後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年の復活祭は4月20日・・・欧米人が大切にしている復活祭、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節

2014年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は東日本大震災の三周年忌なので全ての犠牲者の方々のご冥福をお祈りいたします。

そしてご遺族の方々の悲しみが少しでも癒えるようにとお祈り申し上げます。

して被災地の一日も早い復興をお祈りいたします。

今日は少し宗教について書きたいと存じます。私の信じるカトリックのことです。

カトリック教会では毎月、上に書いたような主旨のことをもっと詳しく長い祈りとし唱えています。東日本のために祈って献金を続けています。

ところで今年の、カトリックの復活祭は4月20日です。先週の3月5日の水曜日が灰の水曜日で、それから4月20日の復活祭までが四旬節と言います。

四旬節(40日)の間は歌舞音曲をつつしみ、肉食を絶って節食をします。それがヨーロッパの伝統的な文化でした。

16世紀のマルチン・ルターの宗教改革で出来たプロテスタン諸宗派ではそれをしませんが、その伝統を守るカトリックである自分たちの隣人に気を使い、静かに四旬節を過ごします。それがヨーロッパ文化の一側面なのです。

私はカトリックなので節食に心がけています。贅沢な外食はなるべくしないで家で家内が作る料理で過ごすように努力しています。

そこで日本人にあまりなじみの無い、復活祭、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節とは何かを以下に簡略にご紹介いたしました。

欧米の人々の気持ちや本音を理解するために役に立つと信じています。

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(1)復活祭

イエス様はローマ占領地のユダヤ地方で活動していました。逮捕されてローマ総督のポンティオ・ピラトの判決で十字架につけられて死に、3日目に復活して生き返ったのです。その復活を記念するお祭りなので復活祭と言います。

春分の最初の満月の後の金曜日の2日後の日曜日が復活祭と決まっています。ですから毎年違った日になります。今年は大変遅くて、4月20日の日曜日です。昔は月が暦で重要な役割をしていました。その伝統です。

(2)四旬節

復活祭の前の40日は四旬節と言い、40日間イエス様の死刑を悲しんで、歌舞音曲を控えます。暴飲暴食やバカ騒ぎもしません。派手な衣装も控えます。安息日を含めませんので実際は46日くらいの期間になります。

(3)灰の水曜日

この禁慾の40日間の四旬節のための心の準備として灰の水曜日があります。今年は3月5日の水曜日でした。

信者は教会へ行って神父様から頭や額に灰をつけてもらいます。人間は土から生まれ、灰になるのです。この日は断食などをして神様やイエス様のことを思いながら過ごします。私は朝食と昼食を断食しました。

この灰の水曜日から四旬節がはじまります。

(5)謝肉祭(カーニバル)

上で説明した通り、四旬節の40日の間は肉も食べないで質素な食事をします。歌舞音曲やバカ騒ぎも出来ません。

その四旬節の始まる灰の水曜日の前日までの数日間を謝肉祭(カーニバル)を祝います。

その間は肉へ感謝しながら大いに肉食を楽しみ、大いに食べて飲んで、その後の40日間の四旬節の間に食べたくならないようにします。

肉へ感謝するから謝肉祭と言います。つでに大騒ぎもして四旬節の間は静かに過ごすようにします。仮面パーティをしたりして暴飲暴食をします。南米のリオのカーニバルもこの大規模なものなのです。

(6)謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節、復活祭の時、西洋人は何を考えているのでしょうか?

謝肉祭でバカ騒ぎや暴飲暴食をすることを多くの人は非難的に考えています。バカ騒ぎをする人も心の隅では、少しまずいと思っているかもしれません。リオのカーニバルになると、日本の報道では裸の女性の踊りだけが報道されていますが、他にもっともっと真面目な仮装や宗教的な意味を暗示させる飾り山車が繰り出します。そして観衆は、その後の40日の禁慾の事を考えながら、しかし楽しみながら観ているのです。

灰の水曜日はある意味でお釈迦様の教えに似ています。人間はもともと空なのです。この世の事に執着してはいけませんという教えに似ています。この世にはあまり価値が無いのですから、死後にイエス様と楽しく会えるように努力しよう。それが西洋人が灰の水曜日に考える事です。昔、灰の水曜日にドイツの教会へ行ったとき聞いた話です。

四旬節の40日間、ヨーロッパに居るとテレビやラジオからよく宗教音楽が流れてきます。バッハの受難曲が何度も流れてきます。大げさに言えば街中が喪に付しているような雰囲気です。とくに熱心なカトリックの信者でなくとも静かにしている人々へ気をつかいます。宗教を信じないヨーロッパ人も四旬節の間はなるべくバカ騒ぎを控えます。それが西洋人の大人の礼儀です。

