では気を取り直して早稲田駅から南西の方角、西武新宿駅をめざして。
早稲田通りから北東方向の路地。このあたりは水路らしき跡は不明。ただ、北にあった建物は道路から下の方にあり、かなり大きな窪地になっていたことが分かります。
右の建物(早稲田大学研究開発センター)は、一階が地下式。このあたりは、「鶴巻町」。支流との合流地点のようにも。
早稲田中、高校舎。正面が渡り廊下。あの下に「蟹川」の流れがあった?
早稲田通り。「高田馬場」駅方向から「穴八幡」方向を望む。右手が「穴八幡」境内。緩やかに東に道が下っています。その辺りが、「蟹川」の流れ跡(右手から左手奥へ流れていました)。右手奥の方が早大文学部、さらに「戸山公園」。緩やかな上り。
早大文学部の敷地脇を通り、「箱根山通り」に。「戸山公園」の入り口です。
運動広場。
せせらぎを模したもの。この公園の周囲はけっこう起伏のある一帯。東も西も高台になっています。ただし、この場所は西北の高台に属し、「蟹川」跡ではないようです。もっと南側がぐっと低くなっています。
東側の高台。その奥の高台には、国際医療研究センターなどの大がかりな研究施設や「戸山ハイツ」などの集合住宅が建ち並んでいます。「蟹川」は東南、西北の高台に囲まれた谷底を北東に進んでいました。
高層の都営住宅西側の崖。住宅側の3階ほど地面が低い。
1920年頃の地図。赤い斜線部が高台、水色の部分が谷底(湿地帯・荒れ地)。なお、ピンク色のところに比べて、薄い緑色の地域の方は、海抜が低い。
「大久保通り」から北東を望む。高台になっています。
「戸山公園」は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷でした。2代藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられました。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園でした(谷文晁による絵巻が現存している)。その後は数度の火災や水害により荒廃し、復興されることありませんでした。
明治維新後、明治政府に明け渡され、跡地には1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後、軍事施設はすべて廃止された。1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園しました。
公園付近は、戸山ハイツといった団地や大学や高校などの文教施設、社会体育館や障害者センターなど公的な施設が多くあります。
《戸山ハイツ》
戦後すぐの住宅難を解決するため、都営住宅が建設されることになり、団地の原点ともいえる「戸山ハイツ」が1949年に完成。1970年代に、鉄筋コンクリートの高層住宅に立て替えられました。起伏の多い土地で上り下りがしんどいことも。また、住民の高齢化問題で話題に取り上げられます。
1階が商店になっていますが、人通りはまばら。
では、「箱根山登山」をします。
●が「箱根山」の位置。
箱根山の登山口。
標高44.6㍍。山手線内で一番高い人工の山(だと思いました)。
けっこう急な登山道。
麓から見上げた山頂。
説明板。
教会と幼稚園の建物の裏手、基礎部分。石造り。この半地下式の石造りの部分は、陸軍戸山学校将校集会所の跡と言われています。どうしてこの場所だけ壊されずに残り、上に教会が建っているのでしょうか?
頑丈な造り。
公園内には緑豊かで静かな散歩道があります。
「紫陽花」がところどころに。梅雨時、初夏らしい雰囲気。
公園のあちらこちらに運動広場があります。お年寄りがベンチに腰掛けてご歓談中。
住宅側から見下ろしたところ。かなりの高低差です。
ここも東の高台から西側を見下ろしたところ。
「戸山ハイツ」の案内図。白抜きが公園一帯。周りの高台に囲まれた窪地。かつては大きな池だったようです。その中を(池の中に)「蟹川」は西北に向かって流れていきました。
「現在地」という表示場所から公園(緑の部分)の中を西北に流れ下ったというわけです。(「大久保通り」に面したところにあった「案内図」。)
緑豊かな公園。都心でこんなところがあったとは驚きです。
「大久保通り」から公園側を見下ろしたもの。かなり下になっています。
やっと「戸山公園」を抜けられました。今度は、「大久保通り」を渡って新宿に向かっていくことに。ところが、どこを行ったらいいものやら。何しろ「大久保通り」はかなり高いところを通っていて、どこも皆、渡った先は下り坂。
「水」は上から下に流れるもの。はてどうしたものか? ということで、ここまで。西武新宿駅はまだまだ先です。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)明治10年代前半のころのようす。競馬場がありました。のちに不忍池に移転しいます。中央付近を南から西からきた流れは今度は北に向かって流れていきます。
早稲田通りから北東方向の路地。このあたりは水路らしき跡は不明。ただ、北にあった建物は道路から下の方にあり、かなり大きな窪地になっていたことが分かります。
右の建物(早稲田大学研究開発センター)は、一階が地下式。このあたりは、「鶴巻町」。支流との合流地点のようにも。
早稲田中、高校舎。正面が渡り廊下。あの下に「蟹川」の流れがあった?
