かつて、某高校の国語の教師は、(とっくに引退した方ですが)「源氏物語」好き。文科省公認の教科書内容では物足りなくて、「源氏物語」の抜粋を印刷屋に頼んで小冊子にし、ほぼ一年間、生徒に講義しました。それが、実は結果的には「垣間見」の場面が中心(たまたまではありましたが)。周りではにやにや。「若紫」から始まって・・・。「さすが垣間見は日本古来の文化だ」(「不倫は日本の文化だ」とのたまった有名芸能人がいましたが)、と。むろん「のぞき」とはニュアンスが違いますが・・・(「のぞき」という表現はストレートすぎる感じ。)
たしかにその後、「源氏物語」を「垣間見」という視点で捉えなおした書物も出ています(「視覚」だけにとらわれず、「嗅覚」や「聴覚」などの五感を駆使して広がる「垣間見」の世界。「源氏物語」の趣、深まり、・・・そうしたものを改めて感じた一書)。
さて、今回の三浦氏の書。原典派らしく大量の資料分析に基づく「のぞき学」論。「盗聴」「盗視」ジャンルのAV作品を次々と紹介、分析しています。ほとんどが「やらせ」「しこみ」だとは思いますが(先入観では)、それをまことしやかに「本物かフェイクか」評論する姿勢は、お見事です。ひとたび「本物」と評価するやその入れ込みはまた一段と深く・・・。
ま、どうもその章・内容にはついていけませんが。ご本人が「院生時代に発表した」ものが出発らしい「第二章 覗きの情緒―日本文学における、その十五の型」は興味深い(十五型に分類するという大胆さ)、ちょっと差異化できてない分析もあるようだが。
副題としての「生きた隙間を描いた日本文学」がその意味合いを深めていて、谷崎の「陰翳礼讃」(中心は、日本家屋の陰影に富んだ諸相の奥深さの魅力を語った作品)をモチーフにして「建物」論にとどまらずに、小説・随想などを紹介しながら、そこに描かれた人間の生き様(作者の人間像)に重ね合わせて論を進めていきます。この章はうがったりかなったり、でした。
他の章。「覗きのDNA―なぜ男が覗くのか?」「覗きの技法―盗撮ビデオの現在」・・・。第五章「覗きの階調―虚実のスペクトル」は、著者の力がこもっていました。表書きは「のぞき」とひらがなですが、本文の章題はすべて「覗き」という風に漢字になっているのは意図的。この漢字も独特のインパクトあり。また、「Peepology」という学術用語があったとは!
しかし、どういった方々がこの書を読んだのでしょうか? 「あんた」みたいな人だと突っ込まれそうですが・・・。
たしかにその後、「源氏物語」を「垣間見」という視点で捉えなおした書物も出ています(「視覚」だけにとらわれず、「嗅覚」や「聴覚」などの五感を駆使して広がる「垣間見」の世界。「源氏物語」の趣、深まり、・・・そうしたものを改めて感じた一書)。
さて、今回の三浦氏の書。原典派らしく大量の資料分析に基づく「のぞき学」論。「盗聴」「盗視」ジャンルのAV作品を次々と紹介、分析しています。ほとんどが「やらせ」「しこみ」だとは思いますが(先入観では)、それをまことしやかに「本物かフェイクか」評論する姿勢は、お見事です。ひとたび「本物」と評価するやその入れ込みはまた一段と深く・・・。
ま、どうもその章・内容にはついていけませんが。ご本人が「院生時代に発表した」ものが出発らしい「第二章 覗きの情緒―日本文学における、その十五の型」は興味深い(十五型に分類するという大胆さ)、ちょっと差異化できてない分析もあるようだが。
副題としての「生きた隙間を描いた日本文学」がその意味合いを深めていて、谷崎の「陰翳礼讃」(中心は、日本家屋の陰影に富んだ諸相の奥深さの魅力を語った作品)をモチーフにして「建物」論にとどまらずに、小説・随想などを紹介しながら、そこに描かれた人間の生き様(作者の人間像)に重ね合わせて論を進めていきます。この章はうがったりかなったり、でした。
他の章。「覗きのDNA―なぜ男が覗くのか?」「覗きの技法―盗撮ビデオの現在」・・・。第五章「覗きの階調―虚実のスペクトル」は、著者の力がこもっていました。表書きは「のぞき」とひらがなですが、本文の章題はすべて「覗き」という風に漢字になっているのは意図的。この漢字も独特のインパクトあり。また、「Peepology」という学術用語があったとは!
しかし、どういった方々がこの書を読んだのでしょうか? 「あんた」みたいな人だと突っ込まれそうですが・・・。