「新左近川親水公園」から「瑞穂大橋」まで、約4㎞。自転車でも(ジョギングでも)とても走りやすい堤防沿いの道がつながっています。
下流を望む。はるか対岸遠くにディズニーシーにある大きな火山とディズニーランドのシンデレラ城が見えます。
投げ捨てられた自転車が一台、土手の草むらに。
このあたり(堤防と都道450線に囲まれた地域)は、かつては川沿いの湿地帯のようなところ。草むらが残っています。
新井鉄工所。
西側地域には「日本ロール製造株式会社」の大きな工場がありました。現在は、その南側には二つの大きなショッピングモールになっています。
この会社・工場では、今から50年以上前の1960年から1974年、13年に亘る労働争議(13年闘争)がありました。その時の争議をもとに製作された映画が、「ドレイ工場」。何年か前に再上映されことがあるようです。
はるかかなた、電線越しに小さくスカイツリーが見えます。
「妙見島」の南端付近。左に見える橋は「浦安橋」。島に渡るにはこの橋詰めを下る。右に見える鉄橋は、東京メトロ「東西線」。盛んに護岸工事が行われています。
「浦安橋」下。
周囲は、コンクリートの岸壁になっています。
妙見島(みょうけんじま)
旧江戸川にある島(中州)。南北の幅は約700m、東西の幅は約200m。東京都江戸川区東葛西3丁目の一部。 東京23区唯一の自然島である。(隅田川河口近くに「佃島」「石川島」がほとんどが人工の島で全体が自然の島というのはここのみ。)
島の周囲はすべて壁のようにコンクリート護岸で囲まれている。護岸工事が行われるまでは「流れる島」と呼ばれ、西から東へ徐々に移動していた。島にある建物のほとんどは工場だが、住人もいる。北部に妙見神社がある。浦安橋から島に降りることができる。
最古の記録は南北朝時代の1362年(貞治元年)。島に妙見堂が建立されたという記録がある。
下総国の国府を流れる太日川(江戸川)の河口付近にあたり、交通の要所だった。付近には長島高城があったという説がある。長島には長島湊があり、国府の外港の1つとして栄えた。また長島には1372年(文中元年/応安5年)に、香取神宮の河関(灯油料所)があったことが知られている。
江戸時代、下総国欠真間村の飛び地だった。島の北は行徳船の航路になっており、江戸の庶民にとってなじみ深い地域だった。曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の舞台として登場した。(以上、「wikipedia」参照)
明治中期のようす。妙見島の北にある川は「新川」。
1895年(明治28年)、千葉県から東京都に編入された。明治時代後半より工場が建ち始め、第一次世界大戦後の昭和初期には工業地帯化した。1940年(昭和15年)、浦安橋が開通した。
「妙見」とは千葉氏の守護神である妙見菩薩のこと。妙見信仰は千葉氏が信仰していた日蓮宗とも密接に関わる。日蓮宗は中山法華経寺を中心に布教が行われていた。「妙見堂」の建立は千葉氏が葛西地区へ進出する足がかりだったという説もある。なお、初代の妙見堂は、東一之江村(現・江戸川区一之江)の妙覚寺に移されている。
上陸はしなかったので、この図を拝借。ほとんどが倉庫や工場。目立つ高い建物は浦安橋際にある「リバーサイド」という名の「ラブホ」でした。
つい井上陽水の名曲をふと思い出した。
誰も知らない夜明けが明けた時
町の角からステキなバスが出る
若い二人は夢中になれるから
狭いシートに隠れて旅に出る
昼間のうちに何度もKissをして
行く先をたずねるのにつかれはて
日暮れにバスも
タイヤをすりへらし
そこで二人はネオンの字を読んだ
※ホテルはリバーサイド
川沿いリバーサイド
食事もリバーサイド
oh- リバーサイド
チェックインなら寝顔を見せるだけ
部屋のドアは金属のメタルで
シャレたテレビの
プラグはぬいてあり
二人きりでも気持ちは交い合う
ベッドの中で魚になったあと
川に浮かんだプールでひと泳ぎ
どうせ二人は途中でやめるから
夜の長さを何度も味わえる
※印くりかえし
ホテルはリバーサイド
水辺のリバーサイド
レジャーもリバーサイド
oh- リバーサイド
リバーサイド リバーサイド
ホテルの名は、井上陽水の歌を拝借したのかも知れません。浦安橋際にある目立つホテルです。