復活祭ではイエス様が死刑にされたという悲しみと3日後に蘇って弟子たちの前に現れて話しかけたという嬉しさが混じった複雑な祭りなのです。

ですから復活祭のミサはイエスの逮捕と、ピラトの裁判、十字架への道行きと悲しい場面を再現します。しかし最後には復活の喜びを高らかに歌って終わります。

この日、宗教を信じない西洋人も復活祭の意味は知っていますので、いろいろな事を考えます。

嫌々ながら死刑の判決をくだしたピラトへの同情、死刑にしろと叫ぶユダヤ人への憎しみ、死んだイエス様の衣服を十字架の下で分けてるローマ軍の兵士の気持ち、そして生きかえって墓場を空にしたイエスの事、それを発見したマグダラのマリアの驚き、などなど西洋人はいろいろな事を考えます。そして亡くなった自分の祖父母や両親から聞いたあれこれの話を思い出すのです。考えることは宗教的というより民族伝承的な事と言えます。

丁度、日本人がお正月や雛祭りや五月の端午の節句や春秋のお彼岸のときいろいろな事を考えるように、昔、祖父母や両親から聞いた話を思い出すのです。

文学では人間の気持ちを描写する部分が重要です。ですからこそ復活祭、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節が出て来るのです。

西洋の文学を楽しむ時、このようなキリスト教にまつわる行事の背景にある人々の心の揺れ動きを考えるともっと興味深くなると思います。翻訳した文章では上に書いたような気持ちの動きまで説明しないのが通例ですから。

どちらにしてもキリスト教の西洋人も仏教の東洋人も同じくらい罪深い人間なのです。ただ考える内容が少しだけ違っているのですね。上と下の写真はカトリック小金井教会の灰の水曜日の様子です。主任司祭のディン神父様が信者の頭に灰を少しかけています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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寒々とした裏高尾、木下沢梅林の様子

2014年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

裏高尾の木下沢梅林は気温の低い山中にあるので開花時期が遅いのです。それにしても今頃はもう咲いていると思い、車を馳せて行ってきました。

ところが、無慮数百本の梅の木はまだ蕾のままです。

ただ一本だけ満開になっていました。

梅林には先日の大雪が残っていて寒々とした光景でした。

山の中の木下沢梅林から人里に下りてくると梅が咲いています。

もっと下り駒木野宿の跡地までくると数本の梅の木が重なるように咲いていました。

下にそのような写真をお送りいたします。

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木下沢梅林は上の写真の山の中腹まで数百本の梅の木が覆っています。全て満開になれば見事な眺望が楽しめます。写真の中央の一本だけ万開でした。

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下は駒木野宿の跡地に咲いていた梅です。

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藤田嗣治の油彩、「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」に関する補足説明

2014年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

旧友、竹内義信さんから今朝の藤田嗣治画伯の記事に関して貴重な情報をメールで頂きましたので以下にお送りいたします。浅学菲才の私が知らなかったことなので今朝の記事をより深いものにしてくれると思います。竹内さん有難う御座いました。

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後藤様

今日のブログも心を打つものでした。ご存知と思いますが,
哈爾哈河畔之戦闘は第六軍軍司令官だった荻洲立兵中将が
予備役になってから御自分の退職金で藤田嗣治に依頼して
描いて貰ったもので私は戦意発揚ではなく二万人になろうと
言う戦死者への鎮魂の絵であったと考えています。ソ連の
機動力に蹂躙された日本軍の軍司令官として敵戦車に銃剣
だけで攻撃した部下に対する鎮魂あるのみと考えます。
海拉爾の第23師団では負えなかったノモンハンに第六軍
が加わり大きな損害を被りました。植林のヴォランテイア
で休日にノモンハンにも行って来ました。話は変わって、
明日は東北大学3学科(金属、応化、精密)共同のゴルフ会で郷農
さんと一緒です。

竹内義信

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深遠な愛国心の重要性(2)藤田嗣治画伯の愛国心と悲劇

2014年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

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愛国心は非常に重要な愛の一種です。しかしその中身が問題です。 

私自身は強い愛国心を持っていますが、いつもその中身について迷って生きています。ただ偏狭な愛国心だけは避けてきたつもりです。

 今日はいろいろなことを考えさせる藤田嗣治画伯の愛国心について考えてみたいと思います。

 第二次世界大戦の前、彼は上のような油彩を描いてパリの美術界の寵児として絶賛を浴びていたのです。彼は本当に天才でした。傑出した画家でした。 

それが大戦勃発とともに急に帰国し、日本の軍隊の依頼に従って戦意高揚のために数多くの戦争画を描いたのです。 

日本軍のために絵画を描く芸術家たちの組織の理事長として、自ら積極的に戦争画を製作したのです。

 下に彼の戦争画を2点示します。

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上の絵は1941年の、「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」と題する大きな油彩です。

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上の絵は日本軍が初めて玉砕をした、「アッツ 島の玉砕」の油彩です。

