後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

お薦めの夏の旅(4)国宝松本城とその近辺の観光地への旅

2014年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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これら3枚の松本城の写真の撮影日時:2008年8月5日午後3時頃でした。

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松本は特急に乗ると東京から2時間くらいで行ける便利なところです。しかし山々にかこまれ別天地です。

そこを起点にして上高地、乗鞍岳、黒部ダム、信濃3湖、白馬た栂池、そして戸隠や野尻湖へも行ける観光地の中心なのです。そしてすぐ北側には美ケ原高原もあります。

ですから松本市内のホテルに一泊して松本城を見てから、いろいろな観光地に旅するコースをお薦めしたいのです。 

そこで以下に松本城についてご紹介したいと思います。

戦国時代に築城され国宝としてされている城は、姫路城、彦根城、犬山城、そしてこの松本城の4つだけです。1504年に作られました。松本平の信濃府中(井川)に居をかまえていた、信濃守護家、小笠原氏が松本城を築城しました。当時は深志城と呼ばれていました。

その後、武田信玄の攻略に会い、武田家の越後、上杉謙信との抗争の拠点の一つとなります。

豊臣秀吉の全国統一とともに秀吉一派の居城となり、大阪冬の陣以後の江戸時代は、徳川家のものとなり松本藩として松平家や水野家が城主になったのです。

信長、秀吉、家康の勢力の盛衰にともなって奥州、関東、越後、信濃の諸城の主がめまぐるしく変ったのです

短期間で城主が交代する歴史は人の世の儚さです。

明治維新後の政府は旧勢力の象徴であった全国の城を解体したり競売にかけました。

松本城も明治5年に競売にかけられ、解体されそうになる。しかし地元の有力者、市川量造氏などにより買い戻され、解体の難を避けることが出来た。

ところが深志の沼地に建てられていた天主が明治30年代に傾きはじめたのです。それを修理したのが旧制松本中学校の校長、小林有也氏などによる天主保存会でした。明治36年からの大修理で天主閣が再び垂直に聳えるようになったのです。

昭和5年に国の史跡、昭和11年に国宝に指定されました。昭和25年から30年の5年間の昭和の大修理が行われ、現在の雄姿になったのです。

松本城は、北アルプスの連山、塩尻峠、美ケ原高原などに囲まれた広大な盆地の中心にあり、遠方に住んでいる人々からも天主閣が見えます。

特に明治維新以後、松本平に住んでいた人々の努力で保存されてきた歴史には深い感概をおぼえます

、明治30年代の傾いた天守閣の写真を転載します。(写真の出典:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%9F%8E Wikipedia、松本城より)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

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This castle, named as Matsumoto Castle, has been built in 1504 AD
and one of the four castles of Japanese National Treasure. When the modern revolution was occured in 1867 in Japan., this castle was in danger of  destory. However, the citizen of Matsumoto town have bought this castle from the new central government. Since then, this castle was well maintained by the people of  Matsumoto City, located in cetral Japan.The top 3 pictures were taken on August 5th., 2008.


どう考えても高すぎる!・・・合歓の木の花を見て気分が静まりました

2014年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

さきほどルイ・ヴィトンのハンドバッグやシャネルの婦人服の値段を調べいました。バッグが1個、30万円から50万円ほどです。同じようなバッグの国産品なら5万円から15万円です。シャネルの中古の婦人服が2万円から10万円です。日本製の中古の10倍くらいするようです。

有名ブランドとはいえ、いくらなんでも高すぎます。健全な家庭の主婦が買う商品ではないと感じました。

なぜか気分が悪くなってきたので、6年前の山で撮ってきた合歓の木の花の写真をしみじ見ました。気分が静まり平穏な気持ちになりました。

そこで皆様へも合歓の木の花の写真をお送り致します。

この合歓の木は北杜市武川町、横手の「みよしや」の前の三叉路の北角に有ります。高さ8mくらいの大木が3本でした。

しかし次の年に行ったら2本が切り倒されていて枝を切り落とされた1本だけが残っていました。残念でした。悲しい思いをしました。電線の邪魔になったので切り倒したのでしょうか?

そこで昔の3本の木に咲いていた花の写真をお送りします。

繊細な構造の花の感じをお楽しみ下さい。

撮影日:2008年7月19日17時と20日9時でした。

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ルイ・ヴィトンのハンドバッグの価格・・・世の殿方へ参考までに

2014年07月25日 | うんちく・小ネタ

 

 

カルーゼル
¥203,040
雨の日も晴れの日も、このバッグさえあれば大丈夫。ファスナー付きの2つのコンパートメントと使い勝手の良い隠しポケットなど、デザイン性にも優れています。

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コンパクトなショルダーバッグ「ブルームズベリPM」は、フロント部分のプリーツ付きポケットがフェミニンなデザイン。シンプルでスムーズながらもポケット上部のレザーのインパクトあるトリミングでファッショナブルな印象に。内側だけでなく外側にもマグネット開閉式のポケットがついて機能的です。

 

 