東側に比べ、水路が少し狭い西側の水路には釣り船、屋形船が停泊していました。釣り宿も目につきます。パイプが林立する工場は、島内の中部にある「東京油脂工業」。

島の北端。島の北部を占める、業務用マーガリンを主に生産する「月島食品工業東京工場」。都内でも最大の会員制マリンクラブである「ニューポート江戸川」は、東側にあります。
島をはさんで東西に水路は分かれます。
そこで、「妙見島」の変遷(むしろ周囲の)の歴史。
(1896年~09年)「新川」と「古川」沿岸がそれぞれ栄えていたことが分かります。(直線の川が「新川」、蛇行する川が「古川」)
(1944年~54年)
(1983年~87年)
「新川」。旧江戸川からの取水口。
激しい勢いで水が噴き出しています。
「新川」という名称の川は、全国に、たくさん。そのなかで、江戸川区の「新川」とは?
「新川」は江戸時代に「古川」の流路を一部変更して出来た運河である。古川は古くからある自然の川で、東側は蛇行しており河川交通には不便だった。1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府すると、1594年(文禄3年)に利根川東遷事業を開始し、河川の改造を始めた。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに向かう家康を乗せた船が古川を通過したようであり、その際に座礁したという説もあるらしい。江戸幕府が成立すると、1629年(寛永6年)に三角渡し(現在の三角橋)以東を開削して、水路を直線化する工事を行った。最初の目的は行徳塩田の塩を江戸に運ぶことだったが、1632年(寛永9年)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになった。その後、利根川を経由する航路が整備され、新川を経由し小名木川を通って江戸に向かうルートは、東北地方の年貢米などが運ばれる水運の大動脈になった。旧江戸川の方が水位が高く無風時に船は遡れなかった為か、新川の川岸には味噌・醤油・酒を売る店や「ごったく屋」と呼ばれる料理屋が出来て、曳船する業者も居て賑わったと言う。
明治時代になると利根運河が完成し、蒸気船が運航を始めた。最初に登場したのは長距離路線で、内国通運会社の「通運丸」や「利根川丸」が東京 - 銚子間を一日2往復18時間で結び、成田参詣の客に人気となった。しかし1895年(明治28年)に成田山の近くの佐倉まで総武鉄道が開通すると客を奪われ、1919年(大正8年)に廃止された。次に登場したのは短距離路線で、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始めて、浦安と江東区の高橋の間を往復した。
大正から昭和の初めに「荒川放水路」が完成、1930年(昭和5年)までは、新川は東大島駅の南側にある旧中川まで流れていたが、西側の約1キロメートルが荒川放水路開削工事のため水没した。1928年(昭和3年)に葛西橋、1940年(昭和15年)に浦安橋が完成し、徐々に陸上交通に移っていったが水運は維持され、中川と荒川の合流部には船堀閘門が設けられた。これは小名木川閘門(現・荒川ロックゲート)のほぼ対岸の中堤にあったと言われている(「利根川~江戸川~中川・荒川~旧中川~小名木川~隅田川」という水運の完成)。
新川は葛西地区を水害から守ってきた存在である。1947年(昭和22年)9月に関東地方を襲ったカスリーン台風は上流部に大洪水を引き起こし、江戸川区はほぼ全域が浸水した。しかし洪水は新川で食い止められ葛西地区は浸水を免れた。ところがその後、南関東ガス田の採掘業者が西葛西や南葛西で1日に2万トンも地下水を汲み上げた為か、急激な地盤沈下が起こり、堤防が危険な状態になってしまった。
1971年(昭和46年)9月には、西水門がメーカーの設定ミスや東京都の運営ミス、整備不良により突如開いて、異常潮位現象で増水した川の水が一気に流れ込み、約700戸が被害を受ける事故が起きた。その為、新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようにした。その後、新川は運河としては使用されなくなり、船堀閘門も1979年(昭和54年)に閉鎖された。