 この絵画がアッツ島陥落後に東京で展示された時、藤田画伯は軍服のような国防色の服を着て、この絵画の前に立ったのです。

 そして彼はこの絵の前にお賽銭箱を置き、観覧に来た人々からの浄財を集めていたのです。

 人々がお賽銭を入れると藤田画伯は丁寧に敬礼をして感謝していたそうです。

 しかし日本は戦争に負けました。

 戦後、占領軍は藤田画伯を戦犯として逮捕するという噂におびえて知人宅に潜んでいたそうです。

 逮捕はまぬがれましたが、彼の心をひどく傷つけた のは人々の執拗な非難でした。とくに特高にいじめられた共産主義者の非難は陰湿で耐えられなかったようです。

そしてついにフランスへ亡命するように逃れ、1955年にはフランス国籍を取り、日本人でなくなったのです。1957年にはカトリックの洗礼を受け、名前もレオナーレ・フジタと称したのです。

ランスではカトリックの礼拝堂を建設し静かな信仰生活を送り、1968年、82歳で天に帰ったのです。日本へはめったに帰って来ませんでした。

さて戦争画を率先して書き、賽銭箱の前で敬礼をしていた藤田は本当に純粋な愛国心を持っていたのです。

彼のこの愛国心を軽率だと誰が非難できるでしょうか?私は黙するばかりです。

そして戦前何十年もフランスで暮らしている間に受けた差別の深さが彼の愛国心を育てたに違いありません。何かが間違っているような気が致しますが、私は藤田画伯の戦後の悲劇的な運命に憐れみと同情を禁じ得ません。

しかし1957年に洗礼を受け、神の慈しみのもとて本当の平和を味わったのです。

その穏やかな晩年を想うと何故かホッとしています。心が和みます。

下にカトリックの洗礼を受けた後の1960年に描いたイエスの降誕の絵を示します。

それにしても、つくづく愛国心とは難しいと感じ入っている今日この頃です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

そして明日は東日本大震災の三回忌なので犠牲者の冥福を祈ります。被災地の復興を祈ります。後藤和弘(藤山杜人)

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===レオナーレ・フジタに関する参考資料=====

1886年11月27日 ? 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家(晩年にフランスに帰化)であるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB より。

日本への帰国

陸軍美術協会理事長時代
南方戦線に従軍画家として派遣された藤田嗣治、宮本三郎小磯良平、昭和十七年

2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[3]、その後離婚する。1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。

2年後に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。

日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力に対する心無い批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。

晩年

傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。

1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。

1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

最後を見取った君代夫人は、死後も藤田旧蔵品を守り続けた。パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会図録等の監修もしている。2007年には東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開されている[5]。そして、40年以上を経た2009年4月2日に、東京で98歳にて没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。君代夫人が持っていた藤田作品の大半は、現在ポーラ美術館とランス美術館に収められている。

2011年、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年、1948年から1968年までで、戦時中のものは見つかっていない)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている。


ウクライナ海軍を封じ込めるために、自沈させたロシア海軍の艦艇・・・その荒っぽさに胸が痛む

2014年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

ウクライナ海軍の基地のあるドヌーズラフスキー湾の中のある艦艇を封じ込めるために、ロシア海軍が艦艇を自沈させたのです。これでウクライナ海軍は出動出来なくなったのです。

3月7日、ロシアが古い艦艇を爆破して沈めたのです。その前近代的な荒っぽさに胸が痛みます。ロシアは何が何でもウクライナを屈服させる決心のようです。まず下の写真をご覧下さい。

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 船の右はドヌーズラフスキー湾、左が黒海。水深が浅いため、船体は海上に姿を見せている。漁船のような小型船舶以外は航行不可能になっている。=7日、ドヌーズラフスキー湾出入口 写真:田中龍作。(写真の出典は、http://blogos.com/article/81910/ です。)

このような敵艦隊を湾内に封じ込める作戦は、東郷平八郎元帥が旅順港の

ロシア艦隊を封じ込めるために、1904年に自分の艦艇を自沈させたのと同じです。

今年は2014年なので、1904年から110年も後なのです。時代錯誤です。

ロシアはクリミア半島への増援部隊をどんどん送っている上、海軍もウクライナ海軍と対決する姿勢を取っているのです。

どうも雲行きが悪くなってきたようです。ロシア軍とウクライナ軍の戦争が始まらないようにと祈るほかありません。

ウクライナ紛争は長引きそうな展開になって来ました。(終わり)


深遠な愛国心の重要性(1)ニコライの日本を愛する心

2014年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

深遠な愛国心はその民族を幸せにし、浅薄な愛国心はその民族を不幸にします。

これは原理原則ですからそれで良いのですが、それでは深遠な愛国心とは具体的にどういうことでしょう?