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アルマBB

204120円
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371520円
「ヴァージニアMM」は自らのファッションをこよなく愛する女性たちのために生まれた上品でスタイリッシュなバッグ。都会でのさまざまなシーンで活躍するデザインに、光沢のあるモノグラム・ヴェルニ_レザーが愛らしく洗練された雰囲気を添えます。

縦横上から見た原図は以下のURLに出ています。

その他多数のバッグについては、http://jp.louisvuitton.com/jpn-jp/women/handbags をご覧下さい。


シャネルの婦人服は中古でもこの価格です・・・世の殿方へ参考までに

2014年07月25日 | うんちく・小ネタ

商品の名をクリックすると詳細情報が出て来ます。

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33,696

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ブランドと人の心(2)女性の魂を奪うシャネルとルイ・ヴィトン

2014年07月25日 | インポート

シャネル社の創業は1909年でありルイ・ヴィトン社は1854年です。どちらもパリでの店が隆盛をきわめ、フランス文化のしゃれた華麗さが魅力になっています。

ただ華麗なだけでなく、少し病的な雰囲気も混じっていて単なる美しい工芸の世界から芸術の世界へにつながる深い美しさを出しています。

このブランドは、工業製品であるロールス・ロイス車のブランドとは異なる意味を持っています。異なるブランド力を持っています。

シャネルとルイ・ヴィトンはフランス文化を背景にして商品のイメージを高め、世界中の女性の心を掴んでいるのです。

ロールス・ロイスはあくまでも車の高品質性と信頼性を保証するブランドなのです。しかしシャネルやルイ・ヴィトンは高品質性とか信頼性のような実質性とは無縁の商品なのです。

と言えば言い過ぎで、高品質性と高級イメージの両方が重要な商品なのです。

下にシャネルとルイ・ヴィトンの公式HPからの写真を一枚ずつ示します。

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上のようなHPを見ると「イメージ商品」という私の主張がお分かりと思います。

シャネルは帽子のデザインから出発して現在はしゃれた婦人服、香水、化粧品、装身具などなど女性向けのあらゆる商品を売っています。

それらの品質は上のファッションショーとは直接関係ありません。しかし華麗なファッションショーの写真を先に出して、あとで商品の紹介をするのは、「まずあなたも華麗になります」というメッセージなのです。イメージが先行しているのです。

そして下はルイ・ヴィトンのHPの写真です。Louisvuittonfashionshowcampaignlv_w

この写真のルイ・ヴィトンではいきなりハンドバッグや旅行鞄の写真を出しません。美しいイタリア車のそばにたたずむ女性にハンドバッグをさりげなく持たせています。

ルイ・ヴィトンという会社は車は製造していません。美しいイタリア車のイメージを借りてハンドバッグの美しさを引き立ているのです。

「このハンドバッグを持つと写真の女性のように美人になります」というメッセージを送っているのです。

このようなイメージ商品は現代文化を多彩にし、そして楽しくしてくれいます。

ですからこそ私は大切にすべき文化の一分野と尊敬しています。

それにしても販売価格が高すぎると思います。高ければ高いほど売れるそうです。

購入する女性の虚栄心が少し関係しているようで、もしそうならあまり感心出来ません。

それはさておき、美しい夢を売っている商品です。世界の経済が発展すれば、ますます隆盛する一分野と考えられます。

下にココ・シャネルの写真と香水のシャネル五番の写真を示します。

そしてその下にはルイ・ヴィトンのハンドバッグと靴の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。

後藤和弘(藤山杜人)

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===シャネルの起業、ルイヴィトンの起業などについて========

ココ・シャネル(1883年 - 1971年)の活躍:

前の部分は省略します・・・・その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。

1910年に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。

1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。1918年に、第一次世界大戦が終戦。・・・以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%AB にあります。

ルイ・ヴィトン(1821年 - 1892年)の起業と死後の隆盛:

前の部分は省略します・・・・ルイ・ヴィトンが評価されるようになったのは、創始者であるルイが亡くなった後のことである。ヴィトン社はまず「グリ・トリアノン・キャンバス」(Gris Trianon) というトランク工場として創始された。このトランクは灰色のキャンバス地で覆われており、とても軽量なものであった。1854年、ルイはエミリー (Emilie Clemence Pariaux) と結婚、同年、世界初となる旅行用鞄の専門店をパリに創業。3年後の1857年には息子のジョルジュ (Georges Vuitton) が生まれた。

1859年、アニエール=シュル=セーヌに最初のアトリエを構える。

1860年、ヴィトン社は需要に押されて規模を拡大した。1867年、万国博覧会で銅メダルを獲得。これにより世界的な評判を得、1869年にはエジプト総督のイスマーイール・パシャが、1877年にはロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)がそれぞれ、1セットのトランクを発注した。また、当時世界的に力を持っていたスペイン国王アルフォンソ12世からもトランクの注文を受けるなど、主にスラブ、ラテン系王侯族に重用された。

