旧朝鮮総督府庁舎は景福宮の宮殿正面に1926年(大正15年)につくられました。ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計をおこない、日本人建築家(野村一郎、國枝博ら)が完成させた。4階建てで中央に大きな吹き抜けを持っています。
朝鮮総督府は、宮殿正門の光化門を移築の上、保存し、朝鮮王朝の正宮だった景福宮の付随的な建物の多くは破却しましたが(一説に8割以上とも)、正殿の勤政殿や慶会楼などの象徴的な建物の大部分は保存されることとなりました。しかし、宮殿の前面には朝鮮総督府庁舎が建てられ、以後、ここが朝鮮における行政の中核地としての朝鮮総督府庁舎が完成すると、街から宮殿はみえなくなり、これらにより、朝鮮民族(韓国・朝鮮人)にとって総督府庁舎は屈辱的な歴史の象徴ともいわれるようになりました。これも現在まで続く反日感情の一因であるとみられているようです。
1948年8月、大韓民国政府の樹立にともない、旧総督府の庁舎は、政府庁舎として利用され、中央庁と呼ばれました。大韓民国の成立宣言も、ここでおこなわれました。
その後、韓国内でも旧植民地の遺構として撤去を求める意見と、歴史を忘れないため保存すべきという意見があり議論がおこなわれましたが、韓国の国立中央博物館として利用されることになった。しかし、国民にとっては、屈辱の歴史の象徴であることには変わりはなく、保存か解体かの論議がしばしば再燃しました。
最終的には、かつての王宮をふさぐかたちで建てられていることから、撤去が決まりました。1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体され、現在、尖塔部分は天安市郊外の「独立記念館」に展示されています。写真が、それです。この展示の仕方には、崩壊・犠牲・鎮魂・再生などのさまざまで深い意義が込められているように感じました。
植民地政策の基本は主に同化主義であり、朝鮮と日本内地の制度的、文化的差異を縮小し、最終的には植民地から本国の一部に昇格させ、国家としての完全な一体化を目指すことを建前としていました。
そこで行われた、軍事的圧力を背景としたさまざまな政策の是非が、日本の中でも今もなお賛否両論が交わされています。しかし大事なのは、民族として屈辱的な歴史を味わった相手の立場、植民地化されていった側からの視点も持ちながら、歴史を正しく認識していくこと、これは日本人としての近代史観ともからまって、真摯に考えなくてはいけないことだと思います。
ソウルから南へバスやタクシーを使って2時間以上かかりましたが、天安郊外にある「独立記念館」に行ってきました。日本人観光客はほとんど訪れないところのようです。
韓国(朝鮮民族)の長く古い歴史を八館に分けて展開してありますが、名前の通り、特に近代100年の歴史が実物や模型、映像を用いて詳しく展示されています。日本の植民地政策の実態、3.1独立運動を中心とする朝鮮民族の抵抗の有様など・・・。一緒に行った方(ソウル市検察庁検事の方で、かつて日本に留学していた)も初めてだということで、4時間近くかけてもまだ3分の2。まだまだ時間が足りないくらいでしたが、何とか見て回りました。
日本人としては一方的かなと思われる展示内容もありましたが、私にとって身近な存在の国の人々が、どのように近代100年を捉えているか、とても興味深いものがありました。
連れの方も、日本の植民地政策への厳しい批判を持ってはいますが、それ以前の鎖国政策によって科学(特に西洋医学)的発展に後れを取ったこと、それによっての近代化の遅れが植民地化されていく一因にもなったことなど客観的な歴史観を持っていて、展示品を見ながら二人で議論できたことが最大の収穫でした(初めてお会いした方ですが)。
1910年(明治43年)8月22日 - 韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)調印
1910年(明治43年)8月29日 - 朝鮮総督府設置
1911年(明治44年)8月23日 - 第一次朝鮮教育令。国語を日本語にする。
1912年(明治45年)1月1日 - 標準時を韓国標準時から日本標準時に変更
1912年(明治45年)4月 - 普通学校用諺文綴字法が確定
1914年(大正3年)3月1日 - 地方行政区画改正(府・郡・面制)
1919年(大正8年)1月21日 - 高宗死去
1919年(大正8年)3月1日 - 三・一独立運動始まる
1919年(大正8年)8月12日 - 斎藤実、第3代総督に就任
1919年(大正8年)8月20日 - 憲兵警察制度廃止
1919年(大正8年)10月5日 - 金性洙、京城紡織株式会社設立
1920年(大正9年)3月5日 - 朝鮮日報創刊