今回から始める「深遠な愛国心の重要性」という連載では、「愛国心」の中身を具体的に考えていきたいと思います。いくつかの深遠な愛国心の例を示して考えを進めていきたいと思います。

そして願わくばこの日本に深遠な愛国心が広がるように願いたいのです。

今日はロシア正教のニコライ・カサートキンという人の日本を愛する心を具体的にご紹介したいと思います。こういうのも深遠な愛国心の一例と思います。

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。

 二本に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。

明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(ニコライ堂から買って来た葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 

ニコライは明治天皇を尊敬し、深く日本の信者を愛していたのです。信者を愛することは「その隣人」日本人をも愛したのです。イエス様がそのように命じたのですから。

ですから私は、ニコライの愛は日本民族に対する「深遠な愛の心」の具体的な一例だと信じています。それを私は日本に骨を埋めたニコライの愛国心と言うのです。(続く)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

そして東日本大震災の三回忌が近いので犠牲者の冥福を祈ります。被災地の復興を祈ります。後藤和弘(藤山杜人)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。ここに転載しご紹介いたします。

=======ニコライの生い立ち=========

スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)修道司祭に叙聖された。

翌1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。

関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行された(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)サ。注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)。


水ぬるむ多摩川の流れ

2014年03月08日 | 写真

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今日は朝から午後まで晴天でした。

多摩川の中流の府中郷土の森博物館さきの無料駐車場に車を停めました。

家内に命じて「水ぬるも多摩川」というテーマで写真を撮ってもらいました。最後の1枚は近くにあった早咲きの桜です。

のんびりと釣りをしている人もいます。堤防の上の自転車道路を歩く人、ランニングのひと、自転車で走っている人もいます。子供連れの家族が岸辺の平地でバーベキューをしています。

人それぞれ春の陽射しを浴びて楽しんでいるのです。眺めていると自分たちも幸せになります。良い時代になったと考えていました。今日の散歩でした。(終わり)


小さな幸せが大きな幸福へ(6)旧友の本の発売に感じる小さな幸せ

2014年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム

私の古い友人に馬場駿という小説家がいます。伊東市で岩漿文学会を主宰し、同人誌を出してきました。処女出版は馬場駿の筆名で「小説大田道灌」です。

しかし今までは販売ルートが無くて一般の人には入手困難でした。

私は、素人の小説家がプロに育つには作品を全国の人が簡単に購入出来るようにしなければいけないと思っていました。この考え方には反対の方々もいると思いますが、私は昔からそのように思っていたのです。

今回、馬場駿がはじめてAmazon Bookから「孤往記」-愛おしき蒼さのなかでーという小説を全国へ向けて発売したので。その本の写真を下に示します

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Amazon Bookを検索し、その検索欄に「孤往記」を記入すると価格や購入手順が出て来ます。

今までの馬場駿の努力を応援するために、このブログで彼の作品をご紹介してきました。その作品の一覧は末尾につけてあります。

これまでは販売ルートに問題があり全国の人々が気軽に購入出来なかったのです。

しかし3月7日よりAmazon Bookから発売されるようになって、私は小さな幸せを感じています。彼の長年の努力が少し報われたようで嬉しいのです。私も幸福感に包まれています。

馬場駿と一緒に飲んだのは40年くらい前でした。

深い森の奥の、彼の兄の木内正夫さんの山荘の中、燃えさかる暖炉の前で、愉快な一夕を過ごしたのです。

彼らが自分たちで作った石の暖炉の前で楽しい話し合いをしながら飲んだのです。

あの夜以来一度も会っていません。しかし私は忘れないのです。

彼と一緒に過ごした山荘の最近の写真を示します。下の写真はその山荘に登って行く入口の風景です。雪に覆われた雑木林が美しく連らなっています。

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雪道を2Kmくらい登ると馬場駿の実兄の木内正夫さんの山荘に着きます。下の写真の左端にその山荘が写っています。

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馬場駿の処女出版、「小説大田道灌」の書評はこのブログで2007年11月に、馬場駿著「小説大田道灌」の読後感 と題して掲載しました。

その後、彼の岩漿文学会の「岩漿」については第19号まで、その内容をこのブログで紹介してきました。

そのようないきさつもあるので、今回の「孤往記」の全国向けの発売は本当に嬉しく思うのです。ほのぼのとした満足感と幸せを感じています。小さな幸せですが、それを紡いで行くと大きな幸福になると思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===================

(1)小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡

=======「筆名は心の師」、木内光夫============

二十年以上も前、仔細あって所謂都落ちし、伊豆の地で志とはかけ離れた生活を悶々として送っていたときのことだ。生涯の師と仰ぐ馬場駿氏が単身、私の勤務先の観光ホテルを訪れた。このとき師は、かつて私が在籍していた会社を資本金数十億円にまで大きくし、社長付常務取締役として八面六臂の活躍をしていた。秘書も不知のお忍び旅行だという。師は私と妻を夕餉に誘い、その場で泣かんばかりにして私の現状を嘆き憂えた。こんなところで何をしているのだと。

