11月23日(祝)。曇り。風冷たし。水戸街道第2日目となります。
我孫子に知人がいるので、うまくしたら飯でもご馳走してもらおうかと、そんな魂胆で。
北小金駅を降りて前回の「道標」のところまで。「小金宿」から「国道6号線」に向かいます。

(9:28)今日はけっこう肌寒い。イチョウ並木。

国道6号線との交差点が「根木内」。左側の丘陵が「根木内城跡」。


「北小金」駅方向を振り返って望む。
一帯は、「根木内歴史公園」として整備されています。丘陵奥に広がっています。

(9:37)案内板。


根木内歴史公園
松戸市内には戦国時代の城郭が10ヶ所以上あったと考えられています。残念ながら大半は急激な市街化によって消滅してしまいました。当時の面影を残しているのは、ここ根木内城跡と小金城跡の2ヶ所です。
根木内歴史公園には、「空堀」「土塁」「土橋」などがよく残されています。戦国時代を物語る歴史遺産として、地域の誇りとも言える遺跡です。・・・
城のはじまり 戦国時代がはじまった15世紀中ごろ
築城者 原氏または高城氏(下総国守護千葉氏に関わる武家)
城の役割 小金城の東側を守る拠点・街道の監視など
城のおわり 豊臣秀吉が天下統一を果たした16世紀末(1590年ごろ)
城郭の規模 東西200m、南北500m(公園の南北を含む推定範囲)
ゆるやかな坂道を行くと、「柏市」に入ります。


右手に庚申塚。


民家の入口付近にあった聖徳太子塔・庚申塔。「中新宿村」とあります。

(9:57)その先、香取神社の境内に「一里塚の碑」。


一里塚の碑
この香取さまの社頭 南北に通う道は 江戸と水戸との往還 水戸街道であります
むかし街道には 一里毎に土を盛塚となして 榎の木を生やし 旅人たちの目じるしとも 濃い陽射しには憩いの日陰を 俄かの雨には頼みの木立を それは嬉しくも美しい 自然と人間との かかわりでもありました
ここにも 一里塚があって 長い年月の程を朝に夕に 往き来の人を 送り迎えた榎の巨木は 幾とせか前に枯損して 塚は毀ち均され これは植え継がれた榎です
過ぎゆく 忽忙の歴史の彼方に そこはかとなく 忘れ去ることの忘却を想い この碑を建てました
昭和六十二年秋 氏子総代
下陰を さがしてよぶや 親の馬 一茶
注:この句は、小金牧の放馬を詠んだ句で、季語は下陰。一茶(この頃、48歳)は、文化7年(1810年)6月14日、流山から小金原を経て守谷に向かいます。
十四 晴 小金原 布施村中食す。守谷西林寺入。将門旧迹所々に有。(『七番日記』より)
余談ですが、「七番(しちばん)日記」は、一茶48歳から56歳までの句日記で、特に若い妻をめとり、「交合」(セックス)の回数などの記録が赤裸々に綴られているのでも有名な生活記録「日記」です。昼夜を分かたず交合し、子作りに励むようす、精力剤のことなどもあり。(まさかこうして公にされるとは思っていなかった? ということはないでしょうが。)
「七番日記」中、有名な句を一句。痩蛙まけるな一茶是に有
旧道沿いには農家風の古いおうち。

(10:19)直線の旧道は、かつて松並木になっていたそうです。
解説板。

水戸街道の松並木
江戸時代、水戸街道(水戸道、水戸道中)は、江戸と水戸を結ぶ重要な街道でした。日本橋から千住、江戸川を渡り、松戸、柏の小金牧の中を通り、我孫子で利根川を渡り取手、牛久、土浦を経て水戸に至る行程です。現在、この旧道に沿って国道6号線やJR常磐線が走っています。
水戸街道は、水戸藩士の通行や旅人の往来に使われていましたが、広大な原野である「小金牧」を通過するため、道に迷うことがあったようです。そこで、水戸藩から資金を与えられた街道に千本の松を植え、道しるべの役割としたのが、松並木のはじまりといわれています。
昭和50年代までこの付近には、当時をしのぶ松並木が見られましたが、付近の環境が変わり、松も老木となったりして切られ、現在では残されていません。
平成19年10月 柏市教育委員会
現在のようす。「南柏駅東口」交差点を過ぎた先、「とんこつラーメン店」のところから西に「日光東往還」が始まっています。常磐線跨線橋を渡って西北に向かいます。

日光東往還
日光東照宮参詣の為に造られた日光街道の脇往還である。水戸街道小金宿 - 我孫子宿間の追分と日光街道石橋宿 - 雀宮宿間の追分を結んでいた。
日光東往還は、水戸街道小金宿と我孫子宿の間、向小金より北東、かつての小金牧内、現在の柏市豊四季字新木戸(JR常磐線南柏駅付近)で分岐し、関宿、結城といった城下町を経て、日光街道石橋宿と雀宮宿の間、かつての河内郡茂原新田御料、現在の下野市下古山と河内郡上三川町鞘堂の境付近(JR宇都宮線宇都宮貨物ターミナル駅付近)で日光街道に合流する官道であった。その道程は20里34町(約82キロメートル)に及ぶ。参詣目的のほかに周辺大名の参勤交代や物資の輸送、庶民にも利用された。関宿道、結城街道、結城道、多功道という名称もあったほか、江戸幕府による正式名称は関宿通多功道であった。
現在、周辺住民からは旧日光街道と呼ばれるほか久世街道、結城街道などとも呼ばれる。前述の南柏駅付近を走る国道6号には「旧日光街道入口」という交差点も存在する。
(以上、「Wikipedia」参照)
(10:25)その付近にある「新木戸」バス停。










(10:43)JR柏駅前の賑やかな街並みに。

《付》
小金牧 ~開墾と野付村の生活~
水戸街道を松戸・小金宿を過ぎて北に向かうと、土手に囲まれた木戸に突き当たります。茶店があり、木戸番に頼んでその木戸をくぐると、小金原・上野牧に入ります。旅人を誘う松並木が植えられ、野馬たちには炎天を遮る日陰を提供してくれていました。「下陰をさがして呼ぶや親の馬」と一茶が詠んだのもこの辺りでしょうか。この原は小一時間で柏の木戸(現在の旧水戸街道千葉銀の辺り)を出て再び街道に出ます。水戸街道を旅する誰もが通過する小金原の道でした。

小金が原は40里野とも呼ばれ、佐倉牧と共に下総台地中央を南北に連なる牧の総称です。高田台牧(十余二)、上野牧(豊四季)、中野牧(初富・五香・六実)、下野牧(二和・三咲)、印西牧(十余一)の五牧があり、約2千頭弱の野生馬が育まれていました。江戸の中期までは野生の鹿も多く、ごくまれにはオオカミも生息していたという記録もあります。200年前には、この北総の原にオオカミがいたことを想像してみて下さい。他にもイノシシやウサギや、狸や狐などが駆け回る自然があったのです。
牧と周辺の集落は、野馬土手(野馬堀)と谷津で緩やかに仕切られ、水田の用水と野馬の飲み水は共用していました。この様な広大な原野が広がっていたのは、海抜20メートルほどの痩せた赤土の北総台地上でした。水が乏しく風の早い原地で(風早という地名も残っている)、森林にもならない不毛の荒れ地が多かったようです。幕府や御三家の鷹場が設定されたためか、江戸からわずか30キロ圏とは思えない程、自然に囲まれていたのです。現在の人口急増の旧東葛飾郡の市街地への変貌は、明治維新に始まる小金原開墾以後の事です。
(以上、