トランクの上から布地を貼るというルイの技法は賢明であったが、容易にコピー商品が出回ることとなり、1872年、ルイは別の布地を使うようになった。この布地は、「Striped Canvas」として知られているベージュと赤の2色で色づけされた布地である。しかし、これもすぐにコピー商品が出回ることとなった。・・・・・

以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%88%E3%83%B3 にあります。


都立薬用植物園の昨日の花々です

2014年07月24日 | 写真

昨日、薬草植物園で撮ってきた写真の続編です。お楽しみ下さい。

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上の写真はフウチョウソウ科のクレメオです。セイヨウフウチョウソウとも言います。

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上はキク科のオオアワダチソウです。

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上はコガネバネで、根が漢方薬になり、消炎、解熱、下痢止めなどに効果があります。オウゴン湯にします。

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上はウリ科のトウガンです。種が鎮咳、排膿に効果があります。

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上はチョウセンアサガオです。麻酔薬になります。華岡青洲が江戸時代に麻酔薬に使ったことが有名です。キチガイナスビとも言います。


お薦めの夏の旅(3)はるかな上高地への旅

2014年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

上高地は神々しい別世界です。険しい山々をバスで根気よく登り、最後の長いトンネルを抜けると、いきなり眼前に穂高の連峰が広がり、梓川と大正池が夢幻のような盆地を作っているのです。

とにかく自家用車禁止ですから下の沢渡の大駐車場に車を置いてバスでしか行けない所です。夏でも標高が高く乾いた涼しい風が吹いています。夏に行くと上高地の良さが一段と深く分かるのです。

しかし夏は混みあいます。混雑を避けるには8月のお盆休みとその前後は行かない方が良いと思います。

上高地は昔、神垣内と書いたり、神河内と呼んでいたそうです。とにかく神々しい景観なのです。日本のどこにでもある谷川の風景とは全く違う神秘的で、そしてロマンチックな景観なのです。

以前は梓川沿いのバス道も無く、神河内に入るには北アルプスの高い山の上の徳合峠を越えて、この別世界へ降り立ったのです。苦しい山越えの後で見たこの夢幻的な景観に人々は桃源郷を連想したのです。極楽浄土を連想したのです。

明治の始めころ、イギリス人のウエストン卿も徳合峠を越えて、神河内に降り立ったのです。そのときの感動を記した彼の著作を読むと私の胸も躍ります。

ウェストンは感動のあまり何度も徳合峠を越えて神河内へ足を運びました。人柄が良く山案内人に信頼されたと言います。このウェストンこそが上高地の魅力を日本人へ教えたのです。現在、彼のレリーフが静かに梓川を見降ろしています。

私は23歳の夏に、JR大糸線の穂高駅から中房温泉に泊り槍、穂高へと縦走しました。もう55年も前のことです。

中房温泉から燕岳を乗り越えて、大天井岳、西岳と尾根道を縦走し、槍の肩の小屋に一泊です。次の日は南岳へ尾根道を縦走してます。南岳からは最大の難所の大キレットを慎重に渡り北穂小屋に泊りました。そして最後に穂高からカラ沢を下り、梓川沿いに上高地に降り立ったのです。

そこには想像も出来ない神々しく感動的な光景が広がっていたのです。

清流の梓川。白い川瀬には茂る柳の木。白樺林。立ち枯れの木のある大正池。河童橋にのしかかるように聳えている明神岳。それを回り込むように蛇行する梓川。

すべてが夢心地のような風景です。

一度でも行ったことのある人とっては終生忘れられられない思い出の景観です。そして行ったことのない人々にとっては憧れの地なのです。

私の忘れられない上高地は、北アルプスを縦走して、疲れ果てた末に神河内に降り立った時に見た、その光景なのです。それが心に焼付いている私の上高地なのです。

その後仕事が忙しくなって何十年も行きませんでした。

しかし70歳で引退してからは8年間、毎年のように出かけています。冬以外の良い季節に家内と一緒に行くのです。

今年の5月12日も行きました。あいにく小雨模様の上高地はまだ冬景色でした。上高地の帝国ホテルでランチを摂り、田代橋から中の瀬を通り河童橋の見えるところまで散策して来ました。

若い頃感動した曾遊の地を何度も訪問して楽しめるのは老境の幸せです。仕事を70歳で一切止めた後の人生はまた格別に幸福なものです。これこそ年を取ってみないと絶対に分からない幸せです。

写真のはじめの2枚は今年の5月12日の写真です。穂高連峰を背にした上高地帝国ホテルの写真と田代橋から見た穂高連峰の写真です。

3番目の写真と4番目の写真は2011年7月2日に撮った田代池と大正池の写真です。

5番目と6番目の写真は2012年10月28日に撮った田代橋から上流の方の紅葉の写真と、中の瀬から見た六百山の麓のカラマツ林の紅葉の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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都立薬用植物園の今日の花々です

2014年07月23日 | 写真

今日は本物の夏日になりました。小平市の西端にある薬用植物園に今日も行ってきました。
何故、何度も行くのか本当の理由を書きます。
植物園の西半分の広い森を見ながらいろいろな薬用植物の説明書きを読み、写真を撮っている間の時間が限りなく楽しいのです。
今日は蝉の声を聞きながら汗を流して植物園の中を歩きました。...