1992年(平成4年)から東京都による護岸工事・耐震工事が続いており、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が作られた。2007年(平成19年)までに新川橋以東の2kmが完成し、西側区間の工事は2013年(平成25年)まで行われる予定で、さらに江戸川区の「新川千本桜」計画も進んでいる。この計画は新川に1000本の桜並木を植えて、江戸時代の木橋や石積み護岸を再現したテーマパーク的な遊歩道を作り、カフェや地域交流センター(屋外和船ミュージアム)を建てて、はとバスツアーを誘致するという計画。
2010年に「新川西水門広場」が完成し、モニュメントとして15.5メートルの「火の見やぐら」が建てられた。一方で計画の予算額は約80億円に及び、区会議員からは無駄遣い・箱物行政という批判も出たようである。その為か2011年に見直しが行われ、人道橋と地域交流センターの数が削減された。(以上、「Wikipedia」参照)
当の江戸川区としては、
新川は、天正18年(1590年)、江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
現在では、鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺としてとして活用されています。また、平成4年から平成19年まで護岸の耐震・環境整備を東京都が実施し、新川橋から東水門までを除く約2キロメートルを整備しました。その後区が都の未整備箇所の耐震整備をするとともに、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を平成19年4月からスタート。平成23年度に一部見直しを行いましたが、平成26年度の完成に向け整備を進めていきます。
千本桜植栽の他に9橋の架橋(7橋の人道橋と2橋の広場橋)や「新川さくら館(地域交流センターの名称決定)」などが計画されており、これまでに新川西水門広場及び火の見櫓や、人道橋4橋、広場橋2橋、新川千本桜記念碑などが完成しています。
(以上、「江戸川区」のHPより)
このように、江戸川区では、区内を縦横に流れていたかつての水路(河川)を親水公園(緑道)にするなど(「古川親水公園」は、日本で最初の親水公園)自然環境を踏まえた都市計画を積極的に行っている区といえます。地元住民、未来の街つくりへの視点は素晴らしいと思いますが、ひとたび、それらを「観光資源」として活用させようという「欲目」が出過ぎると「税金の無駄遣い」という批判も当たっていくことに。そのかねあいが難しいところ。
日本初の河川地下駐車場。
「火の見櫓」からの景観予想図。(どちらも「江戸川区」のHPより)
現在も護岸・整備工事中。
ほぼ堤防沿いに走る「都道450線」。
左奥が「新中川」に架かる「瑞穂大橋」とその向こうに「今井水門」。右奥が「旧江戸川」上流。旧江戸川に架かる橋は「今井橋」。
「旧江戸川」の下流を望む。
こうして、3回に分けて、「中川・高砂橋」~「新中川・瑞穂大橋」~「旧江戸川・舞浜大橋」~「荒川(中川)・清砂大橋」を走破しました。




西側地域には「日本ロール製造株式会社」の大きな工場がありました。現在は、その南側には二つの大きなショッピングモールになっています。
この会社・工場では、今から50年以上前の1960年から1974年、13年に亘る労働争議(13年闘争)がありました。その時の争議をもとに製作された映画が、「ドレイ工場」。何年か前に再上映されことがあるようです。




妙見島(みょうけんじま)
旧江戸川にある島(中州)。南北の幅は約700m、東西の幅は約200m。東京都江戸川区東葛西3丁目の一部。 東京23区唯一の自然島である。(隅田川河口近くに「佃島」「石川島」がほとんどが人工の島で全体が自然の島というのはここのみ。)
島の周囲はすべて壁のようにコンクリート護岸で囲まれている。護岸工事が行われるまでは「流れる島」と呼ばれ、西から東へ徐々に移動していた。島にある建物のほとんどは工場だが、住人もいる。北部に妙見神社がある。浦安橋から島に降りることができる。
最古の記録は南北朝時代の1362年(貞治元年)。島に妙見堂が建立されたという記録がある。
