「両国橋」から「新大橋」付近。
明治13年頃のようす。隅田川に注いでいる上(北)の水路は「竪川」。下(南)は「小名木川」。中央に「安宅の渡し」(「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場に係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸にちなむ。安藤広重の描いた 「大はしあたけの夕立」 の 「あたけ」 とも関連)。「千歳の渡し」は地図上ではもう少し北側(竪川への分岐付近)に当たる。現在、「竪川」には首都高の橋脚。
少し下流からの両国橋遠景。
テラスにある案内板。「神田川」に架かる橋「柳橋」の説明あり。
対岸が「竪川」水門。上には首都高。この付近に「千歳の渡し」がありました。
両国橋の賑わい。
「新大橋」橋桁。現在の「新大橋」は中央区日本橋浜町 と 江東区新大橋の間にあり、「新大橋通り」 が渡る橋。
最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)。隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を綱吉に勧めたと伝えられています。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としました。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。
架設中の橋を見て
「 初雪や かけかかりたる 橋の上 」
完成した 『新大橋』 を渡って
「 ありがたや いただいて踏む はしの霜 」
明治になってからもこの橋はずっと 木橋 でしたが、明治45年(1912) になって、道路橋としては日本初の鋼製トラス橋が架けられた。
その一部は愛知県の 「明治村」 に保存されている、とのこと。
この橋は、大正12年(1923) の関東大震災にも崩れませんでした。関東大震災では、「隅田川」 に架かる橋は、火災を逃れてきた人々で溢れていた。ところが、ほとんどの橋は鉄橋であっても床材が木製であったため、市街地の火災が橋にも引火して、多くの犠牲者を出しました。 そんな中で、全ての構造が不燃材で出来ていた 『新大橋』 は炎上を免れ、結果的にたくさんの避難住民の命を救うことになりました。これ以来 『新大橋』 は 『ひとたすけ橋』 と呼ばれるようになりました。
現在の 『新大橋』 は、昭和51(1976)年 に架け替えられたもの。橋の中央に二本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で、名橋といわれた旧トラス橋の名声や、歴史のある 『新大橋』 の名を汚さないようにと、そのデザインには特に力を入れたようです。
(「東京探訪」HP参照)
「新大橋」の全景。
下流の対岸。
テラスにある案内板。「新大橋」の木橋時代の絵が掲示されています。また、そこには「隅田川は最上流の北区・岩淵水門から中央区・浜離宮庭園まで延長23.5㎞」とも記されていました。
遠くに見えるのは「清洲橋」。
かなり広々とした流れ。遠くマンション手前の水路は「小名木川」。
テラスのモニュメント。木組み越しの隅田川。
岸辺の石組み。船が往き来するたびに波が打ち寄せます。
全長23.5㎞の「隅田川」。河口を目指して探訪はまだまだ続きます。清洲橋。永代橋。「中洲の渡し」「佃の渡し」「大川口の渡し」。南高橋。・・・
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最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)。隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を綱吉に勧めたと伝えられています。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としました。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。
架設中の橋を見て
「 初雪や かけかかりたる 橋の上 」
完成した 『新大橋』 を渡って
「 ありがたや いただいて踏む はしの霜 」
明治になってからもこの橋はずっと 木橋 でしたが、明治45年(1912) になって、道路橋としては日本初の鋼製トラス橋が架けられた。
その一部は愛知県の 「明治村」 に保存されている、とのこと。
この橋は、大正12年(1923) の関東大震災にも崩れませんでした。関東大震災では、「隅田川」 に架かる橋は、火災を逃れてきた人々で溢れていた。ところが、ほとんどの橋は鉄橋であっても床材が木製であったため、市街地の火災が橋にも引火して、多くの犠牲者を出しました。 そんな中で、全ての構造が不燃材で出来ていた 『新大橋』 は炎上を免れ、結果的にたくさんの避難住民の命を救うことになりました。これ以来 『新大橋』 は 『ひとたすけ橋』 と呼ばれるようになりました。
現在の 『新大橋』 は、昭和51(1976)年 に架け替えられたもの。橋の中央に二本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で、名橋といわれた旧トラス橋の名声や、歴史のある 『新大橋』 の名を汚さないようにと、そのデザインには特に力を入れたようです。
(「東京探訪」HP参照)
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全長23.5㎞の「隅田川」。河口を目指して探訪はまだまだ続きます。清洲橋。永代橋。「中洲の渡し」「佃の渡し」「大川口の渡し」。南高橋。・・・