ここは私独りで来ることが多いところです。
家内が一緒だと楽しいのですが、今日は源氏物語の講読会に行っています。
それはさておき 、下に今日の花々の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。
一番目の写真はハスの花です。
二番目の写真はツユクサ科のオオボウシバナです。花弁の搾り汁を和紙に沁み込ませ青花紙を作ります。この青花紙の色を水に溶かせ青色染料をつくり友禅染や紋染の下絵を描くときに使います。
三番目の写真はフジウツギ科のフサフジウツギです。魚毒成分を含み、あやまって食べるとケイレンや胃痛を起こします。(
植物毒を使った魚毒漁法と言うのは、魚を殺すわけではなく麻痺させているだけです。ですからしばらくすると漁で取り残された魚はまた息を吹き返すわけで、またそうでなければ魚毒漁法は農薬と同様に川を汚染してしまいます。魚毒植物としてはエゴノキ、オニドコロ、サキシマスオウなどが有名です。これらはいずれもサポニンを含んでおり、魚に対しては強い麻痺作用を持ちますが、人にはほとんど害のないものです。日本では魚毒漁法は禁止されています。)
四番目の写真ははオニユリです。
五番目の写真はミソハギ科のミソハギです。民間療法で急性腸炎や下痢止に煎じて飲みます。

こんなふうに書いてみますと漢方薬は、人間の経験にもとづいて、薬用作用のある植物の整理と分類によって次第に出来上がってきた様子が分かりますね。
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お薦めの夏の旅(2)東京の夜景を海から楽しむ小さな旅

2014年07月23日 | インポート

いよいよ梅雨明けですね。暑いです。こういう季節は夜の東京湾へ船で出てビールを飲みながら街々の夜景を楽しむ小さな旅をお薦めです。

涼しい風が甲板を吹き抜け,街の灯がダイヤモンドのように輝いています。

船は竹芝から出るシンフォニーやヴァンデアンやクリスタル・ヨット号のように豪華な客船と浅草や浜松町などから数多く出る屋形船の2種類があります。

海風をじかに楽しみたいなら屋形船がお勧めです。天麩羅などの食べきれない料理と冷い生ビールが出ます。
前者の情報は、
http://www.symphony-cruise.co.jp/ にあります。
後者の情報は、
http://www.mapple.net/bythemearea/a13b71c100/0303010000/spots_all_1.htm  に出ています。
下に2010年7月16日に東京湾から撮った夜景の写真を示します。

四番目の写真の右側のヨットがビッグベアー号、39フィートで、この船に乗せて貰い浜離宮わきの運河から出港しました。

五番の写真は典型的な屋形船で内部は大きな座敷になっていてご馳走を食べながら生ビールを飲みます。

六番目の写真はシンフォニー号クラシカです。小生が撮った写真です。
中には大きなレストランが2つあり、フランス料理やイタリアンを食べながらワインを静かに飲みます。
ヴァンデアン号も同じスタイルです。しかし船が大きいうえに、船内が明り過ぎて夜景を楽しむにはデッキに出なくいといけません。内装も費用も少し高級です。

それにしても夏の夜の東京湾への小さな旅はお勧めです。

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ブランドと人の心(1)ロールスロイス、ベンツ、シャネル、ルイヴィトンなどの連載を始めるにあたって

2014年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

人の心は有名なブランドの名前に対して憧れを感じるものです。そして有名なブランド名のついた品物を尊敬します。

しかし何処の国でも知識人はそんな人の心を批判的な目で見ます。名前の有名さに頼って自分で考えることを放棄する傾向を非難しています。

しかし良いものを作ることは尊い文化活動です。そのお蔭で経済が発展し生活が豊かになるのです。

こんなブランドと人の心のいろいろな揺れ動きに関して連載記事を書き進めて行きたいと思います。

夏の暑さを忘れる楽しい気軽な読み物になれば幸せです。

はじめはロールスロイス、ベンツ、シャネル、ルイ ヴィトンなどのヨーロッパのブランド品ですが、次第に日本のブランド品、そして最後は人間のブランドとは何かについても言及したいと考えています。

今日は英国の栄光と衰退を示すようなロールス・ロイス社の自動車と航空機用のジェットエンジンの話をいたします。

昭和生まれ昭和育ちの古い日本人の憧れの車はロールス・ロイスでした。昭和天皇も長い間ロールス・ロイス車に乗り、戦後の地方巡幸でも近場へは乗って行きました。

その車は現在、昭和記念公園にある昭和天皇記念館に展示してあります。

この乗用車は信頼性の高い高品質な高級車でした。日本が輸入した数も限られていて、昭和天皇や一部の大金持ちしか乗れなかったのです。ですから人々は一生に一度は乗ってみたいと憧れていたのです。