下総国の国府を流れる太日川(江戸川)の河口付近にあたり、交通の要所だった。付近には長島高城があったという説がある。長島には長島湊があり、国府の外港の1つとして栄えた。また長島には1372年(文中元年/応安5年)に、香取神宮の河関(灯油料所)があったことが知られている。
江戸時代、下総国欠真間村の飛び地だった。島の北は行徳船の航路になっており、江戸の庶民にとってなじみ深い地域だった。曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の舞台として登場した。(以上、「wikipedia」参照)

1895年(明治28年)、千葉県から東京都に編入された。明治時代後半より工場が建ち始め、第一次世界大戦後の昭和初期には工業地帯化した。1940年(昭和15年)、浦安橋が開通した。
「妙見」とは千葉氏の守護神である妙見菩薩のこと。妙見信仰は千葉氏が信仰していた日蓮宗とも密接に関わる。日蓮宗は中山法華経寺を中心に布教が行われていた。「妙見堂」の建立は千葉氏が葛西地区へ進出する足がかりだったという説もある。なお、初代の妙見堂は、東一之江村(現・江戸川区一之江)の妙覚寺に移されている。

つい井上陽水の名曲をふと思い出した。
誰も知らない夜明けが明けた時
町の角からステキなバスが出る
若い二人は夢中になれるから
狭いシートに隠れて旅に出る
昼間のうちに何度もKissをして
行く先をたずねるのにつかれはて
日暮れにバスも
タイヤをすりへらし
そこで二人はネオンの字を読んだ
※ホテルはリバーサイド
川沿いリバーサイド
食事もリバーサイド
oh- リバーサイド
チェックインなら寝顔を見せるだけ
部屋のドアは金属のメタルで
シャレたテレビの
プラグはぬいてあり
二人きりでも気持ちは交い合う
ベッドの中で魚になったあと
川に浮かんだプールでひと泳ぎ
どうせ二人は途中でやめるから
夜の長さを何度も味わえる
※印くりかえし
ホテルはリバーサイド
水辺のリバーサイド
レジャーもリバーサイド
oh- リバーサイド
リバーサイド リバーサイド
ホテルの名は、井上陽水の歌を拝借したのかも知れません。浦安橋際にある目立つホテルです。




そこで、「妙見島」の変遷(むしろ周囲の)の歴史。





「新川」という名称の川は、全国に、たくさん。そのなかで、江戸川区の「新川」とは?
「新川」は江戸時代に「古川」の流路を一部変更して出来た運河である。古川は古くからある自然の川で、東側は蛇行しており河川交通には不便だった。1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府すると、1594年(文禄3年)に利根川東遷事業を開始し、河川の改造を始めた。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに向かう家康を乗せた船が古川を通過したようであり、その際に座礁したという説もあるらしい。江戸幕府が成立すると、1629年(寛永6年)に三角渡し(現在の三角橋)以東を開削して、水路を直線化する工事を行った。最初の目的は行徳塩田の塩を江戸に運ぶことだったが、1632年(寛永9年)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになった。その後、利根川を経由する航路が整備され、新川を経由し小名木川を通って江戸に向かうルートは、東北地方の年貢米などが運ばれる水運の大動脈になった。旧江戸川の方が水位が高く無風時に船は遡れなかった為か、新川の川岸には味噌・醤油・酒を売る店や「ごったく屋」と呼ばれる料理屋が出来て、曳船する業者も居て賑わったと言う。
明治時代になると利根運河が完成し、蒸気船が運航を始めた。最初に登場したのは長距離路線で、内国通運会社の「通運丸」や「利根川丸」が東京 - 銚子間を一日2往復18時間で結び、成田参詣の客に人気となった。しかし1895年(明治28年)に成田山の近くの佐倉まで総武鉄道が開通すると客を奪われ、1919年(大正8年)に廃止された。次に登場したのは短距離路線で、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始めて、浦安と江東区の高橋の間を往復した。
