気機関車が走り、あらゆる工場の主な動力源が蒸気ボイラーであった時代があったのです。それは戦前、戦中、戦後と続きました。そして昭和40年頃まで炭鉱住宅が北海道や九州に沢山ありました。

九州には筑豊炭田があり北海道には夕張炭鉱などなどがありました。

その後、次第に安価な石油が輸入されるようになると石炭掘りの人々は消えて行きます。

しかし石炭こそは戦後の復興を支えた貴重なエネルギー源だったのです。

時々、悲惨な落盤事故や炭鉱爆発事故のニュースが新聞に出ていました。

私が仙台に住んでいた頃の中学時代の友人の父は、北海道炭鉱、通称、北炭に務めていました。

その穏健な人が時々、炭鉱事故の恐さを話していたものです。落盤事故も怖いが、もっと怖いのは石炭の粉が坑道に充満し、それへカンテラの火が引火して爆発する「粉塵爆発」が一番怖いと言っていました。

カンテラの火には粉じんへの引火を防ぐため金網のホヤがかけてあります。しかし、たまに、そのホヤが外れて爆発するそうです。

江島達也さんのブログの沢山の炭鉱内部の写真や炭鉱住宅の写真を見ていると日本人が「黒いダイヤ」と言ってあんなに有難がった石炭のことを綺麗さっぱり忘れている事に愕然としました。

炭鉱住宅の写真を見ていると戦後の復興期の苦しかったころのことが走馬灯が回るように鮮明に思い出されます。そして人間の忘れ安さに驚きます。

こんなに忘れやすくて良いものでしょうか?しばらく沈思します。

それにしても戦後生まれのお若い江島達也さんが炭鉱とその周辺のかつての風景にこだわる意味を考えています。その精神は健全です。貴重です。何故か分かりませんがすがすがしい精神です。

下に九州の炭鉱町の写真をお借りして掲載します。最後の太い錆びた鎖は石炭運搬船を係留するために使ったものです。

写真は江島達也さんの許可を貰って彼のブログからお借りしました。出典は、http://hayabusa-3.dreamlog.jp/ です。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。

後藤和弘(藤山杜人)


ついに梅雨明けでしょうか?

2012年07月16日 | 写真

今日は本当に暑いです。東京地方で今年一番の暑さです。庭の寒暖計が朝から28度、29度、30度、そして10時には34度に上がりました。午後4時になっても34度が変わりません。空には夏の白い雲が流れています。熱風が庭の樹木を盛んに揺らせています。あまり暑いので今日は一日家の中にいます。暑いのですが、晴天になり気圧が高くなったせいか気分が良いのです。

座敷から撮った夏空の写真を下に示します。

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皆様、熱中症にならないようにご注意ください。そして、楽しい夏の日々をお楽しみ下さい。