私自身も戦後、東京の街でたまにロールス・ロイスの走る姿を見て感激したことが数回あります。

しかしロールス・ロイスという会社は日本の高度成長期に経営難にあえぎ、1971年にはイギリスの国営会社になりました

そして紆余曲折のあと、1998年にはドイツのフォルクスワーゲン社に買収されてしまったのです。このニュースを新聞で読んだ時、私は大英帝国の凋落を実感し、その栄枯盛衰の激しさに悲しい思いをしたものです。

その後いろいろありましたがロールスロイス車の製造、販売権はドイツのバイエルン・モートル・ベルケ(BMW)が保持しています。

現在の日本人はロールスロイス車を忘れたように誰も話題にしません。

実はロールスロイスのブランドのジェットエンジンは故障の少ないことで有名で、いまだに民間旅客機の主流エンジンなのです。

一方、ドイツのバイエルン・モートル・ベルケ(BMW)は戦前、戦中はドイツの戦闘機の直立水平エンジンを製造していて、日本の戦闘機にも使われていたのです。しかしその航空機エンジン部門は解体され、現在は作っていません。このBMWがロールスロイスの製造、販売権を持つことになった運命のいたずらを不思議に思います。

さて今日の話題の自動車と航空機用エンジンのブランド名は長い年月の使用実績による高品質の証明のあるブランド名なのです。こういう場合は名実共に揃った本物のブランドなのです。

下にロールス・ロイスの車の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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上は15hpの車(1905年)です。

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上は20hpの1924年製の車です。

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上はシルヴァークラウド(1956年)です。 

===参考資料:ロールスとロイスによる1906年の創業========

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9より。写真の出典も同じです。

1906年3月に設立された[1]ロールス・ロイス社 (Rolls-Royce Limited ) は、航空機用エンジンや乗用自動車の製造を行うイギリスのメーカーであった。1931年には同じイギリスのスポーツカーメーカーであるベントレーを買収するなど規模を拡大し、特に乗用車製造においては高級車の代名詞となった。しかしながら1960年代になると、乗用車製造における技術革新の遅れ、更には新たに開発・発売した航空機用ジェットエンジン「RB211」による損失の拡大などのために経営が悪化した。そのまま1971年4月に経営破綻、イギリス政府によって国有化された。

1973年、国有会社となっていたロールス・ロイス社のうち自動車部門(ベントレーを含む)のみが分離され、イギリスの製造会社・ヴィッカースに譲渡された。この再び民営化された自動車部門は、ロールス・ロイス・モーターズ(Rolls-Royce Motors )と命名され、ロールス・ロイス車の製造・販売を継続することとなった。1998年、ヴィッカーズはロールス・ロイス・モーターズの売却を計画、最高額を提示したフォルクスワーゲンがその買収に成功した。しかしながらこの際、ロールス・ロイスのブランド名やロゴタイプなどはBMWに譲渡されるという捩じれが生じている。その後、フォルクスワーゲンとBMWの協議の結果、2003年1月からはロールス・ロイスの製造販売はBMWが、ベントレーの製造販売はフォルクスワーゲンが行うこととなった。BMWは同年、ロールス・ロイス・モーター・カーズという自動車会社を設立、社屋や工場を新築し、独自に開発した「ロールス・ロイス」の製造販売を開始した。

一方、国有企業として残存したロールス・ロイスでは航空機用エンジンや船舶の製造などが行われていたが、1988年に再度民営化され、新生ロールス・ロイス(ロールス・ロイス・ホールディングス)として現在に到っている。

創業者たち

ロールス

チャールズ・スチュアート・ロールズ

チャールズ・スチュアート・ロールズは、上流階級の家に生まれたスポーツマンで、ケンブリッジ大学在学中から黎明期のモータースポーツに携わった自動車の先覚者であった。

学生時代には自動車速度制限法として悪名高かった赤旗法廃止に力を尽くし、イギリスの王立自動車クラブ (RAC) の前身となる自動車クラブの設立にも寄与した[1]。卒業後の1902年には、親友でRAC幹部でもあったクロード・ジョンソンClaude Goodman Johnson 、1864年 - 1926年)を右腕に、ヨーロッパ車の輸入代理店C・S・ロールズ(C.S.Rolls&Co. )を設立して自動車の輸入ビジネスを営み、フランス製のパナールとモール、後にはベルギー製のミネルヴァを扱った[1]

1900年前後のイギリス車は、フランスやドイツに比して技術的に遅れていた。見るべきものとしてはフレデリック・ランチェスターが開発した先進的な小型車「ランチェスター」が存在したが、これは設計が複雑で、広く普及するだけの普遍性を欠いていた。

当時のイギリスの自動車市場をリードしたのはフランス車であった。チャールズ・ロールズも大型のフランス車に乗ってレースに出場しており、1903年にダブリンで93mph(約149km/h)の世界速度記録を達成した車は、自ら輸入したモールであった。チャールズ・ロールズとクロード・ジョンソンは、イギリス人として、欧州大陸の水準に比肩しうるイギリス車が存在しないことを常々残念に思っていた。