大正から昭和の初めに「荒川放水路」が完成、1930年(昭和5年)までは、新川は東大島駅の南側にある旧中川まで流れていたが、西側の約1キロメートルが荒川放水路開削工事のため水没した。1928年(昭和3年)に葛西橋、1940年(昭和15年)に浦安橋が完成し、徐々に陸上交通に移っていったが水運は維持され、中川と荒川の合流部には船堀閘門が設けられた。これは小名木川閘門(現・荒川ロックゲート)のほぼ対岸の中堤にあったと言われている(「利根川~江戸川~中川・荒川~旧中川~小名木川~隅田川」という水運の完成)。
新川は葛西地区を水害から守ってきた存在である。1947年(昭和22年)9月に関東地方を襲ったカスリーン台風は上流部に大洪水を引き起こし、江戸川区はほぼ全域が浸水した。しかし洪水は新川で食い止められ葛西地区は浸水を免れた。ところがその後、南関東ガス田の採掘業者が西葛西や南葛西で1日に2万トンも地下水を汲み上げた為か、急激な地盤沈下が起こり、堤防が危険な状態になってしまった。
1971年(昭和46年)9月には、西水門がメーカーの設定ミスや東京都の運営ミス、整備不良により突如開いて、異常潮位現象で増水した川の水が一気に流れ込み、約700戸が被害を受ける事故が起きた。その為、新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようにした。その後、新川は運河としては使用されなくなり、船堀閘門も1979年(昭和54年)に閉鎖された。
1992年(平成4年)から東京都による護岸工事・耐震工事が続いており、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が作られた。2007年(平成19年)までに新川橋以東の2kmが完成し、西側区間の工事は2013年(平成25年)まで行われる予定で、さらに江戸川区の「新川千本桜」計画も進んでいる。この計画は新川に1000本の桜並木を植えて、江戸時代の木橋や石積み護岸を再現したテーマパーク的な遊歩道を作り、カフェや地域交流センター(屋外和船ミュージアム)を建てて、はとバスツアーを誘致するという計画。
2010年に「新川西水門広場」が完成し、モニュメントとして15.5メートルの「火の見やぐら」が建てられた。一方で計画の予算額は約80億円に及び、区会議員からは無駄遣い・箱物行政という批判も出たようである。その為か2011年に見直しが行われ、人道橋と地域交流センターの数が削減された。(以上、「Wikipedia」参照)
当の江戸川区としては、
新川は、天正18年(1590年)、江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
現在では、鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺としてとして活用されています。また、平成4年から平成19年まで護岸の耐震・環境整備を東京都が実施し、新川橋から東水門までを除く約2キロメートルを整備しました。その後区が都の未整備箇所の耐震整備をするとともに、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を平成19年4月からスタート。平成23年度に一部見直しを行いましたが、平成26年度の完成に向け整備を進めていきます。
千本桜植栽の他に9橋の架橋(7橋の人道橋と2橋の広場橋)や「新川さくら館(地域交流センターの名称決定)」などが計画されており、これまでに新川西水門広場及び火の見櫓や、人道橋4橋、広場橋2橋、新川千本桜記念碑などが完成しています。
(以上、「江戸川区」のHPより)
このように、江戸川区では、区内を縦横に流れていたかつての水路(河川)を親水公園(緑道)にするなど(「古川親水公園」は、日本で最初の親水公園)自然環境を踏まえた都市計画を積極的に行っている区といえます。地元住民、未来の街つくりへの視点は素晴らしいと思いますが、ひとたび、それらを「観光資源」として活用させようという「欲目」が出過ぎると「税金の無駄遣い」という批判も当たっていくことに。そのかねあいが難しいところ。






こうして、3回に分けて、「中川・高砂橋」~「新中川・瑞穂大橋」~「旧江戸川・舞浜大橋」~「荒川(中川)・清砂大橋」を走破しました。