早稲田通り。「高田馬場」駅方向から「穴八幡」方向を望む。右手が「穴八幡」境内。緩やかに東に道が下っています。その辺りが、「蟹川」の流れ跡(右手から左手奥へ流れていました)。右手奥の方が早大文学部、さらに「戸山公園」。緩やかな上り。
早大文学部の敷地脇を通り、「箱根山通り」に。「戸山公園」の入り口です。
運動広場。
せせらぎを模したもの。この公園の周囲はけっこう起伏のある一帯。東も西も高台になっています。ただし、この場所は西北の高台に属し、「蟹川」跡ではないようです。もっと南側がぐっと低くなっています。
東側の高台。その奥の高台には、国際医療研究センターなどの大がかりな研究施設や「戸山ハイツ」などの集合住宅が建ち並んでいます。「蟹川」は東南、西北の高台に囲まれた谷底を北東に進んでいました。
高層の都営住宅西側の崖。住宅側の3階ほど地面が低い。
1920年頃の地図。赤い斜線部が高台、水色の部分が谷底(湿地帯・荒れ地)。なお、ピンク色のところに比べて、薄い緑色の地域の方は、海抜が低い。
「大久保通り」から北東を望む。高台になっています。
「戸山公園」は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷でした。2代藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられました。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園でした(谷文晁による絵巻が現存している)。その後は数度の火災や水害により荒廃し、復興されることありませんでした。
明治維新後、明治政府に明け渡され、跡地には1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後、軍事施設はすべて廃止された。1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園しました。
公園付近は、戸山ハイツといった団地や大学や高校などの文教施設、社会体育館や障害者センターなど公的な施設が多くあります。
《戸山ハイツ》
戦後すぐの住宅難を解決するため、都営住宅が建設されることになり、団地の原点ともいえる「戸山ハイツ」が1949年に完成。1970年代に、鉄筋コンクリートの高層住宅に立て替えられました。起伏の多い土地で上り下りがしんどいことも。また、住民の高齢化問題で話題に取り上げられます。
1階が商店になっていますが、人通りはまばら。
では、「箱根山登山」をします。
●が「箱根山」の位置。
箱根山の登山口。
標高44.6㍍。山手線内で一番高い人工の山(だと思いました)。
けっこう急な登山道。
麓から見上げた山頂。
説明板。
教会と幼稚園の建物の裏手、基礎部分。石造り。この半地下式の石造りの部分は、陸軍戸山学校将校集会所の跡と言われています。どうしてこの場所だけ壊されずに残り、上に教会が建っているのでしょうか?
頑丈な造り。
公園内には緑豊かで静かな散歩道があります。
「紫陽花」がところどころに。梅雨時、初夏らしい雰囲気。
公園のあちらこちらに運動広場があります。お年寄りがベンチに腰掛けてご歓談中。
住宅側から見下ろしたところ。かなりの高低差です。
ここも東の高台から西側を見下ろしたところ。
「戸山ハイツ」の案内図。白抜きが公園一帯。周りの高台に囲まれた窪地。かつては大きな池だったようです。その中を(池の中に)「蟹川」は西北に向かって流れていきました。
「現在地」という表示場所から公園(緑の部分)の中を西北に流れ下ったというわけです。(「大久保通り」に面したところにあった「案内図」。)
緑豊かな公園。都心でこんなところがあったとは驚きです。
「大久保通り」から公園側を見下ろしたもの。かなり下になっています。
やっと「戸山公園」を抜けられました。今度は、「大久保通り」を渡って新宿に向かっていくことに。ところが、どこを行ったらいいものやら。何しろ「大久保通り」はかなり高いところを通っていて、どこも皆、渡った先は下り坂。
「水」は上から下に流れるもの。はてどうしたものか? ということで、ここまで。西武新宿駅はまだまだ先です。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)明治10年代前半のころのようす。競馬場がありました。のちに不忍池に移転しいます。中央付近を南から西からきた流れは今度は北に向かって流れていきます。