「グリーンパーク野球場」。中央本線三鷹駅北側に大きく広がっていた「中島飛行機武蔵製作所跡地」に建設されたました。「グリーンパーク」という名称は、終戦直後よりこの一帯を接収していたアメリカ軍が用いていた地名に由来します。公認野球規則に準拠した広いグラウンドと5万人を超える収容能力のスタンドを持つ本格的なスタジアムだったといいます。
武蔵製作所への引込線跡を利用した、三鷹駅から野球場前の武蔵野競技場前駅に至る中央本線の支線(通称「武蔵野競技場線」)も、1951(昭和26)年4月に新設され、競技開催日には東京駅からの直通電車も運行されました。
この路線は単線。もともと武蔵製作所への引き込み線は、三鷹駅のすぐ西側の駅・武蔵境から境浄水場の東側を通り北進、工場の北西から構内に入っていました。それを一部付け替え、三鷹駅から球場近くまでの路線にしたものです。
グリーンパーク野球場は、11951年4月14日より2週間に亘り開催された「東京六大学」の春のリーグ戦で初めて使用され、プロ野球のこけら落しは同年5月5日に開催された「国鉄スワローズ」対「名古屋ドラゴンズ」戦。
しかし、立地条件(当時の庶民感覚では都心から遠すぎる。グランドがでこぼこで、砂埃がひどい・・・等)の悪さから、その後、ほとんど使用されることなく、結局プロ野球では1951年の1シーズン16試合、東京六大学も同年に19試合が行われたのみで閉鎖されることとなります。
「武蔵野競技場線」も翌1952年から休止状態となり、1959(昭和34)年11月に廃止されました。廃線跡地は三鷹駅側は「堀合遊歩道」玉川上水から北側は「グリーパーク遊歩道」となってかなり整備された遊歩道になっています。玉川上水にかかる人道橋には廃線跡を示すため、線路のモニュメントがあります。
野球場は1956(昭和31)年に解体され、跡地は日本住宅公団に売却されて武蔵野緑町団地(現在の名称は「武蔵野緑町パークタウン」)となっています。現在ではカーブ状の外周道路に囲まれた敷地の形に、かつての大きな野球場の痕跡を留めるのみです。
玉川上水に架かっていた鉄橋の橋桁の一部。
玉川上水を越えて「グリーンパーク遊歩道」となります。
当時の鉄道敷地内を示す鉄製のフェンス(貨物線などによくあります)。道の両側に点々と残されています。宅地との仕切りにも利用されています。
境界線となっています。

国鉄(JR)の敷地であることを示す境界。
標識に沿ってフェンスが続いていることで、国鉄(JR)の線路跡であることが分かります。
遊歩道の途中にあった「説明板」
この前出かけた「境浄水場」への引き込み線(跡)との関連が説明されていました。

武蔵製作所への引込線跡を利用した、三鷹駅から野球場前の武蔵野競技場前駅に至る中央本線の支線(通称「武蔵野競技場線」)も、1951(昭和26)年4月に新設され、競技開催日には東京駅からの直通電車も運行されました。
この路線は単線。もともと武蔵製作所への引き込み線は、三鷹駅のすぐ西側の駅・武蔵境から境浄水場の東側を通り北進、工場の北西から構内に入っていました。それを一部付け替え、三鷹駅から球場近くまでの路線にしたものです。
グリーンパーク野球場は、11951年4月14日より2週間に亘り開催された「東京六大学」の春のリーグ戦で初めて使用され、プロ野球のこけら落しは同年5月5日に開催された「国鉄スワローズ」対「名古屋ドラゴンズ」戦。
しかし、立地条件(当時の庶民感覚では都心から遠すぎる。グランドがでこぼこで、砂埃がひどい・・・等)の悪さから、その後、ほとんど使用されることなく、結局プロ野球では1951年の1シーズン16試合、東京六大学も同年に19試合が行われたのみで閉鎖されることとなります。
「武蔵野競技場線」も翌1952年から休止状態となり、1959(昭和34)年11月に廃止されました。廃線跡地は三鷹駅側は「堀合遊歩道」玉川上水から北側は「グリーパーク遊歩道」となってかなり整備された遊歩道になっています。玉川上水にかかる人道橋には廃線跡を示すため、線路のモニュメントがあります。
野球場は1956(昭和31)年に解体され、跡地は日本住宅公団に売却されて武蔵野緑町団地(現在の名称は「武蔵野緑町パークタウン」)となっています。現在ではカーブ状の外周道路に囲まれた敷地の形に、かつての大きな野球場の痕跡を留めるのみです。









