おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

武蔵野グリーンパーク球場

2011-06-26 20:28:39 | 歴史・痕跡
 中島飛行機株式会社は、1938(昭和13)年、JR三鷹駅から北西約㌔の武蔵野台地に、大規模な工場を建設しました。工場は現在の「武蔵野中央公園」や「NTT開発センター(旧電気通信研究所)」、「都営団地」、「UR都市機構団地」、「武蔵野市役所」までも含む広大なものでした。
 中島飛行機武蔵製作所。東西それぞれに大きく二つに分かれた工場では、陸軍や海軍の航空機用エンジンが生産され、日本の全生産数の約3割を占める大工場でした。従業員は、徴用工や女子挺身隊員、勤労動員学徒らを含め約5万人といわれています。
 このため、この工場は、米軍による最大の攻撃目標となり、度重なる空襲で壊滅的な被害を受け、多数の犠牲者が出ました。投下された爆弾は、工場だけではなく周辺の住宅地、畑などにも容赦なく降り注ぎました。工場だけで約220名、周辺地域では数百人が犠牲になったと言われています。
 昭和22年の航空写真では、一面焼け野原となって跡形もなくなっていることが分かります。
 戦後、工場は閉鎖されて跡地は、米軍宿舎や団地、NTTの研究所として再利用されます。米軍宿舎「グリーンパーク」は、1973(昭和48)年に返還が実現し、1989(平成元)年になって都立武蔵野中央公園が誕生しました。都立武蔵野中央公園は、中島飛行機武蔵製作所の西工場の跡地に当たります。 
 1950(昭和25)年、もともと東工場があったところに、「グリーンパーク球場」が建設されます。球場への足としてかつての中島飛行機工場への引込線が活用され、路線名を武蔵野競技場線として、翌年開業しました。ところが球場自体が1シーズンしか使用されず、武蔵野競技場線も1959(昭和34)年に廃線となってしまいます。
 野球場の痕跡は全くありませんが、公団住宅の円形の外郭道路部分が球場の外郭をかたどっています。 
 また、東工場の北側部分はNTTの研究所となり、戦争の時代の痕跡はありません。わずかに残るものとしては、「都営武蔵野アパート」三号棟と四号棟の間、自治会事務所の隣に中島時代の建造物があり、倉庫・集会所などとして利用されていた、とのこと。もともとは、中島飛行機の東工場の一角にあった変電室。この建物も、都営住宅の建替えで、取り壊される予定になっている、ということです。
 中島飛行機。多くの有能な技術者たちは、その後自動車関連産業に移って、「富士重工」(スバル)などに引き継がれています。
案内図。敷地を囲むように大きく楕円形になっています。
左手がNTT側。右手が公団。激しい通り雨の直撃。桜並木に助けられました。
左手が都営団地。この通りが球場への入り口通路付近。
「緑町」という地名表示。
球場の東北のへり付近。
建て替えのために現在立ち入り禁止。この奥の方に集会所があったのか。
広々とした「武蔵野中央公園」。家族や団体でスポーツやレクリエーションを楽しんでいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする