ロラン・バルトの遺作・『明るい部屋』をめぐる大学での講義、学生達とのやり取りの中で鍛えられ、より密度の深い解釈に到達していった、その上で、慶應大学理工学部学生に対する「像」や「画像」についての哲学的考察を主とする講座での成果を踏まえての論述。
「写真」を題材として、『明るい部屋』の解釈をめぐるさまざまな角度からの考察が興味深い。特に、ソシュールの言語論、記号論(構造主義)をベースにした(むしろそれを超えようとする)「写真」に対するバルトの論考、思考過程を明快にたどっていく。著者のバルト「哲学」への「読み・受容」の深さをベースにした筆者(と学生との対話を通しての)の哲学的な解明は、まさに理系的(論理的という意味合い)でした。
特にバルトが論じた時代にはまだ普及していなかった「デジタル」写真が今や写真撮影、編集、公開をすべてを占めている(支配している)、現代にあって、バルトの言説を有効性(先見性)あるいは補強を丹念に行っている。それはまた、映像や画像をもとにした正確な情報・データの分析やあるいは情報分析のためのより確かな画像作成(制作)を求められる(それなくしては成り立たない)理工系にとっては、つい陥りやすい「像」「画像」への主観主義的な対応による画像分析の基本的な誤りを指摘している、とも。
『明るい部屋』はバルトの生前最後の本。彼の死(交通事故による突然の死)の2年前母親がなくなった。母の死後、その写真を眺めて暮らしていたバルトは、写真の中に死んだ母親を見出そうとした。
その第1部では著名な写真家の芸術写真が論じられて、知識や教養に応じて写真が与える感動、「ストゥディウム」とたまたま遭遇した事故のように主体の存立をああや浮くさせるような感動、「プンクトゥム」の違い・弁別がなされている。第2部では、「プンクトゥム」の概念を覆す別種の「プンクトゥム」が登場する。日本の「俳句」(バルトの心を奪った)の世界との共通性をも提示する。それは、温室で撮影された少女の頃の母親の写真から触発されたバルトの新たな感動、経験が語られる。写真が母への「愛」を蘇らせる。と同時に自らの死をも暗示させる。・・・
写真は過去の経験を瞬時に切り取り、表すものでしかないが、そこに新たな今生きている者の感動経験を生み出すものでもある、と。
バルトの追体験を彼の書を通じて読者が自らの現在において思考し受容し批判しながら追体験していく、おそらくバルトの多くの作品はそうした楽しみを読者に与える、そこにバルト哲学?の最大の魅力があるのではないか、と思った。遅ればせながら、今、はまっています。
「なにかこれだとひらめいて、わたしのなかに小さな揺らぎを、悟りを、空虚の通過を生じさせたのであった。」
参照:『バルト テクストの快楽』(鈴村和成)
「写真」を題材として、『明るい部屋』の解釈をめぐるさまざまな角度からの考察が興味深い。特に、ソシュールの言語論、記号論(構造主義)をベースにした(むしろそれを超えようとする)「写真」に対するバルトの論考、思考過程を明快にたどっていく。著者のバルト「哲学」への「読み・受容」の深さをベースにした筆者(と学生との対話を通しての)の哲学的な解明は、まさに理系的(論理的という意味合い)でした。
特にバルトが論じた時代にはまだ普及していなかった「デジタル」写真が今や写真撮影、編集、公開をすべてを占めている(支配している)、現代にあって、バルトの言説を有効性(先見性)あるいは補強を丹念に行っている。それはまた、映像や画像をもとにした正確な情報・データの分析やあるいは情報分析のためのより確かな画像作成(制作)を求められる(それなくしては成り立たない)理工系にとっては、つい陥りやすい「像」「画像」への主観主義的な対応による画像分析の基本的な誤りを指摘している、とも。
『明るい部屋』はバルトの生前最後の本。彼の死(交通事故による突然の死)の2年前母親がなくなった。母の死後、その写真を眺めて暮らしていたバルトは、写真の中に死んだ母親を見出そうとした。
その第1部では著名な写真家の芸術写真が論じられて、知識や教養に応じて写真が与える感動、「ストゥディウム」とたまたま遭遇した事故のように主体の存立をああや浮くさせるような感動、「プンクトゥム」の違い・弁別がなされている。第2部では、「プンクトゥム」の概念を覆す別種の「プンクトゥム」が登場する。日本の「俳句」(バルトの心を奪った)の世界との共通性をも提示する。それは、温室で撮影された少女の頃の母親の写真から触発されたバルトの新たな感動、経験が語られる。写真が母への「愛」を蘇らせる。と同時に自らの死をも暗示させる。・・・
写真は過去の経験を瞬時に切り取り、表すものでしかないが、そこに新たな今生きている者の感動経験を生み出すものでもある、と。
バルトの追体験を彼の書を通じて読者が自らの現在において思考し受容し批判しながら追体験していく、おそらくバルトの多くの作品はそうした楽しみを読者に与える、そこにバルト哲学?の最大の魅力があるのではないか、と思った。遅ればせながら、今、はまっています。
「なにかこれだとひらめいて、わたしのなかに小さな揺らぎを、悟りを、空虚の通過を生じさせたのであった。」
参照:『バルト テクストの快楽』(鈴村和成)