おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

山吹町。漱石山房。夏目坂。早稲田駅。・・・(「蟹川」跡をたどる。その2。)

2013-06-10 19:28:18 | 河川痕跡
 江戸川橋通りを渡ったところから「蟹川」跡が続きます。このあたりは、新宿区山吹町。途中、都立山吹高校を経て、西に向かって歩くうちにいつしか道をはずれ、・・・。
細い道ですが、川筋のように微妙に曲がって西(上流)に向かっていきます。
 ところで、「山吹」町の由来は、太田道灌の山吹の里伝説から命名した、と。
 神田川に架かる「面影橋」を新目白通り側から渡ったところに、「山吹の里」の石碑がある、らしい。場所は新宿区ではなくて、豊島区高田1丁目。
 
 太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。

 「山吹の里」の伝説は、湯浅常山が記した「常山紀談」の上記の一節から一般に広まったと言われています。では、その場所はどこか?
 
「Wikipedia」では、

 道灌が父を尋ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだという。豊島区高田の神田川に架かる面影橋の近くにも山吹の里の碑があり、1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があり、伝説の地に比定されている。また、落語にこの故事をもとにした『道灌』という演目がある。

 ここでは、越生と面影橋との二カ所があげられています。いずれにしても、「山吹町」には町名としてのみ残されているということになります。そういえば、都庁近くにある「新宿中央公園」の片隅にも、この話に関連する道灌と娘の像がありますが・・・。


 私には、落語の方がなじみです。 

狭く曲がる道路の両脇は印刷関係の小さな工場や民家が続きます。「大日本印刷榎町工場」の北西付近。
かなり以前に水路としての役割は終えているせいか、道幅が狭くなったり、急角度で曲がったりしていますが、まだまだ痕跡をたどることができます。
来た道を振り返る。下流(神田川)方向。
「蟹川」は左奥の方へ流れていきました。
都立新宿山吹高校。蟹川は、かつては山吹高校の南をかすめるように上流に向かっていましたが、現在は完全に校地内になっています。

 都立新宿山吹高校。無学年制の定時制、単位制高校として旧赤城台高校跡地に1991(平成3)年年4月1日に開校。
 受け入れ先がなかった他高校の中退者などの救済機関としての学校としても設立されたことで、幅広い年齢層が在籍している。
 普通科と情報科の2学科の定時制は月曜から金曜までの平日、通信制のスクーリングは土曜日に行われ、これらの授業とは別に、一般向けの生涯学習講座も土曜と日曜に開講されています。授業の時間割は、生徒各々が自由に科目を選択するシステム。学校行事などは殆ど自由参加が基本である。
 都立定時制高校の中では比較的、大学進学を選択する生徒が多く、これまで国公立大学や、早稲田大学などの難関私立大学にも多くの合格者を出しています。

ちょっと分かりにくいですが、この道路の中央奥(の部分)が少し低くなっています。ここが「山吹高校」を過ぎた「蟹川」の旧水路だと思われます。
 
 さて、広い通り(鶴巻町交差点から弁天町への)を渡ると、水路跡ははっきりせず(見失い)、あちこち歩き回って早稲田通りに出てしまいました。うろうろしているうちに、
「漱石山房通り」。上り坂です。
「漱石公園」入口。
 
 夏目漱石は、明治40年9月、早稲田南町に引っ越した。ちょうど朝日新聞に専属小説記者として入社して半年、その第1作となる 「虞美人草(ぐびじんそう)」を書き上げた頃のことである。漱石は、ここで多くの名作を生み出し、大正5年、49歳で「明暗」の執筆中に亡くなるまで、 住み続けた。この、漱石が晩年を過ごした家と地を、「漱石山房(そうせきさんぼう)」という。
 「漱石山房」の家は、ベランダ式の回廊のある広い 家で、庭には背丈を越す芭蕉がそよぎ、木賊(とくさ)が繁っていた。もとは医者の家で、奥の十畳は診察室として使われていたような板敷きの 洋間があった。漱石は、この洋間に絨毯を引き、紫檀(したん)の机と座布団をしつらえて、書斎としていた。机は意外に小さくて、漱石が小柄 な男であったことを思い浮かべることができる。書斎の手前の十畳間が応接間となっていた。漱石には、門下生や朝日新聞の関係者 など、面会者がとても多かったため、面会日を毎週木曜日に決めた。そして、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け 入れた。これが「木曜会(もくようかい)」の始まりである。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所と なり、漱石没後も彼らの精神的な砦となったのである。(「新宿区」HPより)
 さらに、

 馬場下の実家に程近い住宅地の一角、旧牛込区早稲田南町七番地にある。
漱石が教職を辞して東京朝日新聞社に専属作家として入社した明治40年。その年の9月から没するまでの10年間を過ごした旧居で、「漱石山房」と称された。
 移り住んだ当時は、周辺が不衛生であったという理由でこの地に永住する気持ちはあまり無く、漱石は生涯、家賃35円の借家住まいだったという。
 漱石の死後、遺族は朝日新聞社からの退職金の一部で家を買い取り、大正7年、長女の結婚とあいまって、木曜会の会合に使用していた客間と書斎を母屋と分離させる改修工事を行った。これは当初、この二部屋を記念館として保存させようと考えたのだと伝えられている。
 その後、関東大震災では大きな損傷を受けなかったものの、昭和20年5月25日東京大空襲により早稲田一帯と共に焼失。戦後、土地は都が譲り受けた。のち新宿区に移管され、現在は敷地の一部が区営住宅と区立漱石公園となっている。
 ちなみに、漱石山房で執筆された作品は数多く、代表作としては『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『こゝろ』『明暗』などがある。その後の日本文学界に大きな影響を与えた漱石門弟(漱石山脈)による「木曜会」のサロンとしても利用された。(「NPO法人漱石山房」HPより)

 恥ずかしながら初めて訪ねました。区営住宅、裏手は民家に囲まれた公園。小さな「漱石山房」当時の復元したモニュメント(言っては失礼だが、芝居のセットみたいな代物)が二つ。
あっけないこと、おびただしい。
「夏目漱石終焉の地」の説明板。周りを民家に囲まれて落ち着いた雰囲気はまるでなし。背後の民家では、色とりどりの洗濯物が満艦飾。写真でカットするのに一苦労。
「漱石山房の記憶」と称する説明板。

 気を取り直して早稲田駅の方へ。
「夏目坂」。
 夏目漱石の生家がこの坂の途上にあったことから、この名が命名された。漱石自身も随筆『硝子戸の中』の中で
「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。」と。

 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。平成十四年三月 新宿区教育委員会(「碑文」)
上を望む。此の記念碑の前はコンビニ。気づく人もいない(地元ではなじみの深い?坂)。
「夏目漱石誕生の地」の記念碑。かなり立派。
 「碑」の下部に説明文。
 
 夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ、明治の教育者・文豪として不滅の業績を残し、大正5年(1916年)12月9日新宿区早稲田南町七において没す。生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ。
 
 碑の後には東京都新宿区教育委員会の詳しい説明板。

新宿区指定史跡 夏目漱石誕生の地 所在地 新宿区喜久井町一番地 指定年月日 昭和六十一年十月三日
 文豪夏目漱石(1867~1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。
 夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のときに夏目家に復籍している。
 なお、この地での幼少時代のことは大正4年に書かれた随筆『硝子戸の中』に詳述されている。
 また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
 平成3年11月

 下町と違ってかなり起伏に富んだ道筋。上ったり下ったり・・・。東京メトロ「早稲田」駅前で、今回は、終了!
コメント
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