ロイス

フレデリック・ヘンリー・ロイス

努力家で完全主義者のロイスは、火花の散らない安全な発電機とモーターを開発して成功を収め、更に従来は人力に頼っていた小型定置クレーンを扱いやすい電動式に改良して成果を挙げた。

1902年に、長年の過労で体調を崩して療養を勧められたロイスは、療養中にフランスのドコービル製のガソリン自動車「12HP」を購入した。ところがこの車は扱いにくい上に度々故障を起こし、幾度修理を重ねてもまともに実用にならなかった。ロイスは強い不満を感じた。

その頃人件費の安いアメリカやドイツのメーカーがF・H・ロイスの市場に競合相手として出現してきた。ロイスと共同経営者のアーネスト・クレアモントErnest Claremont 、1863年 - 1921年)は新しい分野の市場を開拓する必要に迫られていた。そこで自動車の将来性に着目したロイスは、自ら自動車を製作することを決意した。1903年から自社の優秀な電気工数人を助手として、マンチェスター・クックストリートの自社工場で開発に着手。昼夜を次いでの開発作業の結果、極めて短期間のうちに試作車を完成させた。

1904年に完成した「10HP」は、Fヘッド(フラットヘッド)の直列2気筒1,800ccエンジンを前方に搭載し、3段変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動する常識的な設計だった。奇をてらわない堅実な自動車で運転しやすく、極めてスムーズで安定した走行性能を示し、実用面でも充分な信頼性を持っていた。メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取ったが、トレンブラー高圧コイルとバッテリーを組み合わせた点火システム、そしてガバナー付の精巧なキャブレターは、当時としては最高に進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができた。4月1日に行われたテストドライブでは16.5mph(約26.5km/h)のスピードで145マイル(約233km)を走破した。・・・以下省略・・・


お薦めの夏の旅(1)長野県、車山や霧ケ峰の魅力

2014年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

車山や霧ケ峰に来る度に不思議な童話の国に迷い込んだように興奮します。楽しい興奮です。

草だけが青々と茂ったなだらかな丘が果てしなく続いているのです。その丘の曲線が心を静かに楽しませてくれます。

北海道の美瑛や富良野の丘と似てはいますが、何かが決定的に違います。

そうです。スイスのアルプスの麓にある牧草に覆われた丘の繋がりに似ています。

しかしここでは牧畜の為の草原ではないのです。樹木が育たず、自然に草だけが丘を覆っているのです。

国定公園になっていて散策道路以外は人間が入らないようにしています。自然の景観を保護しています。

この風景の不思議な魅力は素人写真では表現出来ません。兎に角、行って、自分の足で遠くの丘の上まで歩かないとこの景観の魅力が理解出来ません。

高原の乾いた涼しい風に吹かれて、何処までも歩くのです。

草原の中にはニッコウキスゲ、キンポウゲ、ヤマアヤメ、アザミなどの高原の花々が咲いています。素晴らしい散歩道なのです。

この魅力を示す写真をお送り致します。

車山の隣には霧ヶ峰もあります。両方散策して楽しめます。

JR中央線の特急が止まる茅野駅からバスで1時間以下で行きます。車で行く方が車山や霧ヶ峰の散策には便利です。

東京から日帰りも出来ますが、白樺湖の湖畔のホテルや旅館に一泊するほうがゆっくり楽しみます。蓼科温泉もあります。夏の車山スキー場は牧草が茂っていて美しいものです。

車で行って、翌日は足を延ばして、松本の北の高原の美ケ森高原美術館を訪ね、野外彫刻展示場を見るのも良いものです。

この一帯は甲斐駒の麓にある私の山小屋から1時間くらいで行けるので、何回も行ったところです。白樺湖を見下ろす蓼科山の頂上へも登ったこともあります。ケーブルカーを使うと八ヶ岳の西にある横尾岳にも登れます。

夏休みに子供連れで行くには手軽で面白い旅になると思います。

下に車山や霧ヶ峰の写真を示します。2010年7月6日に家内が撮りました。

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現在でも続くシリア内戦の悲劇・・・内戦はウクライナ、イラク、イスラエルだけではない!!・・・「ぜんぶ

2014年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、ウクライナのマレーシア機撃墜事件やイスラエル軍のガザ地区への侵攻やイラクでのイスラム王国軍の攻撃などで国際社会は騒然としています。

 

その影響でマスコミはシリア内戦を取りあげなくなりました。しかしネットによるソーシャル・メディアにはいろいろな情報が発信されています。

最近、BYOOL会員の託麻次朗さんから、http://matome.naver.jp/odai/2139234686162856601?page=2

に掲載されているシリア内戦の悲劇的な情報を教えて頂きました。

 
以下の情報の正確さの検証は出来ませんが、シリア内戦では多くの子供が犠牲になっている
ことは動かしようのない事実なのでご紹介いたします。
内戦で傷ついたある幼児が、「ぜんぶかみさまにいいつけてやるんだから……」と言い残して死んで行ったという情報です。
内戦で傷付き、その後死亡した3歳の少年が最後に残したとされるこの
言葉とこの幼児の写真が、現在インターネット上を駆け巡り、世界中に大きな反響を呼んでいるそうです。
写真はあまりにも痛々しいので、掲載を躊躇しました。しかし内戦の悲劇を知る上で重要な写真と思い、以下に掲載いたします。
この印象的な言葉を残したのは、この写真に収められた3歳の少年です。