この師との出会いは劇的だった。この会社の横濱支社へ応募した際、私は身内の身元保証を得られなかった。三十五六まで夢を追い、赤貧洗うが如しのアルバイト生活を送っていた私の、言ってみれば身から出た錆。私は不採用という結果に甘んじるしかなかった。ところが後日、会社が突然再面接を申し入れてきた。当時会社顧問だった師が支社長へ指示をしたのだ。高校任意退学、文部省大検一回全科目合格、通信教育四年で大学の法科卒、以後法曹を目指して職業的には浪々。師は弾かれた履歴書群の中から私の一枚を拾い上げたのだ。一転私は採用、本来経済力が必要な保証人も、母が「私が産んだ」という証明をもってこれに代えて可、となった。調査はしたよと破顔一笑の師。M銀行支店長だったという師はある日、「僕は東大卒、京大卒いろいろ部下をもったが、君のようなタイプは初めてだ」と肩を叩いてくれた。その言葉の含意は今も不明だが、私は心でその言葉を受け止めた。

心の師が翌朝ホテルを去る際に至言をくれる。「大都会で金や地位欲しさに暗闘しているよりも、疲れ果てた人を癒す仕事の方が数段上かもしれないな。ゆうべは言い過ぎた。悪かった」。文通はその後も続いたが、師は難病に罹り終に帰らぬ人となった。私はホテルサービスという仕事から卑屈な想いを取り去った。師に認められた自分を思い出し、その事を支えにあらゆる屈辱に耐えた。処女出版「小説大田道灌」の筆名は馬場駿。自伝ではないが師に肯定された私の過去が入る連載小説「孤往記」も。あと一冊は筆名馬場駿でと、今は小説「疎石と虫」と向かい合う。(終り)

(2)小説家、馬場駿に関してこのブログに掲載した記事の一覧

連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その4、亡き母を始めて受け入れ、懐かしく思う

連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その3、亡父は、酒好き、女好き、怠け癖
連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その2、母の危うい姿
連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その1、母の遺稿集を編集する
総合文芸誌、「岩漿」第21号のご紹介です
馬場 駿 著、「夢の海」の紹介・・・旧友の小説
ブログに掲載したあなたの文章を「岩漿」という文芸誌で活字にしてみませんか?

小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡

川越城の本丸御殿の改修が終わりました

馬場 駿 著、単行本、「夢の海」の紹介・・・旧友の小説

馬場駿著「小説大田道灌」の読後感 (2007年11月掲載記事)


春は名のみの風の寒さよ、空の暗さよ

2014年03月07日 | 写真

今日の午前中は空一面の青空で、暖かい陽光が射していました。

昼食後、都立武蔵野公園に行き、「水ぬるむ野川」というテーマで、組み写真を撮るつもりで家を出ました。

公園についたら急に黒い雲が覆い、冷たい風が吹き荒れだしたのです。不連続線が通過しているようです。

そのうち風花のような雪が舞い降りてきました。

帰宅し、このキーボードを打っている窓の外には霏々として雪が降っています。でも向こうの空が明るくなって来たので間もなく晴れそうです。

下に暗い雲に覆われた公園の写真をお送りいたします。

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Img_5055

寒い風が吹いていますが、よく見ると紅梅が咲いていたり、菜の花が咲いています。やはり春は間違いなくやって来ているようです。

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そして野川で遊ぶ鴨の動きも活発になって来ました。春の近いことが分かっているのでしょう。

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写真は家内が公園内をランニングしながら撮ってくれました。出かける前に、「春は名のみの、風の寒さよ」というテーマで組み写真を撮って来てくださいと頼みました。

私は10日ほど前に雪道で足を痛め、まだ少ししか歩けないので車の中から広々とした公園の中を走り回っている家内の姿を眺めていました。

こうして老境の日々がまた静かに流れて行きます。

老境はしみじみ佳いものだと思います。(終わり)


キャロライン・ケネディ大使の国谷裕子さんによるテレビ・インタビューの問題点

2014年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

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(左の写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3 右の写真の出典:http://talent.yapy.jp/talent/315/ )

昨日のNHKクローズアップ現代という番組で、国谷裕子さんによるキャロライン・ケネディ大使のテレビ・インタビューが午後7時30分から30分間放映されました。

1960年代にアメリカの月ロケット製造の決断をし、キューバ危機を解決し、黒人の公民権を認めた後、テキサスで暗殺されたケネディ大統領の実の娘の出演なので興味深く見ました。

感想を一言で書けばあの傑出したケネディ大統領の決断力も叡智もあまり感じられないのです。

夫と子供達を守る家庭の主婦としては優雅で、優しくて魅力的な女性です。しかし日本人に分かりやすくアメリカの期待や要求をほんど何も説明しないのです。

唯一の政治的な発言は、安倍総理の靖国参拝がアメリカの国益に反して失望したということだけでした。それを繰り返し繰り返し、優雅にしゃべるだけです。どういう意味で失望したのか説明しません。

