く型の街並みです。駅や国道から離れているため、静かな通りになっています。
(13:29)左側の重厚な門の脇に、「明治天皇牛久行在所(あんざいしょ)跡」と刻まれた石柱が建っています。

明治17(1884)年12月、名主の飯治左衛門宅に明治天皇が宿泊した記念に建てられたもの。
明治天皇の牛久行幸は、女化原(現牛久市女化町・さくら台付近)で行われた近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的訓練を視察するものでした。

牛久宿には、小川芋銭、河童碑や牛久城などの史跡、遺構があるようですが、先に進みます。
く型の曲がり角に近づきます(13:34)。左側には「正源寺」。

あまり宿場らしいものはない中で、お寿司屋さんの看板。
直線の旧道が「国道6号線」に向かっていきます。
左手にお豆腐屋さん。我が家でもなじみの「三代目茂藏の豆冨」直売店。
お店そのものは慶應4年創業とか。
旧道の脇にある古木。
(13:46)しばらくして水戸街道に合流します。
たわわに実ったキンカン?
国道の右手にある「牛久駅」で終わろうと思いましたが、まだ陽も高いので20分ほど小休止して再開。その先、田宮(「たみや」ではなく「たぐう」)地区に入ると左手には「薬師寺」の案内板。

(14:31)「東京まで52㎞」ポスト。およそ半分の距離。ただし、旧道はけっこう曲がって進むので、もっとかかる?
しばらく先で左の旧道に入る。くの字型。
すぐに「国道6号線」に合流。
以前は藁葺き屋根だっただろうおうち。
沿道には大きな屋敷も。

(15:04)前方には「圏央道」の橋脚が見えます。
「小野川橋」を越えます。
「小野川」は、つくば市谷田部小野崎に源を発し、霞ヶ浦に注ぐ延長36.5kmの一級河川。江戸時代、小野川流域に薪炭林としてのアカマツ林が広がっていました。江戸への燃料供給元とされ、当地で集められた薪は付近の農作物などとともに江戸まで舟で運ばれていた、とのことです。
「牛久」の先の駅「ひたち野うしく」駅まで行くことにします。
次第に夕陽に照らされる家、家。
(15:12)
晩秋の日の落ち方は急速。まさに「つるべ落とし」。あっという間の夕暮れ。強風がますます身にしみてきました。
(15:24)
「ひたち野うしく」駅入口。
今回はここまで。
JR「ひたち野うしく」駅は1985(昭和60)年の「つくば万博(国際科学技術博覧会、科学万博、つくば '85)」の最寄り駅として作った駅。今でもなかなかモダンな駅です。
(13:29)左側の重厚な門の脇に、「明治天皇牛久行在所(あんざいしょ)跡」と刻まれた石柱が建っています。

明治17(1884)年12月、名主の飯治左衛門宅に明治天皇が宿泊した記念に建てられたもの。
明治天皇の牛久行幸は、女化原(現牛久市女化町・さくら台付近)で行われた近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的訓練を視察するものでした。


牛久宿には、小川芋銭、河童碑や牛久城などの史跡、遺構があるようですが、先に進みます。
く型の曲がり角に近づきます(13:34)。左側には「正源寺」。


あまり宿場らしいものはない中で、お寿司屋さんの看板。

直線の旧道が「国道6号線」に向かっていきます。

左手にお豆腐屋さん。我が家でもなじみの「三代目茂藏の豆冨」直売店。



旧道の脇にある古木。

(13:46)しばらくして水戸街道に合流します。

たわわに実ったキンカン?

国道の右手にある「牛久駅」で終わろうと思いましたが、まだ陽も高いので20分ほど小休止して再開。その先、田宮(「たみや」ではなく「たぐう」)地区に入ると左手には「薬師寺」の案内板。


しばらく先で左の旧道に入る。くの字型。

すぐに「国道6号線」に合流。

以前は藁葺き屋根だっただろうおうち。




(15:04)前方には「圏央道」の橋脚が見えます。
「小野川橋」を越えます。

「小野川」は、つくば市谷田部小野崎に源を発し、霞ヶ浦に注ぐ延長36.5kmの一級河川。江戸時代、小野川流域に薪炭林としてのアカマツ林が広がっていました。江戸への燃料供給元とされ、当地で集められた薪は付近の農作物などとともに江戸まで舟で運ばれていた、とのことです。
「牛久」の先の駅「ひたち野うしく」駅まで行くことにします。

次第に夕陽に照らされる家、家。

(15:12)

晩秋の日の落ち方は急速。まさに「つるべ落とし」。あっという間の夕暮れ。強風がますます身にしみてきました。
(15:24)

今回はここまで。
JR「ひたち野うしく」駅は1985(昭和60)年の「つくば万博(国際科学技術博覧会、科学万博、つくば '85)」の最寄り駅として作った駅。今でもなかなかモダンな駅です。