出典worldobserveronline.com:The last thing a 3-year-old Syrian said before he died: “I’m gonna tell God everything”

そしてもう一つの出典:

内戦が続く中東情勢。内戦で犠牲になる子供達。今の大人たちに残したわずか3歳のメッセージ。死の3日|生きがいネットワークのブログ

少年は、この言葉を残しこの世を去った。彼が暮らしていた場所や名前も判明していないという。この少年は互いに傷つけあう人間に対して怒っているのです。時に神を都合よく解釈し、利用する大人たちに、それは違うと訴えているのです。これが信仰を持つ人間のすることかと問いかけてつつ、彼は、不条理にも自らがもうすぐ死ぬという事実を悟っている 少年の年齢は3歳、シリア内戦が始まったのも3年前だ。少年は紛争を見るために生まれてきた訳では無いはず、痛い思いをする為に生まれてきたのではない・・・

 

最近、シリア情勢は以前にも増して混迷の度を深めているとも伝えられている。3歳の少年が残した衝撃的な言葉は、シリアの現状を世界中に向けて訴えているのです。

最近どのマスコミ報道を見てもウクライナをめぐる欧米側とロシアの抗争のニュースばかりです。

昨年あれほど大騒ぎをしたシリア内戦のことは一切忘れてしまったようです。

報道機関の無責任さを感じるのは私だけでしょうか。

そして非常に危惧されるのは240万人以上もいるシリア難民の窮状です。

その難民はトルコ、ヨルダン、レバノン、イラク、エジプトなどの難民キャンプに住んでいます。そして日本をはじめ世界各国からのボランティア組織の救援を受けて命をつないでいるのです。もちろん国連も多額の支援をしています。昨年の12月には約210万人だった難民総数が今年の2月には240万人以上に増加しているのです。

ウクライナ問題もイスラエルのガザ地区侵攻も重大問題ですが、シリア難民も大きな悲劇です。

しかし報道機関は偏執的にウクライナ問題とイスラエル軍のガザ侵攻だけを報道しています。

世界全体を見回して公平な観点から人間の不幸や悲劇を取りあげて報道して貰いたいと願っています。それこそが全ての人間をひとしく幸せにしようという態度なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

====シリア内戦の状況と難民に関する画像========

Syria

内戦で破壊されたシリアのある街の惨状 の写真

シリア難民の移住先と難民数の増加を示す図面

Sl_syria21

Sl_syria61

Sl_syria01

上の3枚の写真はシリア難民を支援してるJapan Platform 傘下の団体が撮影した難民の写真です。出典は、http://www.japanplatform.org/programs/syria/です。)


何故、お釈迦様はご自分のお墓や仏像を作ることを禁じたか?

2014年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

先日以来、ローマ法王のフランシスコ教皇の出された「信仰の光」という本を眺めています。読んでも理解出来ないから眺めるだけです。

しかし部分的には理解出来るところもあります。

2つありました。一つは偶像崇拝はいけないという理由です。もう一つのところは第二章の「信じなければ、あなた方は理解できない」という部分です。

考えてみるとこの二つの部分はキリスト教を文化の基盤としているヨーロッパ人の共通な認識であり、基本的な考え方です

そこで今日はこの本の18ページの13節から説明します。その節は「イスラエルの歴史は不信仰への誘惑をも示しています」という書き出しで始まっています。

こういう文章は日本人とお釈迦様に置き換えて読めば成程と完全に納得できるのです。

そうすると「日本人の歴史はお釈迦様への不信仰への誘惑をも示しています」と書き換えれば日本人なら誰でもそうですねと納得します。

そして偶像崇拝の定義とは「顔が、顔でない顔へ注意を向けることである」と書いてあります。

これを翻訳すると、「お釈迦様の本物の顔(教え)でない顔へ注意を向けることである」となります。

これ以下の文章を仏教に置き換えて翻訳いたします。

すると・・・人は、お釈迦様のへの信頼や信仰の代わりに仏像(偶像)を崇拝することを選びます。仏像とは例えば観音像とか薬師如来像などなどですね。そして人は仏像の顔を見つめることが出来ます。しかしその像は人間が作ったことも知っています。ですから仏像は自分を中心にした現実の存在になっているのです。

仏像を崇拝すると人は自分の多くの欲望の成就を祈ります。そしてお釈迦様の他にもう一つの崇拝の対象になるのです。

お釈迦様だけを大切にし、信じるという純粋な仏教への信仰心が消えてしまうのです。
ですから観音像や薬師如来像などを崇拝することは、お釈迦様へ向かう一つの道をたどるのではなく、無数の迷い道をたどることになるのです。