韓国と日本は協力しあって日米韓の団結を強め、太平洋に乗り出そうとしている中国を牽制しなければいけなのです。こんなことは心ある日本人にとっては当たり前のことなのです。

それに比べインタビューをした国谷裕子さんは安倍総理の思想や政治に対するアメリカ人の意見を聞くために具体的な問題を幅広く用意していたようです。

少し具体的な質問をすると、ケネディ大使は日本はアメリカにとってとても重要な同盟国だと繰り返すだけで具体的な返事をしないのです。

安倍総理の経済活性化、憲法解釈方針、TPP交渉姿勢、尖閣諸島防衛、シリアやウクライナ紛争などの諸問題について、アメリカは日本に対して何を期待し、要求したいのか礼儀正しく説明しべきと思います。

それが日本に駐在しているアメリカの大使の役目ではないでしょうか?

日本人に不快感を与えずアメリカの期待を明快に説明すべきと思います。

どの期待を日本人が実行し、どの期待を実行しないかは、こちらの勝手です。それをはじめから説明しないのですから困ったものです。

昨日の番組を見ながら、長く在任していたマンスフィールド大使を思い出していました。アメリカの国益を守るために積極的に活躍していました。日本人に不快感あたえないように礼儀正しく、分かりやすい説明をしていたことを思い出しました。

昨日のインタビューの様子を見ながらオバマさんの安易な大使任命ぶりにいささか失望しました。彼はどうも2期目は、シリア問題やウクライナ問題でプーチンさんのなすがままの様子と思い合わせ、いろいろ考え込ませる昨夜のテレビ番組でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


安心して楽しめる古流生け花の写真

2014年03月06日 | 写真

生け花にも日本の伝統的な古流もあれば前衛的な流派もあります。

昨日ご紹介しました、はなやかな假屋崎省吾氏の生け花の世界をお楽しみ下さい は前衛的な作品群です。草月流で育って、自分の境地を切り開いた假屋崎省吾さんの作品には前衛的な作品が多いです。

それと対称的な生け花には古流の諸派があります。

日本人の体にしみついた「侘び」や「寂び」の感性のせいか抵抗感なくその美しさを楽しめます。

安心して楽しめるのです。何故か郷愁さえ感じさせてくるます。

今日はそのような古流生け花の写真をいくつかお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

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写真の出典は、http://kinkun.blog87.fc2.com/blog-entry-165.htmlです。

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写真の出典は、http://www.nihonkoryu.org/jp/works/works.htmlです。

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写真の出典は、http://blogs.dion.ne.jp/385/tag/%91%E6%82T%82P%89%F1%82%A2%82%AF%82%CE%82%C8%8B%A6%89%EF%93W%81@%93s%8C%C3%97%AC%81@%89%C6%8C%B3%8F%AC%97%D1%88%EA%88%A2%9C%5C%81@%93y%8B%8F%88%EA%8D%CA%81@%83I%83%93%83V%83W%83E%83%80%81@%83%86%81%5B%83J%83%8A%81@%8ER%E4%A3%E4%CE%81@%82%A8%90%B6%89%D4%81@%90%B6%89%D4%81@%82%A2%82%AF%82%CE%82%C8%81@%8C%C3%93T です。


日本に生まれた幸運に感謝!・・・ウクライナの複雑な民族構成と多数の宗教

2014年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は海に囲まれているので他民族の流入が無く、単民族に近い邦です。

宗教も穏やかな仏教が人々をなんとなく守ってくれていて、平和な社会が戦後69年近くも続いています。

混乱の続くウクライナの人口構成や宗教事情を調べながら、つくづく自分が日本に生まれた幸運に感謝しています。

何せウクライナには18以上の民族が混在して生活しているのです。

2001年の統計によると総人口は4842万人で、そのうちの3745万人がウクライナ人で、ロシア人が833万人も混在して住んでいるのです。

その他、モルドバ人、ベラルーシ人、タタール人、ブルガリア人、ハンガリー人、ポーランド人、ドイツ人、などの他に、多数のユダヤ人やロマ(ジプシー)まで住んでいます。詳しい各民族の人口については末尾の参考資料をご覧下さい。

今回起きたウクライナのデモと大統領の追放、そして暫定政権の樹立、それに対抗したロシア軍によるクリミア半島の占領の一連の騒動はこのような多民族構成の国で起きた社会現象なのです。

昨日、ウクライナが東西に分離独立する可能性を示す地図 という記事で示したように、ウクライナの北西部の半分は親ヨーロッパ的で、南東部の半分は親ロシア的と文化も違うようなのです。2つの国として分離、独立する可能性さえ言われているのです。 