1920年(大正9年)4月1日 - 東亜日報創刊
1920年(大正9年)12月27日 - 総督府、産米増産計画立案
1926年(大正15年)4月1日 - 京城帝国大学開設
1927年(昭和2年)2月16日 - 社団法人京城放送局、ラジオ放送開始
1927年(昭和2年)5月2日 - 朝鮮窒素株式会社設立
1929年(昭和4年)11月3日 - 光州学生事件( - 1930年3月)
1930年(昭和5年)5月30日 - 間島5・30事件
1930年(昭和5年) - 諺文綴字法制定
1931年(昭和6年)7月2日 - 万宝山事件
1931年(昭和6年)9月18日 - 満州事変勃発
1931年(昭和6年)1月8日 - 愛国団員・李奉昌、東京で天皇暗殺未遂事件(桜田門事件)
1931(昭和6年)年4月29日 - 愛国団員・尹奉吉、上海爆弾テロ事件(上海天長節爆弾事件)
1936年(昭和11年)8月9日 - 孫基禎、ベルリンオリンピックマラソンで優勝
1937年(昭和12年)6月1日 - 金日成、普天堡襲撃事件を起こす
1937年(昭和12年)7月7日 - 日中戦争勃発
1937年(昭和12年)10月2日 - 「皇国臣民の誓詞」制定。
1938年(昭和13年)2月26日 - 陸軍特別志願令公布
1938年(昭和13年)3月4日 - 朝鮮教育令改正、朝鮮語の授業必須から外す
1940年(昭和15年)2月11日 - 創氏改名実施
1941年(昭和16年)3月31日 - 国民学校規定改正、朝鮮語の授業廃止
1941年(昭和16年)12月8日 - 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発
1942年(昭和17年)10月1日 - 朝鮮語学会事件
1944年(昭和19年)4月1日 - 第1回徴兵検査開始
1944年(昭和19年)8月23日 - 女子挺身隊勤労令公布
1945年(昭和20年)8月9日 - ソ連対日参戦、豆満江を越える。
1945年(昭和20年)8月15日 - 日本政府、ポツダム宣言受諾。呂運亨、朝鮮建国準備委員会結成
1945年(昭和20年)8月21日 - ソ連軍、平壌進駐
1945年(昭和20年)8月25日 - アメリカ軍、仁川上陸
1945年(昭和20年)9月6日 - 呂運亨らは朝鮮人民共和国の樹立を宣言
1945年(昭和20年)9月7日 - アメリカ極東軍司令部、朝鮮における軍政を宣言(即時独立否認)
1945年(昭和20年)9月9日 - 総督府、降伏文書に調印
韓国の国花・ムクゲ(無窮花)。
朝鮮総督府は、宮殿正門の光化門を移築の上、保存し、朝鮮王朝の正宮だった景福宮の付随的な建物の多くは破却しましたが(一説に8割以上とも)、正殿の勤政殿や慶会楼などの象徴的な建物の大部分は保存されることとなりました。しかし、宮殿の前面には朝鮮総督府庁舎が建てられ、以後、ここが朝鮮における行政の中核地としての朝鮮総督府庁舎が完成すると、街から宮殿はみえなくなり、これらにより、朝鮮民族(韓国・朝鮮人)にとって総督府庁舎は屈辱的な歴史の象徴ともいわれるようになりました。これも現在まで続く反日感情の一因であるとみられているようです。
1948年8月、大韓民国政府の樹立にともない、旧総督府の庁舎は、政府庁舎として利用され、中央庁と呼ばれました。大韓民国の成立宣言も、ここでおこなわれました。
その後、韓国内でも旧植民地の遺構として撤去を求める意見と、歴史を忘れないため保存すべきという意見があり議論がおこなわれましたが、韓国の国立中央博物館として利用されることになった。しかし、国民にとっては、屈辱の歴史の象徴であることには変わりはなく、保存か解体かの論議がしばしば再燃しました。
最終的には、かつての王宮をふさぐかたちで建てられていることから、撤去が決まりました。1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体され、現在、尖塔部分は天安市郊外の「独立記念館」に展示されています。写真が、それです。この展示の仕方には、崩壊・犠牲・鎮魂・再生などのさまざまで深い意義が込められているように感じました。
植民地政策の基本は主に同化主義であり、朝鮮と日本内地の制度的、文化的差異を縮小し、最終的には植民地から本国の一部に昇格させ、国家としての完全な一体化を目指すことを建前としていました。
そこで行われた、軍事的圧力を背景としたさまざまな政策の是非が、日本の中でも今もなお賛否両論が交わされています。しかし大事なのは、民族として屈辱的な歴史を味わった相手の立場、植民地化されていった側からの視点も持ちながら、歴史を正しく認識していくこと、これは日本人としての近代史観ともからまって、真摯に考えなくてはいけないことだと思います。
