久々に橋本治。「もの達」と「もの」をひらがな書きしたのがミソ。つまり作品と作家との関連を読み解くという。森鴎外、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村「達」とその作品「達」を取り上げ、日本の自然主義文学の「理念・発想」「成立」「文体」「視点」など作品そのもと作家の人となりを探っていく。
日本の「自然主義文学」は、私小説というかたちに収斂され、そこに独自の世界と限界を持っていた、さらにその文体的な特徴を日本的な文化に置き換え、「恥」の文化、「曖昧」な文化、その代表が「あいまい」文体の島崎藤村であった、という説をたしか読んだことがあったが。また、日本の文壇の特殊性・閉鎖性などへの批判なども・・・。
久々にその復習を兼ねてのものでした。橋本治らしい執念深さで「自然主義」文学とその表現方法としてあった「言文一致体」に迫る。
再三引用されるのが二葉亭四迷のことば。
「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行(はや)るそうだ。好い事が流行る。私も矢張り其で行く」(『平凡』)
とくに、 「牛の涎のように」という比喩がお気に召したようで何度も引用しています。まさに「だらだら」文体。でも、実際はそうでもないのでは、ということを明らかにしていこうとするが、やはりそうであった、と。そこに、「失われた近代」を求めていく?
花袋の『蒲団』、独歩の『武蔵野』そして、藤村の『破戒』。「人には言えない『=旧』という素性を抱えて隠し続けるがゆえに重苦しくならざるをえない瀬川丑松の胸の内を書くもの」(P144)がどうして四迷のいうところの「自然主義」の「小説」なのか、と。橋本治の「こだわり」が随所に出てきます。
『破戒』は、けっして被差別民の葛藤を描いたのではなく、「言いだしえない」もどかしさがテーマだとする、そうとらえると、『蒲団』も同様。実にだらだらと牛の涎の如く書き連ねる、そこがまさに「自然主義」文学だ、と。作品(もの)を書いたもの(作者)が「自然主義」ではないと言っても、作品そのものは、四迷が提起(半分揶揄)した類いのジャンルになるというわけですね。
日本の「自然主義文学」は、私小説というかたちに収斂され、そこに独自の世界と限界を持っていた、さらにその文体的な特徴を日本的な文化に置き換え、「恥」の文化、「曖昧」な文化、その代表が「あいまい」文体の島崎藤村であった、という説をたしか読んだことがあったが。また、日本の文壇の特殊性・閉鎖性などへの批判なども・・・。
久々にその復習を兼ねてのものでした。橋本治らしい執念深さで「自然主義」文学とその表現方法としてあった「言文一致体」に迫る。
再三引用されるのが二葉亭四迷のことば。
「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行(はや)るそうだ。好い事が流行る。私も矢張り其で行く」(『平凡』)
とくに、 「牛の涎のように」という比喩がお気に召したようで何度も引用しています。まさに「だらだら」文体。でも、実際はそうでもないのでは、ということを明らかにしていこうとするが、やはりそうであった、と。そこに、「失われた近代」を求めていく?
花袋の『蒲団』、独歩の『武蔵野』そして、藤村の『破戒』。「人には言えない『=旧』という素性を抱えて隠し続けるがゆえに重苦しくならざるをえない瀬川丑松の胸の内を書くもの」(P144)がどうして四迷のいうところの「自然主義」の「小説」なのか、と。橋本治の「こだわり」が随所に出てきます。
『破戒』は、けっして被差別民の葛藤を描いたのではなく、「言いだしえない」もどかしさがテーマだとする、そうとらえると、『蒲団』も同様。実にだらだらと牛の涎の如く書き連ねる、そこがまさに「自然主義」文学だ、と。作品(もの)を書いたもの(作者)が「自然主義」ではないと言っても、作品そのものは、四迷が提起(半分揶揄)した類いのジャンルになるというわけですね。