今回のウクライナの騒動を、親ヨーロッパ的勢力と親ロシア的勢力の争いと理解するのは大筋で間違いの無い理解でしょう。

しかし18以上の民族がそれぞれの国の文化を背負って、ウクライナへ移住してきたのです。その移住の理由や歴史も全て違うと考えるのが自然な考え方です。

今回のウクライナの騒動の背景には18以上の民族の悲しみや苦難の歴史があるのです。

その上、ついでに書けば人々の宗教も非常に違います。

ギリシャ正教の流れを汲む東方教会があります。

ロシア正教もあり、ウクライナ正教もあり、その上、独立的な正教会宗派もあるのです。タタール人の宗教もあります。

カトリックもあり、プロテスタン諸宗派すらあります。もちろんユダヤ教もあります。

末尾の参考資料をご覧下さい。これにはイスラム教の統計結果は出ていませんが必ずやイスラム教徒もいる筈です。

私の言いたいことは、ウクライナの社会混乱の向こう側には我々日本人が想像もつかない複雑な悲しみの歴史があるようです。

ウクライナに、これ以上の騒動が起きないで、平穏な社会が来るようにと心からお祈りいたします。

そして海に囲まれ、穏やかな仏教に守られている日本という国に生まれ育った幸運に感謝します。私は高齢になったせいか、この日本に生まれた幸運を毎日のように想っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

参考の写真と資料:St_volodymyrs_cathedral_in_kyiv_200

上の写真は、キエフにある聖ヴォロディームィル大聖堂で下の写真は、聖アンドリーイ教会です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99です。

Andreaskathedrale_kiew1

ウクライナの民族構成 1989年-2001年

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3#.E6.B0.91.E6.97.8F.E6.A7.8B.E6.88.90

民族
group
センサス 1989年1センサス 2001年2
%%
ウクライナ人 37,419,053 72.7 37,451,693 77.5
ロシア人 11,355,582 22.1 8,334,141 17.2
モルドヴァ人 / ルーマニア人 459,420 0.9 409,608 0.8
ベラルーシ人 440,045 0.9 275,763 0.6
クリミア・タタール人 46,807 0.1 248,193 0.5
ブルガリア人 233,800 0.5 204,574 0.4
ハンガリー人 163,111 0.3 156,566 0.3
ポーランド人 219,179 0.4 144,130 0.3
ユダヤ人 486,628 1.0 103,591 0.2
アルメニア人 54,200 0.1 99,894 0.2
ギリシャ人 98,594 0.2 91,548 0.2
タタール人 86,875 0.2 73,304 0.2
ロマ人 47,917 0.1 47,587 0.1
アゼルバイジャン人 36,961 0.1 45,176 0.1
グルジア人 23,540 0.1 34,199 0.1
ドイツ人 37,849 0.1 33,302 0.1
ガガウズ人 31,967 0.1 31,923 0.1
カライ人(ユダヤ人) 1,404 0.0 1,196 0.0
その他 209,172 0.4 539,604 1.1
合計51,452,034

48,416,000

ウクライナ全体の宗教の分布統計http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99

(1)キリスト教徒 - 33.6%

  東方正教会 - 26.8%

カトリック - 5.9%

    プロテスタント - 0.9%

 (2)ユダヤ教徒 - 0.1%

(3)その他 - 3.2%

    (4)無所属/不明 - 62.5%

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はなやかな假屋崎省吾氏の生け花の世界をお楽しみ下さい

2014年03月05日 | 写真

今日は朝から冷たい雨が降っています。

暗い「灰の水曜日」です。午後7時からのミサに出て神父様に灰を頭にかけて頂こうと思っています。しかし元気が無いので華やかな假屋崎省吾さんの生け花の写真を見て気を奮い立たそうと思いました。下の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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http://www.hakone-oam.or.jp/information/artsj2010.htmlから転載させて頂きました。

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http://www.petoffice.co.jp/blog/kariyazaki/blog.cgi からお借りしました。

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写真の出典は、http://suntoryflowers.blog.suntory.co.jp/004559.htmlです。

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写真の出典は、http://www.petoffice.co.jp/blog/kariyazaki/blog.cgi/permalink/20131001175642です。

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写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/prettycherrypie/33514893.html です。


ウクライナが東西に分離独立する可能性を示す地図

2014年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

以下の資料はhttp://www.cnn.co.jp/special/interactive/35044749.htmlから転載させて頂きました。

地図で見るウクライナの分断

ウクライナがほぼ10年ぶりの政情不安に陥っている。欧州連合(EU)との貿易協定をめぐる議論に端を発した反政府デモは、親ロシアのヤヌコビッチ大統領の追放という事態に発展し、首都キエフに新政権が樹立された。ウクライナはロシアと欧州の境界に位置する最大の国で、これまで双方の影響を強く受けてきた。下の地図は、言語や大統領選の結果からみたウクライナの分断を示している。