ですからヨーロッパ人は偶像崇拝を軽蔑します。蔑みます。軽蔑したり蔑むことをイエス様が厳禁しているのを忘れているのです。

それではヨーロッパに偶像は存在していなのでしょうか。

それが有るのです。数多くの聖人の像や絵画があります。ローソクが灯され花が供えてあります。ロシアには高価に取引される古い聖画(イコン)が沢山あります。日本と同じことです。

しかし決定的に違うことは「偶像崇拝はいけない」と知りつつ願い事を祈っているのです。

日本人は偶像崇拝はいけないと思いつついろいろな仏像を拝んでいるわけではありません。反対に観音像や薬師如来像を信仰の対象にすらしているのです。この違いが文化の違いなのです。

文化には優劣はありませんが違いは厳然として存在するのです。
イスラム教徒ではなくイスラム教が立派な高等宗教に見えるのは偶像崇拝を徹底的に排除しているからです。しかしその教徒が中近東でしている殺し合いには手の付けようがありません。

それでははカトリックの私はといえば、日本人なのでいろいろな仏像を拝むことがあります。

2つしていることがあります。仏像の保存のためにと必ずお賽銭を少しだけあげます。そして仏像を拝むときお釈迦さまの教えてくれた般若心経の一つの言葉、「色即是空、空即是色」と唱えます。

そんなことをしながらイエス様の無辺の愛を信じ、星のかなたにいる全能の神を信じています。しかし迷いの毎日です。
それにしても人間は救われない存在ですね。世界中でいつまでも戦争が絶えないのですから。

http://matome.naver.jp/odai/2139234686162856601?page=2 をご覧下さい。(続く) 

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悲劇が起き廃業してしまった星降る民宿、星山荘の思い出とその花園

2014年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県、北杜市のもと武川村に星山荘という民宿がありました。甲斐駒岳の麓の高原にあったので、夜になると星が降るように見えたものです。星山荘という名前に納得しながら飽きずに夜空を見上げていました。

韮崎の市街のある東方向は空が明るいので星が鮮明に見えません。しかし西側の甲斐駒岳の黒々とした山稜の上には、まばゆいばかりの星々がか輝いているのです。

1973年から山林の中の小屋を作り始めてからその民宿に時々泊まったものです。

そして小屋の周囲の別荘の人々と清流園という管理組合を作り、この民宿で村の人々との交流会も開いたのです。

山小屋に都会から客人を招いたときは小屋の庭でバーベキューを楽しんだ後、この民宿に泊まって頂いたのです。

3人の孫も小屋の前の小川で水遊びをし、夕食後にこの民宿に何度も泊まりました。

小屋は小さいので我々夫婦が寝るのがやっとなのです。

星山荘のご主人は短角黒毛和牛の育成の名人で、育牛コンテストで優等賞をとった人でした。何度か泊まった折には、香りの良い牛肉の美味しいスキヤキをご馳走になりました。しかし年老いてからは牛の飼育は止めていました。

この民宿の女主人は花の栽培が好きで四季折々、いつ行っても花々を咲かせています。

この楽しい思い出がいっぱいの民宿に昨年、とりかえしのつかない悲劇が起きてしまったのです。

火事で跡形も無く焼け落ちてしまったのです。お風呂などへお湯を送る大型ボイラーの漏電です。

突然の発火で気がついたときは、火の勢いが激しくてどうしようもなかったと主人が言っていました。

ご主人も奥さんもひどく落胆し、急に老け込んでしまいました。もう再建する元気もありませんと言うのです。そして焼け残った離れを少し改造して夫婦だけで住んでいます。

毎年、毎年、奥さんの栽培する花園の写真を撮りに通いました。

昨年の夏と、今年の春にも星山荘を訪ね、花園を見せて貰いました。

花園はすっかり荒れてしまって名残りの花が少しだけ咲いていました、。とても写真を撮りたくなるような姿ではありません。

出て来た奥さんが、「もう花々を育てる気力もありません」と言います。私は息子さんが元気にしていて、お孫さんもいるのだから幸せですねと慰めるのがやっとでした。

こうしてあの星降る星山荘が消えてしまったのです。淋しいですね。でもこれがこの世の定めと諦めています。

下に2008年7月20日午前10時前後に家内が撮った花の写真をお送りいたします。ギボシ、キキョウ、ノウゼンカズラ、タイマツソウ、ヒマワリなどの写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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「人生で一度は行ってみたい!日本の絶景花畑で癒されよう」からご紹介します。

2014年07月20日 | インポート

このところ戦争のいまわしい話が続いたので素晴らしい花園の写真を3枚お送りします。出典は、http://mery.jp/13631 です。
上から順々に以下の通りです。
茨城県のひたち海浜公園の「みはらしの丘」のネモフィラの花園です。
山梨県南都留郡富士河口湖町本栖212の富士芝桜まつりの写真です。
長崎県佐世保市ハウステンボスのチューリップ畑です。

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