おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

言葉の力

2006-02-12 21:29:59 | 世間世界
 藤原智美氏。『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたのか』(2005年・祥伝社刊)の著者である。最近、この方の文章を読んでこういう表現があった。ー『日本の論点 2006』(文藝春秋社刊)より引用ー。

  「異変」は描画だけにかぎらない。言葉が聴きとれない子が出てきている。
 言葉の意味がわからないのではなく、それを音として聴きわけられないのだ。
 中央=チュウオウという言葉を教えようとする。けれどその言葉がいえない。
 音として聴きとり、声に出せないのだ。ある幼児教室では、6歳の女の子が
 チュウオウをいえるようになるまで、30分かかったという。
 
 この後の文章で、藤原氏はその背景を述べ、また幼児教育、育児についての危機意識を述べている。が、ここではそのことを繰り返さない。早期教育の問題点はその通りであろう。
 今度、文科省は現在の「ゆとり」教育(「学力低下」批判の矢面になった)を目玉にした、今の学習指導要領を改定する、その基本に「言葉の力」を掲げることにした。まことに現状に対する、それなりの見識・とらえ方である。すべての学習の基本である、日本語の力をまず身につけること。これは、大事なことだ。
一方で、語学力の充実ということでは、英語教育の早期導入も示唆している。これは、「二兎追う者は一兎も得ず」になりはしないか。
 それはそれとして、最近の高校生の間でも、数学や物理・化学の問題演習で「何を答えてよいか分からない」生徒が増えているという。つまり、文章内容が読みとれない生徒が多いというのだ。何が問題なのか分からない、そう悩みを訴える生徒もいる、と。単純な計算問題は抜群だが、ひとたび読解となると「???」
 今の高校生は、小学校からのゆとり教育の申し子。本来の目的(「ゆとりの中で真に生きる力を育む」というのが、大義名分であった)にはずれているのどうか、たしかに本は読まないし、人の話しもよく聞かない。
 こちらが、一生懸命口角泡を吹かせてしゃべっても、相手は「???」という表情をする。小生の経験では、彼らは耳から入ってくる「音声」を、脳でこれらを意味あるつながりとして、文・あるいは文節として理解できていないのではないか、と思った。
 もっと言えば、日本語の基本文型である、漢字仮名交じり文に変換できていないのではないか、それどころか、たんなる「音」の羅列にしか聞こえていないのではないかと思った。だから何を言っているか全く意味も理解できないのではないか、と。
 しかし、今やそれを超えて、「音」すら識別できない状態にまでなっている!
 昔から、乳幼児は、その意味も分からずに、親の口まね通りに(音、親たちの口の動き、音色、動作、表情・・・などを見つつ)耳で音声を聞き分けて発声する。そして、周囲から笑われたり、ほめられたり注意されたりしながら、正しい発音と意味のつながりを体得していったのだろう。
 そう、今でも小生が英語の歌詞をただ耳から入った音のままに、口に出すのと似ている、まったく意味不明な言葉、となってしまっているのにも気づかずに。そして、カラオケで、その画面の英語の歌詞を見て唖然とする。これはよく経験することだ。実は、お互い、密かに恥ずかしい思いをする。
 それすらも出来なくなっている子供たち。
 先日、某公立高校付属中学校の適性検査で、放送を流し、出題者の意図にそって自分の言葉として聞き取った内容を書き出し、さらにそれに対する自分の考えをまとめるという問題を出題した、という。どういう結果だったかは定かではないが、受検生(小学校6年生)にとっては、どうであっただろうか。
 言葉力はまさに聴く力、話す力、書く力、読む力の総合である。今、「キク」を「聴く」と表現した。藤原氏の文章でも「聴く」とあった。「聴く」とは元来耳をそばだててきく、耳を澄ましてきき、理解する意味がある。聞く気になって「きく」のである。
 今、子供たちが聞く気も薄れ、まして「音」すらも「きく」ことが出来なくなっているとしたら、これはオオゴトだ。オー、ゴッド!(これは、野田秀樹のある芝居のせりふである。) 
コメント
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