言語

国民の7割は公用語のウクライナ語を話すが、ロシア語も広く使われている。ロシア系住民が多数を占める東部や南部クリミア半島などでは、ロシア語が第一言語というケースが多い。クリミア自治共和国の首都シンフェロポリでは2月27日、ウクライナ新政権の発足に対して激しい抗議デモが起きた。クリミア半島はヤヌコビッチ前大統領の支持基盤で、南部セバストポリにはロシア軍の黒海艦隊が駐留している。

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出典: 2001 Ukraine Census

2010年大統領選

激戦となった2010年の大統領選では、親ロシアのヤヌコビッチ氏が小差で親欧州のチモシェンコ元首相を破った。ヤヌコビッチ氏が東部で大きな支持を集めたのに対し、西部のほとんどの地区ではチモシェンコ氏が支持された。

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出典: Ukraine Central Election Commission

天然ガスパイプライン

ウクライナという国が世界的に重要視される理由のひとつは、地理的条件にある。米戦略国際問題研究所(CSIS)のロシア外交などに詳しいジェフェリー・マンコフ氏によると、欧州は現在、天然ガスの約4割をロシアに依存しているが、このうち半分がウクライナのパイプラインを通して供給される。

ウクライナ自体の依存度はさらに高く、ヤヌコビッチ政権はロシアから天然ガスの大幅値下げへの同意を取り付けていた。しかしロシアはこれまでに何度か、ウクライナとの対立で供給を停止したことがある。今回また供給が止まれば、企業や一般家庭の燃料費は高騰する恐れがある。

出典: National Gas Union of Ukraine

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小さな幸せが大きな幸福へ(5)早春の須磨の海苔とイカナゴの釘煮から感じる小さな幸せ

2014年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

偶然知り合って意気投合し、お酒を酌み交わすということが人生にはあるものです。

もう10年近くなりますが鈴木 裕さんという人のすがすがしい生き方に感動して一夕、お酒を酌み交わしました。静かに話を聞きながら飲みました。

彼は日産自動車の技師でしたがその頃、早めに退職し自立した人生を切り開こうとしていました。そして車のラリーを普及させるためにいろいろなイベントを企画していました。

神戸にある実家に帰り、母と妹さんと3人で静かな生活をしています。その後ある大学の先生になったようです。

それ以来、毎年、お正月過ぎの早春に香り高い須磨の海苔を送ってくれます。

そして3月になり、イカナゴ漁が解禁になると風味絶佳の「釘煮」を送ってくれるのです。母上と妹さんが丁寧に仕上げたいかなごの釘煮です。

下に今年お送り頂いたイカナゴの釘煮の写真を示します。

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山椒を入れたものと生姜を使ったものの2種類です。山椒は、その生産量日本一和歌山県有田川町で採れる「ぶどう山椒」と言う品種だそうです。

イカナゴは解禁直後のもっとも小さいシンコと呼ぶ稚魚を使います。下にその写真を示します。

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イカナゴは不思議な小魚で、暑さに弱く、梅雨時から秋まで砂の中に潜って夏眠する魚です。全国に分布していてコウナゴと呼ぶ人もいて、呼び名は地方によっていろいろあるようです。

釘煮を作る時は小さなイカナゴを沢山鍋に入れ、醤油、みりん、砂糖、生姜あるいは山椒を入れて煮込みます。此の時、絶対に掻き回さないそうです。繊細な魚なので動かすと壊れてしまって団子状になるそうです。

とにかく焦さないように根気よく煮詰めて、汁が完全に蒸発して無くなるまで煮詰めます。弱火、というかトロ火で炊くのです。

その煮詰めた時の味加減が非常に重要なのです。

鈴木さんの母上の味は上品です。その上、生姜や山椒の香りが程良くてなんとも言えない風味があるのです。料理は作っている人の性格を表わすと言いますが優雅で、その上根気の良い母上のお人柄が偲ばれるのです。

何時も家内のことを持ち出して恐縮ですが、須磨の海苔とイカナゴの釘煮が届いた時には本当に幸せそうにしています。2種類の釘煮の仕切りを葉蘭でしてあるのですがその細かな切り方が本当に丁寧な事に毎年感嘆しています。

文字通り風物詩の少し高尚な小さな幸せです。こんな事が人生にはあるものなのです。

下に関連の写真を下に示します。出来たら是非イカナゴの釘煮をネットで購入し味わってみて下さい。いわゆるコウナゴの佃煮とは風味が違います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===以下に須磨の海苔とイカナゴ漁の写真を示します===

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左が須磨の海苔で、右の写真は須磨の海で養殖した海苔を船で収穫している様子です。

写真の出典はhttp://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/photo/number27/special_features/index2.htmlです。 

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左は今年の2月28日の解禁日に須磨沖でオカナゴ漁を始めた漁船の様子です。右の写真は今年の初水揚げされたイカナゴです。この二つの写真は2月28日の神戸新聞http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201402/0006742352.shtmlから転載致しました。