ソウルから南へバスやタクシーを使って2時間以上かかりましたが、天安郊外にある「独立記念館」に行ってきました。日本人観光客はほとんど訪れないところのようです。
韓国(朝鮮民族)の長く古い歴史を八館に分けて展開してありますが、名前の通り、特に近代100年の歴史が実物や模型、映像を用いて詳しく展示されています。日本の植民地政策の実態、3.1独立運動を中心とする朝鮮民族の抵抗の有様など・・・。一緒に行った方(ソウル市検察庁検事の方で、かつて日本に留学していた)も初めてだということで、4時間近くかけてもまだ3分の2。まだまだ時間が足りないくらいでしたが、何とか見て回りました。
日本人としては一方的かなと思われる展示内容もありましたが、私にとって身近な存在の国の人々が、どのように近代100年を捉えているか、とても興味深いものがありました。
連れの方も、日本の植民地政策への厳しい批判を持ってはいますが、それ以前の鎖国政策によって科学(特に西洋医学)的発展に後れを取ったこと、それによっての近代化の遅れが植民地化されていく一因にもなったことなど客観的な歴史観を持っていて、展示品を見ながら二人で議論できたことが最大の収穫でした(初めてお会いした方ですが)。
1910年(明治43年)8月22日 - 韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)調印
1910年(明治43年)8月29日 - 朝鮮総督府設置
1911年(明治44年)8月23日 - 第一次朝鮮教育令。国語を日本語にする。
1912年(明治45年)1月1日 - 標準時を韓国標準時から日本標準時に変更
1912年(明治45年)4月 - 普通学校用諺文綴字法が確定
1914年(大正3年)3月1日 - 地方行政区画改正(府・郡・面制)
1919年(大正8年)1月21日 - 高宗死去
1919年(大正8年)3月1日 - 三・一独立運動始まる
1919年(大正8年)8月12日 - 斎藤実、第3代総督に就任
1919年(大正8年)8月20日 - 憲兵警察制度廃止
1919年(大正8年)10月5日 - 金性洙、京城紡織株式会社設立
1920年(大正9年)3月5日 - 朝鮮日報創刊
1920年(大正9年)4月1日 - 東亜日報創刊
1920年(大正9年)12月27日 - 総督府、産米増産計画立案
1926年(大正15年)4月1日 - 京城帝国大学開設
1927年(昭和2年)2月16日 - 社団法人京城放送局、ラジオ放送開始
1927年(昭和2年)5月2日 - 朝鮮窒素株式会社設立
1929年(昭和4年)11月3日 - 光州学生事件( - 1930年3月)
1930年(昭和5年)5月30日 - 間島5・30事件
1930年(昭和5年) - 諺文綴字法制定
1931年(昭和6年)7月2日 - 万宝山事件
1931年(昭和6年)9月18日 - 満州事変勃発
1931年(昭和6年)1月8日 - 愛国団員・李奉昌、東京で天皇暗殺未遂事件(桜田門事件)
1931(昭和6年)年4月29日 - 愛国団員・尹奉吉、上海爆弾テロ事件(上海天長節爆弾事件)
1936年(昭和11年)8月9日 - 孫基禎、ベルリンオリンピックマラソンで優勝
1937年(昭和12年)6月1日 - 金日成、普天堡襲撃事件を起こす
1937年(昭和12年)7月7日 - 日中戦争勃発
1937年(昭和12年)10月2日 - 「皇国臣民の誓詞」制定。
1938年(昭和13年)2月26日 - 陸軍特別志願令公布
1938年(昭和13年)3月4日 - 朝鮮教育令改正、朝鮮語の授業必須から外す
1940年(昭和15年)2月11日 - 創氏改名実施
1941年(昭和16年)3月31日 - 国民学校規定改正、朝鮮語の授業廃止
1941年(昭和16年)12月8日 - 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発
1942年(昭和17年)10月1日 - 朝鮮語学会事件
1944年(昭和19年)4月1日 - 第1回徴兵検査開始
1944年(昭和19年)8月23日 - 女子挺身隊勤労令公布
1945年(昭和20年)8月9日 - ソ連対日参戦、豆満江を越える。
1945年(昭和20年)8月15日 - 日本政府、ポツダム宣言受諾。呂運亨、朝鮮建国準備委員会結成
1945年(昭和20年)8月21日 - ソ連軍、平壌進駐
1945年(昭和20年)8月25日 - アメリカ軍、仁川上陸
1945年(昭和20年)9月6日 - 呂運亨らは朝鮮人民共和国の樹立を宣言
1945年(昭和20年)9月7日 - アメリカ極東軍司令部、朝鮮における軍政を宣言(即時独立否認)
1945年(昭和20年)9月9日 - 総督府、降伏文書に調印
韓国の国花・ムクゲ(無窮花)。